第二話
前の記事からの続きです。
前の記事をお読みでない方は、一話を読まれてないと話が繋がりませんし、このシリーズの不思議を感じられません。
是非、一話からお読み下さい。
【天台密教に潜む北の星】
***東山道と、天台密教
大甕(おおみか)神社(茨城県日立市)の星の神は、そこから北の奥州と呼ばれた地が、この神社の伝説などから基盤と思われます。
この神は「北」と「星」から北極星を意味しているのではないでしょうか。
これを別な所から見ていくと、不思議な繋がりに驚くのです。
鹿島神宮の様に社殿が北を向く事と、北極星が絡む所は、北向観音(長野県)が知られます。
何故、私は、ここに意識が行ったのかは、最後の6話まで読まれると分かって頂けると思うのです。
この様な形が見られるのは、日光東照宮の陽明門もそうですね。
これらは、日光の戦場ヶ原の神と神との戦いと、大甕での争いが絡んでいると思うのです。
共に、「織物の神」と、「奥州」のキーワードが重なっているからです。
社殿が北向きである一致だけなら、取り上げる事もないでしょう。
京都から奥州の多賀城まで繋がる東山道と、その道を使い、天台密教を広めた最澄と、その弟子、慈覚を考えると沢山の繋がりが出て来るのです。
この東山道は、小臼命(ヤマトタケル)に関わる所を幾つも通り、鉄の伝播の道でもあったのです。
***猿の信仰と善光寺と、北の星
天台密教を広める時、比叡山の守護宮、日吉大社も絡めて広めて行きました。
日吉大社は、三猿と、双葉葵で知られる神社です。
双葉葵紋ですが、立ち三つ葉葵が正しいかと思うのです。
日吉大社の入場券には上記の紋が描かれていますが、
もう一つ小さな葉の様な物が描かれたものも見た事があります。
あまり、日吉大社の紋は、HPにも、パンフにも隠すかのように描かれていないのです。
家康が三つ葉葵を使用禁止した事が三っつ目の葉を目立たなくしたのだと私は考えるのです。(多分)
それか、この謎多きストーリーを簡単には開けれないようにかもしれません。
東山道上に、最澄と、慈覚が建てた伊吹山山麓周辺の日吉神社の紋は、善光寺の紋そのものなのです。
揖斐川の日吉神社近くから見える伊吹山
最澄と、慈覚が勧請した西美濃の日吉神社神紋
その紋を確かめようと以前訪れた日吉大社のパンフレットを引っ張り出して来て驚きました。
そのパンフに北斗七星が描かれていたのです。
北辰信仰(北極星信仰)が潜んでいるようです。
知りませんでした。
何故、描かれているかは、このパンフからは分かりません。
このパンフを良く見ていたら三猿のルーツについて書かれていましたが、それについても驚いた事があったのです。(秘密)
美濃国分寺周辺(岐阜県垂井)には、上記の日吉神社もそうですが、何社か密集しています。
上記の神社は、最澄が、日吉大社から4柱勧請して、その30年後、慈覚が3柱追加しました。
7柱です。
北斗七星の七つの星と繋がるのかもしれません。
美濃国分寺を継承するお寺、琉璃光院が、国分寺跡土地にあります。
その造りが、名古屋の笠寺にある星の宮神社の形状と類似を感じました。
以前にも紐解きましたが、「星」で繋がるとは思いつきませんでした。
その星の宮の近くには、将門の首塚があり、将門の乱を鎮めるために祈祷したことでも知られる熱田神宮の神(七柱)のお旅所の七所神社があります。
日本武尊を祀り、今回の大甕神社の紐解きで、「将門」、「日本武尊」、「七」、「星」は重要なアイテムとして出てきて、美濃国分寺との繋がりも、私の思いつきだけではないようです。
そして、国分寺には、七重塔が建っていたのです。
「七が重なる」は、7月7日の七夕です
北向観音(長野)も、慈覚大師の創建で、北極星を崇めます。
その寺だけお参りするのは「片参り」と言われ、善光寺詣でも必要と言われます。
善光寺に繋げる根拠には乏しいですが、読み進めて頂ければ、私が繋げた意味が分かると思います。
飯田の元善光寺は、信濃比叡と呼ばれる寺(広拯院)の近くにあり、東山道で繋がっていて、
その場所には、日本一の星空が見えるとされる園原があるのも不思議な星繋がりです。
この星と、天台宗の繋がりをもう少し掘り下げて行きます。
第三話へ続く。