こんにちは。

今回は正しい概念理解と正しい批判という主題で書いて参ります。

 

まず、概念という言葉の意味は以下の通りです。

~以下抜粋~

「概念」とは、思考において把握される、物事の「何たるか」という部分のことである。具体的には、「抽象的かつ普遍的なものとして捉えられた、そのものが示す性質」、「対象を総括して概括した内容」、あるいは、「物事についての大まかな知識や理解」などのことである。

~抜粋ここまで~(「がいねん」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書より引用)

 

聖書が全人類に関係する真理だから読むように勧めても、多くの人が周囲と一緒であることに安心してまともに取り合わず聖書を読まない、読んでも聖書の概念を正しく理解出来ない、巷にある教会が「主イエスを信じて福音の三原則を信じれば救われる。」等と非常に甘い致命的な嘘教義を吹聴する、またその嘘教義に人が飛びつく理由は、どんな人もが持つ希望的観測に大きな原因があると思います。希望的観測とは、根拠や事実ではなく自分自身の希望のもとに成り行きを見ることの為、正しい状況認識が難しくなります。

また、聖書の概念を理解出来ず、聖書が説く救いに関する致命的な嘘教義を吹聴して人々を悔い改めに導くどころか第二の死(地獄)に向かわせようとする偽教師達を批判して正すことが出来ません。

だから、正しい概念を理解し、正しい批判をすることは、聞く側にとっては非常に耳が痛く、煙たがられることがありますが、正しい道へと回帰させることを願い、やらなければいけないことです。

正しい概念理解や正しい批判が必要であることは、聖書や聖書に関する偽教義を吹聴する人達に対してだけではなく、仕事や人間関係においても共通することです。

正しい概念理解にはまず理解力を持つ必要がありますが、理解力不足を悩んでおられる方も多いのではないでしょうか。私自身もその弱点を克服したいと願う者なので、理解力がない人の特徴&原因と理解力を高めるための方法を紹介 | For your LIFE (fumakilla.jp)に、書かれていた理解力不足となる要因を以下に列記します。

 

【記事に書かれている理解力不足の原因】

一)すぐに理解出来ていると思ってしまう。

二)前提知識が足りない。

三)視野が狭く、自分のことで精一杯

四)他人の話を真面目に聞く姿勢が足りない。

五)やる気、向上心が足りない。

六)わからないことをそのまま放置する。

 

上記の理解力不足原因は本人の問題に起因することが多く、更に突き詰めて考えると

本人の内面的な問題があろうかと考えられます。

上記、一)、四)は高慢、二)、五)、六)は不勉強や怠惰、愚か三)は未熟故に周囲への配慮不足といった内面性の問題です。故に理解力は聖書で戒められている内面性の問題でもあって、単に先天的な頭の良し悪しだけで決まる問題ではないとわかります。高慢、不勉強、怠惰、愚か、周囲への配慮不足等といった悪い内面性は、意識が自己に向いており、事象に対する正確な理解に励むという意識になりづらいということだと思います。

高慢は、自分を高く評価したいという思い、不勉強、怠惰、愚かさといった内面性も、現状に満足し、無理をしてでも変える必要が無いという思いからくるものです。一般的には高慢、怠惰、愚かといった性質は批判される性質ですが、自分の事となると、その性質を認めて改める人が少なくなります。加えて、他者から叱責を受けることも嫌がるのは自己愛によるものと考えられます。

これまで過去記事においても、聖書に書かれたことは真理であることや、神は善も悪も一切の業を、隠されたこともすべて裁きの座に引き出されるだろう(コヘレトの言葉十二章十四節)と書かれている通り、死後の裁きについて誰一人適用例外となる人はいないので、神の律法を守る必要があるという話をして参りましたが、多くの人が危機意識を持って、聖書を読んだり神の律法を守って悔い改めて伝道活動をするといった具体的な行動に移していないと思われます。

伝道活動をやるべき理由は、人々に気付きを得ていただく為にやるべきことです。

行動に移さないことは、世俗の事に追われて時間や金銭面に余裕がない(政府や大衆の無抵抗により、税金は増える一方で日々の生活で精一杯)といった外的な問題もありますでしょうが、また、同時に聖書を読む行為そのものが宗教の一種という先入観をもって拒否したり、聖書の教えの実践こそが自分の人生をかえる等と認めないのだろうなと思います。

問題の根源は「行動しないこと」です。

行動しないのは、内面性の問題を認識したとしても軽視したり放置している可能性が考えられます。新たな行動をすることで、自分という存在の弱さを認識することを心の中で恐れていることも可能性として考えられます。

