今は昔。連休でも父は仕事だった。
五月連休に入った。
墓参りで都内を出る。
北関東、東北地は季節外れに寒い。このまま冷え込むと、田植えに響く…水の入った水田を見ながら、少し案じたりした。
仕事を離れたので、持ち出したカメラもフィルム機材中心にした。
カメラを下げて街をゆく。路地裏の空き地に一輪に咲く薔薇とか、偶然に話をした人々をスナップする。確かに、街中のスナップは撮影自体が難しくなったのを肌で感じる。
しかし、映像の記録とは公共機関や一部のメディア専属の写真家による特権ではない。本来は撮影したいと望む人が、その意図に基づいてなされる作業だ。
街頭のスナップも同様であるべき…とは思う。
スナップ撮影は犯罪行為ではないが、リアルに人々の生活や現実を捉える以上、直接間接を問わず『存在への批評』となる。
その批評行為を、個人の自由と認めるのか。
もしくは、誰かが自由を許可したという名の首枷を必要とするのか。
答えはない。
今の私には、命題として『表現の自由』を持ち出す意図にはない。
しかし、『表現の自由』への選択肢が狭まれば、そこに批評性は喪失するはずだ。
ここまで書いて『批評』という言葉が、どうも適切でないように感じる。
つまりだ、同時代へ新しい思潮を提示したい…という作家の欲望と言い直そう。
しかし、撮影行為を理論化すると陳腐になる。まだ私の修行が足りないのだろうね。
