寸の虫にもあればこそ。
実家のユリに付いている芋虫。これはルリタテハの幼虫におもうのだが…Twitterで流してみると早速の確認レスを貰う。
成虫は綺麗な蝶なのだが、なんとも幼虫時代は不気味。しかもユリの葉を食い尽くす害虫でもある。
やはり『虫』と共存は難しいように見える。敵対する生物同士に近い。
病的なまでに虫を毛嫌いする人々が増えたのも、そこに理解不能な恐怖を感じるのだろう。
突然に現れた蜂や虻に悲鳴をあげるばかりでなく、優雅に飛ぶ『黒揚羽』や見事な飛翔を見せる『オニヤンマ』まで害虫扱いで、異常な拒否反応を示すようになった。虫全般に強い拒否を禁じ得ないようだ。
一説では、脳内で反応する言語は、例えば『虫が嫌い』とは、『虫』と『嫌い』に分離される。しかし、『嫌い』という感情を脳内が『虫』を主語に補正している訳ではない、という。ゆえに、『嫌い』という感情だけが一つの装置機能として働く…らしいのだ。
すると、何事にも『嫌い』を基盤として判別機能が思考作業を支配するようになる。
これは、一種の屁理屈でもある。虫嫌いを虫好きに転ずる必要はない。虫も生きているのだから、生命として認めましょう…と説くものでもない。
しかし、何故に虫は我々と違うのか?
それは考える必要がある。少なくとも、知的思考では我々人類の方が上位生物であり、責任能力があるからだ。