人は時間が無くても、切羽つまれば真っ先に問題に取り組むように、時間が無い中でも、聖書を読み、神の律法を守って悔い改めることが最優先だと理解すれば、すぐにその行動に移していきます。故に行動しない事は危機感が無いか薄い状態だということになります。

行動しないことの弊害は成長しないことです。

聖書のことも世の事も不勉強のままでは、聖書と世の情勢に関わる正しい認識、悔い改める必要性に確信がもてないので、日々世俗のことに注力する生活を送ることになります。

使徒のヨハネは手紙で、この世もこの世にあるものも愛してはならない(ヨハネの手紙一 二章十五節参照)と述べたのは、この世が悪い者(サタン)の支配下にある(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)からで、世の事ばかりに気を囚われ時間を費やしている状態は、サタンの世を愛している状態です。

サタンの世を愛し、自分でも気付きにくい怠惰さや高慢さといった内面性が残っていると、大衆と同じ行動を取っていれば大丈夫だろうと無意識のうちに安心して世の事ばかりに心も行動も囚われます。

現在の生き方こそが正しいのか、自問することが大切です。

今の生き方は自身の死後の世界に直結することなので、ミカエル氏:死後の世界を読んで今後どう生きるべきかを考えてみて頂ければと思います。

その上で、今の内に自分が正しいと思う道を選ばれ、行動をかえて頂くことも願っています。

 

今回は正しい概念理解と正しい批判という主題と致しましたので、どうしたら正しい概念理解に至るのかという点を中心に述べた後、世の中の話題にも触れたいと思います。過去記事で何遍も言ってきたことも中にはありますが、人の腰が重いのは分かっているし、自分もまだまだ未熟な面もありますので、これからも繰り返し述べていくつもりです。

正しい概念理解に至るには、高慢や怠惰や愚かさといった人が持つ自己愛の性質に徹底して抗う必要があります。(肉の性質は当人が思うより非常に根深く、根治に時間を要する。)

例えば、怠惰な性質を克服するのであれば、他人が発信する情報を盲信せず(勿論弊ブログに対してもですが)、自分自身が確認して理解する労を惜しまないようにする必要があります。骨は折れる作業ですが、これまでの人生経験を通した自分自身でしか見つけられない発見があります。

また、確認過程で、情報の正誤判断が出来ないこともあって、その時に必死に調べたり、理解力を向上させる必要性に迫られたり、その分野に精通した先人からも学びを受ける必要性に気付かされます。

理解力向上並びに、肉の性質を改善する為、神の律法を真剣に学び従うことを、最優先とするべきです。主を畏れることは知恵の初め。(箴言/ 一章 七節参照)と書かれている通り、神を畏れて神の律法を守ることによって知恵は得られると考えられます。

ただし、知恵はこの世でうまく処世する為に存在する代物ではありません。なぜなら、神は人がこの世でうまく世渡りすることをお望みではなく、人の内面性を鍛えあげることを目的としておられるからです。

わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから熱心に努めよ。悔い改めよ。(ヨハネの黙示録三章十九節)と書かれているように。神は多くの人がするように人を甘やかして大丈夫だよと安心させたり、おだてて気をよくさせたりすることはなさいません。本人の意識は安穏として悪い部分が改善されない為と考えられます。

神の律法は、神への愛と隣人愛を根幹として、人の内面性や行動を戒めており、学ぶことは有益ですが、上記に挙げたような肉なる性質が芽生えたり、品性を改善せず放縦に生きたいという思いがあると苦痛に感じると思います。

神の律法を学び行うことは有益なことばかりですが、諦めなければいけないこともあります。使徒ヨハネが戒めたようにサタンが提供するこの世を愛することです。

例えば、世俗のことに費やす時間を減らし、この世での快楽や過度な富を求めたり、本心でもないのに人の歓心を買う行動を取るといった行為から離れていかねばなりません。これまで仲の良いと思っていた人が離れていくこともあります。

 

だれもかれも背き去った。皆ともに汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。(詩編十四篇三節参照)の通り、神を求めて清い行いに努める人々が限りなく少いことは預言されていることですし、そのような人と世を愛する人達の価値観が相容れないのは当然です。

人生は神を愛するか世を愛するか人生は二択です。どちらにも相応の代償がありますが、大きな報いを頂ける方を選ぶのであれば、精一杯頑張る必要はあります。

だから、すぐに聖書を複数回通読を行うことと、神の律法に従うことを推奨しており、主イエスが本当の救い主であると確信されることを願っています。

私自身も複数回通読の必要性について、真の聖書福音と預言の執筆主ミカエル氏の記事から学び、自身で実践することによって気付きを得させていただきましたので、同じように勧めております。私はミカエル氏から学びを得るまでは、ヨハネの黙示録の存在や終末預言を少し知っていた程度で、自分自身が思い立ち聖書を読もうとはしなかったし、ただ気付かせて頂いただけの者です。

