今は昔。連休でも父は仕事だった。
五月連休に入った。
墓参りで都内を出る。
北関東、東北地は季節外れに寒い。このまま冷え込むと、田植えに響く…水の入った水田を見ながら、少し案じたりした。
仕事を離れたので、持ち出したカメラもフィルム機材中心にした。
カメラを下げて街をゆく。路地裏の空き地に一輪に咲く薔薇とか、偶然に話をした人々をスナップする。確かに、街中のスナップは撮影自体が難しくなったのを肌で感じる。
しかし、映像の記録とは公共機関や一部のメディア専属の写真家による特権ではない。本来は撮影したいと望む人が、その意図に基づいてなされる作業だ。
街頭のスナップも同様であるべき…とは思う。
スナップ撮影は犯罪行為ではないが、リアルに人々の生活や現実を捉える以上、直接間接を問わず『存在への批評』となる。
その批評行為を、個人の自由と認めるのか。
もしくは、誰かが自由を許可したという名の首枷を必要とするのか。
答えはない。
今の私には、命題として『表現の自由』を持ち出す意図にはない。
しかし、『表現の自由』への選択肢が狭まれば、そこに批評性は喪失するはずだ。
ここまで書いて『批評』という言葉が、どうも適切でないように感じる。
つまりだ、同時代へ新しい思潮を提示したい…という作家の欲望と言い直そう。
しかし、撮影行為を理論化すると陳腐になる。まだ私の修行が足りないのだろうね。
あと、何年待つのかな…?
近所の市営アパートが取り壊しになる。
その中庭に咲いていた椿。
たぶん、今年が最後の花だろう。
椿は運命を知ってか…花を身に一杯咲かせて、自らに悼辞を詠んだ。
そんな花盛りを見て、ふと、部屋で数輪の椿を生けてみた。
さらに…花が散った、その枝を鹿沼土に挿し木。
果たして、この枝は根がつくかな。
上手く根がついたら、この『椿』に名前をやろう。
しかし、花が咲くのは何年先になるのか。
まだ、ずいぶん先が遠い。
数日後。さらに、廃アパートを少し探検してみた。ベランダに望む庭には、以前の住人達が植えたツツジやアジサイがあった。
鉢植えのサボテンが半分乾いたまま転がっていたりする。
主を失った植物は寂しい。もう、愛でる人がいないのだ。
やがて私も去って行く。
それは一抹寂しい事実だけど、今は大切に世話をしてあげるのが、植物と人の『縁』なのだろうね。
三方良し
休日に入ったが、機材背負って移動。
あまりに体に堪えるので、その疲労対策として酒の量が減った。
せいぜい…缶ビール1缶ぐらいだ。
酒が減ったのは、確かにつまらない。
しかし、飲みに行く楽しみより、翌日の疲労から来る失敗が怖い。
つまり…歳には勝てないね。
とは言え、ふと入った店で出会った人との、楽しい酒の時間は『縁』として得難いものだ。
人に会う、という事を『縁』と考えるならば、私と相手との関係ばかりでなく周囲も含まれるだろう。
『三方良し』…そんな言葉が江戸時代、近江商人から生まれたのだとか。
売り手、買い手、その環境を三方揃って
良好な関係を築く。
自分の仕事においては、まだ未熟にして至らぬ場合を感じる。
むしろ、俺は成長したとか、舞台撮影を極めた…と考え出したら、それが堕落なんだろうね。


