狂言『横座』
もうすぐ、ひな祭りだね。
本業の…?舞台撮影に昨日復帰。
演じられた能は『熊野』(くまの、ではなく…ゆや、と読む)、『須磨源氏』の二番。
狂言は『横座』…野村万作師。
私は、能の粗筋や作品研究はブログにも書くが、あまり能評や、舞台感想は職務的な理由も含まれるのでやらない。
しかし、昨日の狂言『横座』は仲春らしい季節感に満ちていた。横座と名付けた一頭の牛を巡り牛買いと、牛を拾った男との人情小話である。
小さな佳作であり、大曲ではない。
何より、万作師の衣装『肩衣』に描かれたマンサクの花が、春ならではの演出として成功していた。
軽い洒落なのだろうけど粋である。
牛、マンサクの花、牛買いの男達…どこかの地方、早春の山道を行く農夫、そういう風景が目前に広がる。
民俗学者宮本常一著『失われた日本人』には、私の記憶違いでなければ…四国の山間部に暮らす農民が、痩せた牛を立派な牛に育て上げる話が記述されている。
『横座』を見ながら、そういう時代の景色に浮かびあがる人々を思った。
一頭の牛でも大切にして愛する昔の人々、それは現代人がいつしか忘れてしまった生命観なのだろう。
能『熊野』も都の桜が主題である。
古典の楽しみは、行間から季節の色彩を楽しめる事だ。
続…火中の栗は拾えば食えるはずだ。
一人で飲みに行く…私にも、いわゆる常連的な使い方の居酒屋が幾つかある。
一人で飲みに行く、というのは単純に寂しい事もあるが、人と接するための、社会勉強であったりする。そこは、全てに満足足りる店というより、不満もあればこその店、または友人をつれて行きたい店もある。
『あの店は、もう好きではないんだが、常連になっているから、仕方なく俺は顔を出してやるんだ…』など不遜な考え方は不純であり、精神的に良くない。
似たような話をもう一つ。先日まで峯岸みなみMCで『小兎道場』という番組があった。(みぃちゃんは降板だろうから、私は過去形である。)
先日、ゲストにグラビアで名前が売れたらしい『壇蜜』が来た。
番組内で、壇蜜があげた良い女になる条件に『テレビ番組を見ながら突っ込みや悪口を言わない事…』なる項目があった。彼女曰く…『そういう人は、テレビ内容に不満があるのではなくて、実は自分の環境に不満があるからテレビの前で悪口が言うんです…』
…ん?
心の中でパチンと指が鳴った。
そうなのだ。陰で悪口やら批判しながら相手と付き合う。
それが意見として、良いことを言っているように思ったりする。総じて、ネット上で散見される社会批判など典型的な現象例だろう。
昼間、BSテレビで久松精二監督・森繁久弥主演『警察日記』を放送していた。
戦後の苦しさや貧しさを、おかれた立場から微力でも補って行こうとする人々を描く。本当の善意とは、物の哀れを知った上での無償の愛なのだと思う。
あえて面倒な事を抱えても、惜しみ無く愛してみる…そこから、もう一度だな。
あえて火中の栗を拾う。
この数日、一つの話題に執着して更新している。
昨年からブログ題として、気が向き度に『峯岸みなみ』を扱ってきた。
推しに選んだ理由は、この場には幾度も書いたので省く。
しかし、一連のスキャンダル報道に接して、ファンの方々が更新しているブログを拝見した。そこを踏まえて…。
我々ファンはを裁判員、検察や弁護士でもない。
犯罪者をリンチにかける大衆でもない。
失望したならば、ファンを辞めれば良いだけの話だ。
冷笑を浮かべて、パソコンやスマホ片手に、バッシングしても聡明な行動とは思わない。
許さざるも、許すもない。広い意味で芸能とは、様々な要素を含む。アイドルとアダルトの差など僅差だ。
彼女の、今後進む方向など私にはわからない。それでも、彼女自身は身の才能を磨く必要がある。アイドルとしては破綻したが、松田聖子や安室奈美恵と同じく『アイドルとしての匠』を目指してほしい。
一人の人間、その才能を開花させるには無償の支えが、時には必要なのだ。
ゆえに…私は『火中の栗』を拾う事にした。
だってさ…歌いやすい楽曲が多いし、歌や振りを覚えるのが楽しいんだよね。
音痴気味に(たまにフラット♭気味なんだ…)を矯正するのに、彼女たちの歌は絶好のアイテム。
エビカツや言い訳maybe、ギンガム…は気分が明るくなるよ。
こんな先が見えない時代だし、明るい方が良い。私には話題のアベノミクスだって、日本経済の真実とは思えないからね。