これまで生きてこれたのは、主、父母、兄弟達、隣人による御厚意によるものと思い、今、自分自身を誇れることはありません。その御恩に対して少しでも貢献出来ないだろうかと思って拙文を執筆しております。

さて、すぐに聖書を複数回通読することと神の律法に従う悔い改めの行動の実践につきましては、千年王国の真実 後編 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)に書かれていますように、聖書から読み解かれる主イエスの再臨時期まではもう十年もない可能性があり、悠長にしていられる時間はありません。時間的制約を理由に人生の選択を迫ることは望みませんが、危機意識が芽生えなければ、人は行動に移さないこともあるだろうと思ってお伝えします。

その日、その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存じである。(マタイによる福音書二十四章三十六節)から、主イエスの再臨時期の正確な時期まで人が分かることは許されていませんが、世の動向が極めて迅速に悪い方向へと向かっていることからも悔い改めに残された時間は少いと確信しております。(今が終末時代にあることを確信しておられる方はわたしだけではありません。)

ビル・ゲイツ 「デジタルIDS」は社会参加の義務になる Patricia Harrity|さてはてメモ帳 Imagine & Think! (shinobi.jp)では、国連、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団、ロックフェラー財団のパートナーは、2028年までにデジタル公共インフラ(DPI)の傘下にある50カ国でデジタルID、デジタル決済、データ共有の展開を加速させるキャンペーンを開始する。国連開発計画(UNDP)は、2030年までに「デジタルID」を世界中に展開する計画を発表しており、社会参加を希望する人々には必須となると、ネット上での言論の自由と個人の自由を主張するReclaim the Net,は述べている。と書かれています。デジタル公共インフラ(DPI)には、「デジタルID」やワクチンパスポート、中央銀行のデジタル通貨(CBDC)などが含まれるようです。

上記の社会参加とは、人間が行う社会活動全般のことを意味しているでしょうから、資本社会で生きていく鍵となる食糧や電気、ガス、水の購入活動も当然社会参加としてみなされるでしょう。社会的活動の為と称して、全人類にデジタルID取得を強制させ、ワクチン接種済みの人間でなければ売買出来ないとか、今流通している自国通貨ではなく、デジタル通貨(電子マネーや仮想通貨等)でなければ決済出来ない等といった仕組み作りを着々とすすめているように思われます。なぜわざわざ彼らが莫大なお金を使ってまでかような仕組み作りをして強制するのかといえば、彼らの決めた枠組みに従わねば人が生きていけぬようにする為です。人類の公衆衛生の危機が来たとか、為替操作等行った上で適性な通貨価値の保持が必要だとか適当な嘘をついて大衆を信じさせて、ワクチンやデジタル通貨を強制すると思われます。

正直なところ、この枠組みが適用され強制される世の中で不服従を貫けば、生きていける目算はありません。上記に挙げたような枠組みはヨハネの黙示録十三章十七節にある獣の刻印がなければ売買活動ができないようになることに繋がる仕組み作りになりえますから、世の中を観察すれば、既に聖書の終わりの時代に生きていることは明白です。

この先、信仰の道に歩もうとして、旧約聖書と新約聖書を読んだことがない状態であれば、一回目の通読には一か月間程度かかり、更にそこから聖書の真理に対する確信を得て、悔い改めの行為や伝道活動を行い失われたキリスト者を探す等、数年間という期間は必要であろうことから。

主イエスの再臨に希望をもつ人は世俗のことの多くを諦め手放していかねばなりませんが、嘲る者達が現れ、不信心な欲望のままに振る舞う(ユダの手紙一章十八節)終わりの時代に、素直になり、聖書を読み熱心に悔い改めに努められることを勧めます。

聖書の終末預言 三にはノアの時代(神話ではない)に、世俗のことに囚われノアの悔い改めの勧告に応じなかった大勢の人の思考様式や末路が書かれているので、他人事に思わず、反面教師としてご認識頂くことも推奨します。

ノアの時代のように悔い改めの勧告に応じなかった大勢の人のようになるべきではないと主イエスはお考えになり、鳩のように素直になりなさい(マタイ十章十六節参照)、心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。(マタイによる福音書/十八章三節節参照)と忠告されたことも教訓にせねばなりません。

残された時間は少くも、正しい道へと進みたい気持ちがあれば、先述したようにまずは迅速に聖書の複数回通読を完了させてみてはいかがだろうかと個人的には思います。神の御心であれば、その行為を通じて主イエスと聖書に書かれた内容は真理(パウロ書簡の一部を除く)だということにも気付くことになるはずだからです。パウロ書簡の一部は信用に値しないことは、ミカエル氏の記事:パウロは偽使徒からも大きな学びを得られますので是非とも読んで頂きたい内容ですが、一部だけ紹介だけさせていただきます。

