#一生分の運を使ったかもしれない。をテーマに、精神科看護の要素を踏まえて、一考察を述べてみる。
…。
何か素晴らしい出来事があったとする。
何か不幸な出来事があったとする。
そのとき、私たちはどう思うのだろうか。
…。
何か素晴らしい出来事があった場合、
『 私は運が良い! 』と思うだろうか。
それとも、
『 運を使いきってしまった。 』と不安になるだろうか。
…。
一方で、
何か不幸な出来事が起きたとき、
『 自分は運がない。 』と落ち込むだろうか。
それとも、
『 きっとこれで運を貯めたんだ。 』と思えるだろうか。
…。
精神科の現場では、
こうした『 出来事の意味づけ。 』が、人の心の安定に深く関わっていると感じることが多い。
同じ出来事が起きても、
『 ツイてる。 』と感じる人もいれば、
『 もう終わりだ。 』と感じる人もいる。
そこには『 事実 』よりも、『 解釈 』の違いがある。
例えば、
長く入院していた患者様がようやく退院の日を迎えたとき、
『 やっと自由になれた! 』と笑顔になる人もいれば、
『 退院したらまた苦労が始まる。 』と、不安を口にする人もいる。…ただこれは、所謂インフォームドコンセントの不十分さが原因。医療者側、地域のサポートが不十分な場合に多く見られる。退院間際、退院日にこのような思考になる患者様の場合、遅かれ早かれ、また病院することになることもしばしば。…諸説あり。
同じ出来事でも、心の中では正反対の意味を持つ。
『 運を使いきった。 』と感じるのは、良いことが続いたあとの反動を怖れる心の働きかもしれない。
人は『 バランス 』を取ろうとする生き物だ。
幸せが大きいと、そのぶん不幸が来ると感じてしまう。…こんなに幸せで良いのだろうか、とか。いつか、足元をすくわれるのではないだろうか、とか。
『 人は人生の中で、運が良い時と悪い時は平等にあって、帳尻が合うように出来ている。 』なんて、言葉も良く耳にする。…実際、私もよく聞いていたし、話もしてきた。
でも実際には、運というのは『 使いきるもの 』ではなく、『 感じ方の習慣 』のようなものなのかもしれない。
『 自分を支える考え方のクセ 』
それが『 運の貯まり方 』を決めているのではないだろうか。
…。
不幸を経験した人ほど、小さな幸せを見逃さなくなる。…人は悲しみが多いほど人には優しくなれるなれるのだよと、ロン毛先生も言っているし…。
その意味では、『 不運が運を育てている。 』とも言える。
精神科の患者様の中には、『 今日もちゃんと起きられた。 』と嬉しそうに話す方がいる。
それは、運を感じる力を回復している証拠だ。
私たちは、運を使いきることはない。ただ、感じ方が一時的に見えなくなるだけ。
運とは、『 出来事 』ではなく『 視点 』だと思う。※…主観です。
だからこそ、
良いことがあった時は素直に喜び、
不幸な出来事があった時には『 運を溜めている途中かもしれない。 』と思ってみるのも、ひとつの心の守り方なのかもしれない。
…。
希望が見えない夜ほど、運は静かに息をひそめて、次に顔を出す準備をしているのだと思う。
…。
…そう思いたい私、そう思えない私。
今もなお、運を貯めまくっている私は、息を潜めながら日々を積み重ね、
いつの日か報われる日を、心待ちにしているッ!!
…などと。





























































