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一度喪失したら戻らないもの

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今さらながらに『戦艦』のネタを振ったのは、謂わば様々な社会システム、その中には『原発』の在り方に対する一考も含む。

巨大なシステムも、所詮は人が動かす。その人々に恩恵があれば幸せであるが、負託と犠牲の上に成り立つだけならば、いずれは破綻する。

原発が、今後はいかなる未来を得るのか…そこは問うべきだ。
あるいはAKBグループ(私が峯岸みなみのファンである以上、触れずにはいられない問題)…にしてもアイドル集団として何が必要であり、それは当グループでなければ表現が不可能な商業演劇であるのかは、常に関係者は自問自答する必要がある。

ましてや運営側が腐敗したような事件は対処せねばなるまい。社会規範に関しては企業当事者は厳しく問われる。
半年前、峯岸みなみの朝帰りはスキャンダルではあるが恋愛沙汰である。彼女が『やらかした』事よりも、事後の処理が話題になったのは確かだが、問題が異なる。しかし、週刊誌記事に掲載された戸賀崎氏の行動は真実は元より、まず自らの是非を明らかにしておく立場が彼にはある。彼は将来ある未成年の女性を預かる責任意識を、今は失いつつあるように見える。

外部の者が見たら犯罪者の集まり的な人間関係になってからでは間に合わないからだ。

ふと…戦艦の話繋がりで狭い話になるけど、米軍の攻撃で撃沈された某主力艦に出張で行った参謀の回想録を読んだ時、著者によれば『艦内の人間関係は士官から水兵に至るまで吐き気を催すくらい悪化していた…』とある。そこには、上層部による作戦指導とは別の問題を抱えていた実態があり、すでに戦わずして敗北していたようにも思える。

ゆえに巨大なプラントや社会システム、商業集団の運用で、一番怖いのは『人間性の喪失』という事だ。

そのシステムが我々に幸せをもたらすのか、そのシステムである必要は如何…そこが要だと思う。

戦艦は必要であったのか。


写真は米国戦艦ワイオミング…太平洋戦争では、すでに旧式であったが、米軍は主砲を撤去し多数の対空砲を装備して、対空訓練用艦として活用した。もはや軍艦は航空機には勝てないという事実を冷静に判断し結果である。

今さらだがブログ名フッド、HOODという名は旧英国海軍巡洋戦艦HMS・HOOD に因んでいる。戦艦というフネは過去の兵器、遺物である。しかし、航空機が飛躍的に発達する時期までは各国とも競うように建艦競争を展開した。

巡洋戦艦HOODも、そういう一隻だ。巡洋戦艦は、高速と戦艦並みの主砲を武器に敵艦隊の主軸にカウンター攻撃を仕掛け、撃破する目的で意図された艦種である。従って戦艦に比較して、幾分だけ防御は弱い。このカウンター攻撃による優位性質も、さらなる航空機の発達により陳腐な兵器に変わってゆく。

第二次大戦時には、HOODは速度は早いものの、相手戦艦の主砲弾を防御しきれない危うい戦艦として扱われ、軍艦としては優美なシルエットだけが自慢の存在に成り果てていた…。

戦艦でなければ、成立しない作戦というカテゴリーが航空機の前に皆無となった事実。

そこを早く気がつくか、気がつかないかで海上の覇権争いは差が付いた。

戦艦とは、現代社会に置き換えると、それは原発であり、パソコンやネットワークであり、テレビや新聞なども含むマスメディアかも知れない。それが無くては社会生活や企業活動は不可能であるのか。またコストは見合うものであるのか。

ある日、外側から別の主体が出現して、それまで主軸であった既存の体系が置き捨てられてゆく。

戦艦HOODは 相手ドイツ戦艦が放った一発の砲弾に弾薬庫を粉砕され、瞬時に爆発して轟沈した。数名の乗員しか救助されず悲劇の戦艦でもある。また、その相手のドイツ戦艦も数時間後には一機の英軍の旧式複葉雷撃機が放った魚雷で致命的損傷を受け、英国海軍に沈められた。
つまり両者の沈没はともに『戦艦』は時代遅れの兵器という実証であった。

我々の暮らしの中で、それが無ければ本当に幸せになれないのか…『戦艦』を別の対象に置き換えて考える必要は常にあり、でなければ、間違いなく危機が訪れる…しかも、その時では遅いのだ。

虚構性スナップ写真


仕事ではデジタル専撮影だが、自分の作品テーマはフィルムで撮影している。


しかし、考えてみれば先程の河原で出会った二人組を撮影した場合、フィルムだけでは撮影が先に進まないようにも思える。

どんな写真になったのかデジタルで撮影した映像を見せて、マニュアルカメラの撮影で勝負する…それが被写体である二人にも都合が良い。


やはりサブにデジタル一眼を用意するか。

最近、盗撮が話題になる。連日のように誰かが検挙されているかのような印象さえある。

私もカメラ持参で出掛ける場合がほとんどだが、どこに行っても同様だけど、その相手を撮ると決めたら私は声はかける。あるいは何かサインを送り、撮影に入る。

単に幸運なだけなのかも知れないが、相手からの協力を貰えている。

ただ、積極的に若い子だけを追ったわけでもなく、そこは惰性と成り行きのスナップだ。

そうなのだ。惰性と成り行きでは作品世界になり得ない。

作家性を有するには、もう一歩だな。虚構性を持ち込む必要がある。
能の撮影はドキュメント、ノンフィクションであり作家性質は希薄で、自分の世界を何とか表現するには、別の被写体を求めるしかない。

本当は能で、そこを描けたら(撮影)、今の壁を破れるのだ…と思っている。