 

~以下パウロは偽使徒より一部引用~

パウロはええことも書いたんやが、誤解を与えることやおかしなことも多く書き、多くのパウロ教信者を作り、無用な神学論争を引き起こす要因を作り、実際多くの人を惑わし、背教させる結果を生んだ。パウロ書簡の全部が読む価値が無いとまでは言わんが(一世紀当時の状況を知る上でも一定の歴史的価値はある)、パウロの教えの部分は聖書全体と矛盾する箇所は間違いであるか誤訳の可能性を疑って調べ、主イエスや十二使徒の教えと適合する部分は正しく、適合せん部分は偽りと判断するという選別が必要や。パウロの教えの中には曲解し易い箇所が含まれるという警戒が必要や。そういう意味で、パウロの主張を全部盲信するんは危険と言うてるし、聖書の複数回通読をして全体の趣旨を理解することが不可欠や。そうでないと簡単に騙されるさかいな。

~パウロは偽使徒の一部引用終わり~

 

冒頭の方で申し上げたことにも重なりますが、パウロ書簡がおかしいという言及について、怠惰に切り捨てる人が多いです。現在のキリスト教とよばれる教義はパウロ書簡から導き出されているから、その権威を盲信しているわけですが、この行為は明らかに十戒で禁じられた偶像崇拝行為です。

牧師や神父やローマ教皇といった人的権威ではなく、パウロ書簡はおかしいのかと聖書を調べねばなりません。その上で確信することが大切です。聖書の内容に、またパウロ書簡の内容に一つも問題が無いという先入観があったり、適当に読み進めているだけであれば、パウロ書簡の内容の違和感に気付くことはないはずだからです。

念のため、弊ブログで度々ミカエル氏の記事を引用させて頂いている理由をお伝えします。無意味に特定の人を担ぎあげていると勘違いされたり、カルトや宗教だと誤解なさる方が大勢いるからです。

ミカエル氏の記事を引用する理由は、大半の人が重視している役職や肩書からではなく、書かれている世の動向や歴史が正確であり、聖書に合致しているためです。

主イエスは神でありながらも、大衆の目から見れば職人の子としてお生まれになり、ファリサイ派や律法学者のように多くの人が尊敬の対象として見るような役職や肩書、資産といったこの世で名誉とされるものを保有なさらず、御自身も人を権威や富でご判断されませんでした。そのかわりに、木の良し悪しはその結ぶ実で分かる。(マタイ十二章三十三節参照)、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。(マタイ十二章三十六節)と仰ったように、人の発言と行いによって人を判断されておられました。

主イエスの御発言からも、発言と行いで、その人の信頼性が担保されることは疑いようがない事実であり、ミカエル氏の記事には聖書の真理から逸脱した内容がなく信頼性があると思い、また、読者の方の有益な情報が多く含まれているので、弊ブログでも度々引用している点をご理解ください。

 

話を戻すと、聖書の複数回通読や神の律法に従って悔い改めの行動を実践することは、世俗のことにおいても反復と実践によって習熟に至ることを考えれば決して違和感ない内容だと思っています。習ったことは繰り返し反復して覚えて行動せねば、すぐに忘れてしまったり腕が鈍ったりするからです。

神の律法についても繰り返し聖書を読んで覚えて日々実践して習熟していかねばなりません。ヤコブの手紙三章二節にわたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。と書かれているように、すぐに完全に神の律法を達成出来るようにはならないからです。また、人生の途中で諦めてしまうのもいけません。信仰から脱落すれば、信仰に入る前よりももっと悪い状態になると主イエスやペトロが述べている通りです。

厳しい道のりに思われますが、今までの罪(=律法違反)を素直に認め、以後律法を守って悔い改めて善い行いを続けて過去の罪の赦しを授かることが神から人類への御要請であって、神の御要請に確りとお応えしたいと心から思って行動をかえていければ立派だと思います。

自分の印象だけで警戒心から聖書に寄り付かないといった愚かな選択をするのではなく、少し視野を広げて聖書は、人としての悪い品性・発言・行い(罪)の基準を神の律法によって知り、罪をいつまでも犯し続けると言う甘えを捨てて罪を犯さぬよう正すべきという、子供への教育にも通じるような至極当たり前の概念を説明していることを理解頂ければ幸いです。

