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不安の力…転がる石である片山陽加

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私的『片山陽加論』

片山陽加…彼女の詳細は省く。ちなみに写メは片山陽加の足。


世間には必ずライバルという相手が存在する。その分野で優れた能力を自分が持っていても、少しだけ相手が上手であり、さらに運も強い。

終生、相手をライバルと呼ぶよりも後塵を拝したままで終わる。それは、たいていの者が味わう世の苦き水でもある。


まさに片山陽加とは、そういうアイドルの一人だ。
しかし、ここで強く理解して欲しいのは、彼女が十人並み以上の容姿と舞台能力に優れている点だ。


紛れもなく女子力に溢れた『美人』である。舞踊能力も高い。歌唱力は…まだ発展途上だが、魅力的な歌声である。ナレーションや朗読ならば十分に仕事が出来る。

だが…非選抜。

シングル曲に入った事は一度もない。

しかし、考えてみると、世の人材が集中する世界には必然の結果なのだ。その悲哀を身に浴びていると言って過言ではない。しかし、その視点で眺めると優れた人間はざらにいるもので、そこから這い上がる者(例えば、峯岸みなみ)もいる。

片山陽加は、手段を選ばずに這い上がる野心家ではない。むしろ、常に不安や怯えを抱えつつ、組織の調和やら、人間関係を維持しながら職場と仕事を得る良妻タイプだ。彼女が演じる『昭和アイドル』風体とは、何より安心感なのだ。


しかし、本書『不安の力』にて著者は、いみじくもエピローグにて…ぼくは転がる石のように生きていたいと思ってきました。…とある。

かの秋元康の作詞した曲にも『転がる石…』がある。

転がる石は傾いていて、歪な姿だ。だから動く事が出来るし、進む事も出来る。

世の流れに押されながら、先へ進む『転がる石』とは不安定を、生きる力に変えた姿と言える。


ゆえに…片山陽加が不安を恐れずに、むしろ不安定を力として生きて欲しい…ここに、そういうメッセージ、この本を彼女に担当させた企画の真意があるのならば、良いスタッフいて、運が彼女にある…という事だ。
単にスポットライトを浴びて意味もなく微笑むよりは、彼女らしい舞台にも思う。

蛇足…改めて、二人の推しとして、私の努力が足りない事を反省。

不安の力…補足の2

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ナツイチ・集英社文庫『不安の力』五木寛之著 担当片山陽加

謡曲『大会・だいえ』には、ある老僧の恩に天狗が報いて釈迦の説法を演じてみせる約束をする。しかし、我々天狗達の芝居なのだから、けっして信心を発心しないように…念じられる。

やがて、天狗達が登場して釈迦や弟子達羅漢に扮して説法の場を演じるが、見事な有り様に老僧は天狗との約束を忘れ、思わず合掌をしてしまう。その刹那、帝釈天が下ってきて天狗達を成敗する…。


似たような話は他にもある。山寺にお釈迦様が降りてきて説法を見せるという噂がたった。
ある日、一人の猟師が寺に来て説法を見たいと言う。その夜、やはりお釈迦様の来仰があったが、猟師は光輝く釈迦に矢を放つ。明くる朝、そこには大きな狸が死んでいた…。


おとぎ話的な展開だが、ここにひとつの答えがある。

人の目に見えるもの、向こうからやってくるもの…天の啓示など、あるいは光が口から飛び込んだなど(空海の逸話にはある)

本書・暴発するかも知れない自分への不安より…『仏に会えば仏を殺せ』と禅家では言います。座禅をしていると、仏に会う瞬間があるらしい。しかし、それは魔だから殺せと言うのです。


目前に来仰した菩薩の姿を、ありがたいものとして受け入れるのか。一度、改めて解釈した上で、やはり菩薩の来仰として、ありがたく受け入れる。

そこに幅があり、『肯定』がある。

さて…混濁は昨夜からだが…ここから、強引に『片山陽加論』に入ろう。

五木寛之著・『不安の力』…担当片山陽加

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集英社文庫『不安の力』五木寛之著 担当片山陽加


すでに読了していたが、エッセイと呼ぶには内容が説法に近い。すでに熟知の通り五木寛之の講話…である。


この本を理由もなく片山陽加に担当させたのか。それは彼女の選択か、あるいは偶然であるのか。

当ブログで峯岸みなみについて触れる事は多々あるが、他の推しについては言葉多いとは言えない。

と…ここまで書けば、当然の流れとして『片山陽加論』の展開になるはずなのだが、一方で本書内容に絡めて幾つかの能の作品論を同時多発的に思い付き、いささか混濁している。


三十年前だったか、五木寛之がラジオのパーソナリティを深夜やっていて、たまに聞いていた(生放送ではなく録音だろう)

『夜は短く、人生もまた短い…』そんな語りで始まっていたような記憶がある。

さて…。


どちらつかずが一番良くないな。


一言、思い付くのは本書を片山陽加に担当させた責任者なり人物がいるとするならば、中々の慧眼による彼女へのアドバイスだと思う。

また、彼女自身が本書を選んだのならば、そこに我々への問いかけもあろう。


他人へ一冊の本を薦める行為とは、相手への問いかけと同時に、推薦者である自分自身に対する問いかけがなされて、初めて成立ものだ。


だから…小、中学生時代、夏の課題図書が一番苦手だった。


落ちこぼれ学生の屁理屈だけどね。