杞憂であれば。
桜散る
やはり一言くらいは書き込まねばなるまい。昨日の昼間、理研研究員小保方晴子氏の記者会見テレビ中継を見ていた。
さながら西欧中世の異端審判・魔女裁判を彷彿とさせる展開に、私は次第に気持ちが重くなった。記者達の質問、小保方氏の答弁、そのいずれにも『科学の存在』を感じなかった。
科学とは、同一の手順で誰が行っても成功する学問であり、理念哲学の一部である。個人の成功例と、その『私によるレシピ…云々』では証明不可能であり、そこの説明が小保方氏は甘い。そして卑怯でもある。
加えて情けないのは、記者連の質問だった。科学に対応する見識や知識など欠片も感じない質問が多すぎた。
私は『マスゴミ』という言葉の存在自体、この言葉を使う人間も信用していないが、今日に限って言えばまさに日本のジャーナリズムとは『有象無象』の集団に堕落したのではあるまいか。
あるいは…私は写真家として撮影を生業とするが、、今日の記者会見場に集まった各社カメラマンの操作するフラッシュ、狙い通りのシーンに殺到するシャッター音…それは非礼、無礼の極みでもある。
彼女の何を写しとり、伝えたいのか。いや…君たちにはプライドはないのか。
繰り返しになるが、この一件の背後にある科学の可能性と期待を考慮した発言や行動が皆無であり、実に残念だった。
その点で理研の頂点に位置する野依氏の責任は重大であろう。
何より、危惧されるのは我々の社会が、今回のように『劇場型』に変質して、空気を読むだけの世相を是とするように支配されつつあるよに見えることだ。
これは怖い。杞憂であれば良いが、杞憂であるより確実に社会が破滅に向かう。
一つだけ私が知りたいのは、大抵の小中学では校長や教員が社会時事を説明する場がある。いわゆる『先生のお話』の時間だ。
そこで教員が、児童学生達に今回の一件を、どのように伝えて解釈を下しているのか。
旧聞に属するが、私の小学生時代、世は列島改造論で沸き、最も偉大な人物として尊敬されるべき、と…教員等が取り上げたのは、当時の田中角榮首相であった。
しかし、その後の展開で教員等が口を拭うように沈黙したのも事実なのだ。
さて…今回、教育現場では、どうなのか。
やや心配ではある。