あと、ミカエル氏の罪についてに、すべての人間は、イエス・キリストの赦し、恵み無しには誰も永遠の命を得ることはない。今、この世に存在するすべての人間は、主イエスが流された血の代償で生きていることを忘れてはならん。と書かれているように、人が認識しているかしていないかに関わらず、人は主イエスによる罪の贖いによって生きるという多大な恩恵を頂いていますが、その受けた恩恵をすぐに忘れたり、日々生きていることへの感謝をしない恩知らずな性質を持っています。我々が受けた恩恵を知らず、この先も目を向けず罪を犯し続ければ主イエスは永遠にお赦しになることはなく、罪に気付いた時から罪を犯さぬように改めて行き、最終的には律法全てを守り通す必要があります。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。(ヤコブの手紙二章十節)

こうした悔い改めの必要性は、実際に真剣に取り組んでみないと分からないことです。心の中の問題だからです。ミカエル氏が聖書の字面だけおっても無意味だと仰っていますが、その通りで、自分自身で聖書から得る心の在り方、行動様式を体現していかないと、聖書を読んでいるだけ、ブログを読んでいるだけでは、なんで悔い改めなんてせにゃいかんの。といった心持にしかならないです。

罪を犯したことを認めて以後律法を守って品性を正して生きるべきことは、厳しい一面がありますが、同時に人を不当に拘束する目的ではないことに気付いて頂きたいと思います。

なぜなら、申命記六章二十四節、主は我々にこれらの掟を全て守るように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。と記述されている通り、主イエスの御功績に恩を感じ自然に神の律法を守って内面性を改めて御要請にそった行動をしていくことこそが真の幸いだと神の御配慮によって予め教示されたものだからです。

だから、自己都合や欲望を優先したいと思う気持ちが残っていると、本当の意味で神の律法を守って幸いを感じることができません。先に紹介致しましたパウロもローマの信徒への手紙八章七節でそのことは述べています。

それ故、先に述べた通り、神の律法を守るにあたって、世俗への執着を捨てるという代償は必ずつき、高慢、怠惰等の他にも、自分が責められたくないと思って嘘をつくことや臆病でいることや、以下聖句にあるような悪い心の中(内面性)や行い等全て認識し、主イエスに祈りを捧げて徐々に改善していく必要があります。

中からつまり、人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである。(マルコによる福音書七章二十二節)

それと、過去記事でも申していることですが、神の律法で戒めるだけでは人の悪い行動を制御する実効力としては弱い為、死後の刑罰が付されていることも改めて申し上げておかねばなりません。

世を愛する選択をした代償ですが、罰則が付されるのは罪を犯す重大性を認知させるためなので、罰則があることだけをもって反感を抱くことは間違っています。それよりも先に法の目的である「悪い行いを戒める」という概念があることに着目するべきです。今を生きる人達には悔い改めの行動を通して罪を赦されるという感謝すべき選択肢が用意されているのです。人間関係においてゆるせないと思うことがあっても、相手の態度が改まれば、相手をまた受け入れるように。

この点を申し上げるのは、神を信じぬ不信仰者に対して死後の刑罰が準備されているという聖書の記述だけを切り取って、神が全能で愛ある存在ならば、人類に死後の罰を与えるはずがない、従ってそのような神は信仰するべきではないと大衆心理を扇動し、偽善的に神を否定する人がよくおられるからです。発言者は気付いていないのでしょうがサタンの世で好き放題したい気持ちの表明でしかありません。

しかしながら、刑罰に着目するより前に、まず人を御造りになられたこと、人が幸せになるために神の律法をお与えになられたこと、人の姿でこの地に来られて神の律法を守り通して人類の罪を贖われたこと、人が生きていく為の環境を整えて下さったこと等、人が神に感謝すべきことは沢山あります。

その認識を持とうとしないのは、ユダの手紙一章十九節に書かれているように霊を持たないからなのだろうと思います。聖霊や悪霊の存在を否定するのは、人夫々が持つ霊性(聡明な天性才知、能力、事物を感受したり理解する能力のこと)、即ち各人の内面性を否定するようなものです。

物事の一部を切り取って批判するのは、批判の方法としては公正なやり方ではないし、そのような批判は誰にでも出来ることですし、そのような批判の手法こそが悪人が利用する手口でもあります。

ついでに悪人に騙されないように悪人の行動様式を挙げたいと思います。

悪人の特徴は、人の弱い心や欲望に働きかけ手助けをするふりをすること、権威で大衆を扇動し少数派を除外しようとすること、確認できないまたは確認しにくい嘘をついて人を騙すこと、上述したように物事の一部だけを切り取って誤った説を流布することです。

