HOODのブログ -162ページ目

寸の虫にもあらばこそ

mini_140911_170400010001.jpg

前掲のルリタテハの幼虫。そのアップ。

背中の棘が刺さりそうだが、軟質プラスチックみたいな感触で柔らかいのだそうである。まだ試してはいない…毒虫であるイラガの棘に似て触るには勇気が必要。

ルリタテハの幼虫を例えて、ウミウシに似ているという意見は言い得て妙だ。

どちらかと言えば、私は虫が全般に好きだ。幼い頃は、『虫めずる子』であった。虫は心通わない生物ではあるが、懸命に生きている姿が好きだった。

しかし、…蟻には別の感情が私を支配する。蟻に対して凄まじいトラウマが幾多にも重なる。もし、蟻が等身大に巨大化したら、私は間違いなく『核使用』を認めるだろう。蟻が知的生物に発達しても共存は不可能だ。

…昔に見た米国のB級映画に巨大化した蟻が都市を襲う作品があった。それは、鳥肌に全身を被われるくらい気持ちが悪く、個人的に恐怖が先立つ。

テレビなどで紹介されるが、蟻を観察して、夏休み自由研究課題にした小学生など、もはら尊敬の域を越えてしまう。たぶん私より精神的に大人に見える。

それほどに苦手な蟻だが、巣へ持ち帰ろうと虫の死骸を懸命に運ぶ一匹の蟻を発見したりすると、我と我が身であるようにも見え、ずっと眺めていたりする。

それは、どうやら蟻が懸命に働く姿に、怠け者の私が働く理由を見失いつつある、そういう嫉妬か…。

寸の虫にもあればこそ。



実家のユリに付いている芋虫。これはルリタテハの幼虫におもうのだが…Twitterで流してみると早速の確認レスを貰う。

成虫は綺麗な蝶なのだが、なんとも幼虫時代は不気味。しかもユリの葉を食い尽くす害虫でもある。

やはり『虫』と共存は難しいように見える。敵対する生物同士に近い。

病的なまでに虫を毛嫌いする人々が増えたのも、そこに理解不能な恐怖を感じるのだろう。
突然に現れた蜂や虻に悲鳴をあげるばかりでなく、優雅に飛ぶ『黒揚羽』や見事な飛翔を見せる『オニヤンマ』まで害虫扱いで、異常な拒否反応を示すようになった。虫全般に強い拒否を禁じ得ないようだ。

一説では、脳内で反応する言語は、例えば『虫が嫌い』とは、『虫』と『嫌い』に分離される。しかし、『嫌い』という感情を脳内が『虫』を主語に補正している訳ではない、という。ゆえに、『嫌い』という感情だけが一つの装置機能として働く…らしいのだ。

すると、何事にも『嫌い』を基盤として判別機能が思考作業を支配するようになる。

これは、一種の屁理屈でもある。虫嫌いを虫好きに転ずる必要はない。虫も生きているのだから、生命として認めましょう…と説くものでもない。

しかし、何故に虫は我々と違うのか?
それは考える必要がある。少なくとも、知的思考では我々人類の方が上位生物であり、責任能力があるからだ。

火事と野次馬

部屋で夕食用意をしていたら、通りを大型の消防車が走り去ってゆく。その行く先に立ち上る黒煙…『げっ、火事だ。』
 
 
火事は忘れた頃にやってくる。十年前に住んでいるアパートがボヤで焼けて以来、火事は数年おきに周囲で発生している。最近、火事はないなぁ…と思っていたら、これだ。
 
 
『野次馬は子供からオッサンも含めて男が多い…』あまりに近所の火事が気になる。とりあえず携帯を持って黒煙の方向へ歩く。いつしか周囲には、自転車に乗った青年やおっさん、犬の散歩にかこつけたお爺さん達、火事の野次馬は男が多い。それは男の本能かも知れない。状況の変化や事件、異常を確認するのは、古来から男の役割でもある。
 
しかし、写真家を名乗りながらもカメラは部屋に置いてゆく私。そうなのだ、私は報道ではない。
火事で生命を落とした方もいる場合もある。そういう惨事を野次馬根性で撮影する事は、本意ではない。撮影が野次馬であれば、それは無責任過ぎる。
 
だが、気持ちに反して私の足は火事場へ歩む寄る。ここまで来たら、火事らしい絵…写メの一枚くらい収めなければ、撮影者の看板が泣く。
 
 
『火事は怖い』
延焼してゆく勢いの火炎は消防車の放水を笑うかのように立ち上がる。放射熱が頬に熱く、黒煙が喉に刺さる。火の粉が降り落ち、周囲に積もる。もし大地震などで街が大規模な火災に見舞われた場合、簡単に逃れる手段や選択肢は少ない。
消化する手段が絶たれた場合は、いかに逃げるか…そんな事を思いながら。
 
最後に一枚。
 
翌日の報道で、今回の火事に死傷者はいなかった。それだけは救いである。