サタンもエバを騙した時に欲望に働きかけ、嘘をついて信じ込ませました。

悪人の手口がサタンと一緒なのは、悪人は悪魔崇拝者であるからです。

先に挙げた世の支配層が計画するデジタル公共インフラ(DPI)義務化への行動等もそうですが、いずれも偽善的で慈愛無い行為です。

他の具体例として、過去記事でも度々取り上げているように、ウィルスに関する諸々の対策推進も偽善的で慈愛無い行為です。

ウィルス存在に関する行政文書不開示通知書をご参考までに以下貼付します。

https://x.com/un4yRFGlfQRAIZD/status/1716801034746782104?s=20

https://x.com/un4yRFGlfQRAIZD/status/1717134791701901715?s=20

以上の通りウィルス不存在の行政文書不開示通知書が発行されているので、ワクチンやマスク等一切不要なんです。

工作員達が必死に、行政文書を行政機関が保有していないからといって、ウィルスが無いことにはならない、その証拠に世界中でウィルスに関する論文が沢山出てる、というもっともらしいことを言って、やっぱりウィルスはあるのかな、と思わせる工作に必死です。ただ、今回の主題である正しい概念理解をせねばいけません。

ウィルス問題についていえば、論文の中でウィルスがどのように分離され、どのように人に感染するということが確認されたのか、という点を突き詰めて読まねば理解出来ないことです。ご興味があれば、キリスト道 (themedia.jp)でウィルスの嘘に関する数々の点が詳述されていますので、お読みください。

このような専門的分野において、大衆は権威に弱く、本当に聞くべき耳が痛い話を無視したり、怠惰で調べないことを悪人達はよく知っていますので、なぜ大富豪たちは新聞社を買収するのかーーそして、なぜそれを歓迎するべきなのか : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)のように報道機関を買収して、大衆が間違った情報に目に触れさせる機会を可能な限り増やす、ということを実行しています。

ですから、大衆の権威盲信や怠惰といった性質は、悪人が推進する悪事を増長させていることに気付いて頂きたいと思います。

ウィルス不存在の事例もなんですが、大きな嘘はかえって信憑性があり、大衆に受け入れられます。ただ以前も紹介したように、「多数派は常に間違っている。自分が多数派にまわったと知ったら、それは必ず行いを改めるか、一息入れて反省する時だ」と米国の小説家、マーク・トウェイン氏が発言したことがありますし、ナチス独逸のヒトラーは、「わたしは間違っているが、大衆はもっと間違っている。」「人々が思考しないことは、政府にとって幸いだ。」「人は小さい嘘よりも大きい嘘に騙される」等と述べたことからも、また、聖書の記述からも、悪人の本音と共に大衆の思考様式や行動様式が間違っていることはわかります。

最近、岸田氏は増税眼鏡等と非難され、河野太郎氏は、(hatenablog.com)のように息を吐くように嘘をつく人物だと、国民から悪人扱いされ批判を受けていますが、国民がネットやツイッターで呟いて抗議しているだけでは事態は改善せず、政治家達は、国民の意見を訊こうとせず、ますます情勢は悪化しています。ミカエル氏が仰るように、ネットだけで反対しても奏功せず、大勢で国会議事堂に押し掛け抗議したり、原告を多数集めて訴訟をするといったやるべきことを現実社会でおこさねば、今の政治・行政・司法・経済界・宗教界は結託している為、事態は変わらないということです。

また、注意すべきは、ミカエル氏が日本人の問題点 五で記述されているように、米国の指示通りに政治をするように官僚が原稿を書き国会議員に読ませてるということが、テレビの上でも曝露されており、国会議員は与野党グルでプロレスをしているにすぎず、傀儡であって国民からの怒られ役にすぎないということも認識しておくべきです。即ち、別の政治家に交代しても、米国が望む政治が展開されるということですから、悪政は主権をもつ国民が断固反対する姿勢を外に示さねば永遠にかわりません。

岸田首相や河野太郎氏は、そうした筋書き通りの政治を行い、国民を苦しめる政策を推進しているが故に批判は受けていますが、聖書の御言葉を借りれば、罪を犯してうちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。(ペトロの手紙一/ 二章 二十節)と書いてある通りで、罪を犯しているのだから叱責されるわけです。悪事に対して非難や叱責することさえも弾圧されるのならば、悪事はどんどん増長していくことになりますから、正しい概念理解と正しい批判(批判のやり方も含め)が大切だと申し上げる理由です。

まさに現在の日本と古代イスラエル人の末裔である日本人はイザヤ書九章十五節、この民を導く者は、迷わす者となり、導かれる者は、惑わされる者となったと書かれている通りの状態になりました。

今後、キリスト者として、ともにペトロが述べたように善を行うことに注力していきませんか。是非とも一人でも多くの方が心と行いを一新されて、日々聖書理解と悔い改めの行動に努められることを願っています。

 

ここから先は世の状況について話をします。

神の律法は誰も変えることは出来ませんが、人が作った法律は権威者にとって、恣意的に運用され、全ての内容において完全無欠とはいえません。

その中でも国民を権力者達の不当な要請から身を守ってくれている日本国憲法が権威者にとって都合の良い内容(国民にとっては最悪な内容)に変更されようとしています。

前述した通り、現在政府関係者によって行われている悪事に対して真っ当な批判をすることは、悪事を増長させない為に正しいことです。ですが、改憲によって、思想や言論の自由は緊急事態条項の創設にて封殺され、その結果として真っ当な批判が不可となる監視社会が実現します。

改めて、改憲問題 | キリスト道 (themedia.jp)をよく読んで頂き改憲が超危険であることを知り、隣人にも可能な限り周知並びに改憲阻止に向けた行動をしてくださるようお願いします。

というのも、改憲されれば、今までと同じような生活を送ることは出来ず、一旦改憲されれば元の状態に戻ることはないからで、このままいけば改憲はおそらく来年には決定するように思います。だからといって直前まで改憲阻止を諦めるのではなく、大勢の人集めが出来る方は大規模抗議や集団訴訟等出来るのであれば行うべきです。

尚、この改憲問題についても、正しい憲法の概念理解と世の情勢理解が必要だということを申し上げておきます。正しく理解せねば、あっさりと政府や工作員の誤誘導にひっかかって改憲賛成し国民にとって絶望の世の中にするお手伝いになってしまい悪事に加担することになります。それは聖書に記述された悪を憎み、善を愛せよ(アモス書五章十五節ご参照)の内容にも反することになります。

 

また、今回は正しい概念理解と正しい批判という主題ですので、改憲問題に加えてもう一つ世で話題となった概念について調べたので、参考までにお話させて頂きたいと思います。それは消費税の話題についてです。

国民の猛反対をうけながら強硬に施行されたインボイス制度の問題についても少し取り上げます。私自身これまで消費税の概念理解が出来ておりませんでしたので、改めて調べるいい機会になりました。

消費税の概念について知って頂く機会になればと思いますので、拙い解説になりますが、もしご興味がある方はこの先もお読みください。

まず、消費税の問題として、大きく以下のような問題があると考えます。

 

【消費税の問題】

 

一.消費税の概念理解が難しい。

二.消費税率が高い上、今後も更に上昇する可能性があり、家計に非常に重い負担となる。

三.消費税は社会保障費として使用されていない可能性がある。

 

次に消費税の概念について、一般的に以下のような理解があります。

 

【一般的な消費税に対する概念理解】

一)消費税は一般消費者が当然のごとく支払うべき税金である。

二)消費税は事業者が一般消費者から預かった税(預り税という)だから、税金として国に確り払うべき。

 

結論から言うと、一)の概念理解は間違っています。

なぜなら消費税法上の支払義務者は事業者であって、消費者ではないからです。

消費税法上の支払義務者=事業者

           ≠消費者

何を買うにも消費税額が書かれたレシートを目にしているから、消費税は消費者が納めるものという理解に至るのだと思いますが、実際は違っており、消費税法上の納税義務者は、以下のように規定されております。

消費税法第五条 事業者は、国内において行つた課税資産の譲渡等(特定資産の譲渡等に該当するものを除く。第三十条第二項及び第三十二条を除き、以下同じ。)及び特定課税仕入れ(課税仕入れのうち特定仕入れに該当するものをいう。以下同じ。)につき、この法律により、消費税を納める義務がある。

 

この通り、消費税法上の納税義務者は事業者です。事業者じゃなく支払う義務のない消費者が何故、消費税を支払っているのかという疑問があると思います。事業者の税金を実質国民が負担していることに変わりはないからです。ここに消費税問題の肝になる概念が隠れています。

事業者の税金である消費税を国民が負担しているという理解だと、消費税は事業者が消費者から預った税金(預り金という)だから、事業者は確りと消費税を払うべきという上述二)のような理解に至るものと思われます。

竹下登氏が首相だった当時、初めて日本に消費税が導入されましたが、上記のような理解のもと、消費者が払った消費税が事業者によっては国に納められない欠陥税制だとして訴えた訴訟がこちら↓

東京地方裁判所 平成元年(ワ)5194号 判決 - 大判例 (minorusan.net)

 

原告側の訴えの骨子は、消費者が事業者に消費税を払っているのに、事業者が仕入控除や事業者免税、簡易課税制度の優遇措置を受けて消費税を事業者の懐に入れられる仕組みになっている為、憲法第二十九条で保障された国民の財産権を侵害する欠陥税制だということ、消費税には逆進性がある欠陥税制(低所得者にとっては重い税)だということ、消費税法では消費者が国に対して不服申し立て出来る制度を整えられていないこと等の理由から、国民の財産権(憲法第二十九条)、法の下の平等(憲法第十四条)、生存権(憲法第二十五条)を侵害する違憲な法律であり、消費税を払ったことによる損害金を国に対して支払うよう求めたものです。細かい点は他にも有りますが、割愛します。

これに対して、判決は、原告の訴えが棄却され、訴訟費用も原告の負担でした。

棄却理由は仕入れ控除、事業者免税、簡易課税制度等の優遇措置が零細企業、中小企業負担の軽減措置として必要であり消費税の使途は社会共通便益を図るものであって財産権の侵害とはいえない消費税は事業者の取引の対価の一部であり消費者が実質的負担者といえるものの、納税義務者ではない等の理由によるものです。細かい点は他にもありますが、割愛します。

確かに消費税法上からいえば、事業者が払うべき税金なので、税率や課税源は異なるものの法人税と同じ扱いだといえ、裁判所が対価の一部と表現することは間違いではないと思われます。

私が個人的に判決内容から考えることを述べるにあたり、まず判決内容から、原告の訴えが棄却された理由を簡易的に以下記述します。

 

●原告の訴えを棄却した東京地裁の主張纏め

✓消費税法上の納税義務者は消費者ではないが、消費税の実質負担者である。

✓消費者は納税義務者ではないから、国は消費者に対して不服申し立て制度を保障する必要は無い。

支払う金銭はあくまで商品ないし役務の提供の対価としての性質を有するものであって、消費者は税そのものを恣意的に徴収されるわけではない。

✓消費税は財産権の侵害には該当しない。理由は、国民の財産権は政策的目的により、制約されえるものであって特段不合理な制限を除いて、財産権の侵害には該当しない。

〇上記の訴えの棄却理由に対する私見

以下理由によって棄却理由は被告側に有利な判決を出したなと思いました。

一)消費税の実質負担者が消費者と認めているにもかかわらず、納税義務者ではないという点だけで消費者の立場による不服申し立てを保障する必要は無いという非情な点。

(消費税を価格に転嫁するのは事業者の責任範囲下にあるから、国は消費者からの不服申し立てを受ける道理は無いと逃げている。消費税導入を決めたのは政府なのに。)

二)政府の勝手な都合で消費税が上げられた場合、消費税を払う事業者は消費税を価格に転嫁せざるを得ず、実質的に消費者は消費税上昇分を負担せざるを得ないのに、消費税という税には恣意的な徴収が無いと言い切っている点。

三)消費税は政策的目的として正しいから財産権の侵害ではないと断定している点。

果たして本当に消費税が社会共通費や福祉目的に使われているのかですが、この点は「社会保障目的税だから消費税は減税できない」という意見は間違っている|大河内 薫 (note.com)が参考になります。

四)そもそも事業者が納めるべき税ならば、消費税という消費者目線の税金名称は変だではないか。消費者が払うべき税金だと勘違いしやすいし、そもそも勘違いさせる意図があって導入したのではないかと考えられます。(勘違いさせないようにするには、事業者税等という税金名称にすべき。)

五)事業者と国の関係においていえば、消費税は物品やサービスの対価の一部といえど、消費税分を消費者から受領しているから、事業者が確りと支払うことが理想という論理が立てやすく判決内容もそのようになっている。(いざとなれば、国は消費税を払う消費者の世論を味方につけて事業者をけしかけることが可能)

消費者には製品対価だから払う必要があるといい、事業者には消費税分を受け取っているのだから、支払えといいやすく、国にとっては大変都合のいい税金。

 

私の意見は以上の通りです。

消費税は非常に国にとって都合のいい税金で、実際、過去に国税庁は以下のようなポスターを作り、消費者に消費税が預り金だという擦り込みを行っていたこともあります。

 

上記画像引用元:判決確定「消費税は対価の一部」――「預り金」でも「預り金的」でもない|全商連[全国商工新聞] (zenshoren.or.jp)

 

いわば預り金とか、預り金的性格等という広告表現も言い回しとして、確り預り金と断定していないところが絶妙だと思いました。

そして、この消費税の概念を巡って行きついた先が昨今話題となったインボイス制度です。こちら(twitter)でもインボイス制度が分かりやすく説明されています。

橋本徹氏が【あの時の発言を検証】橋下徹vs山本太郎 インボイス制度も分かり易く解説 - YouTubeの通り、「消費税は消費者が預けた税金なんだ。事業者として支払うのは当然だ」と話しています。勿論、彼は仮にも弁護士資格を有する方ですから、消費税に関する上記判決の内容を知らないはずはないですが、発言内容は零細企業や個人事業主も実質的に免税事業者から課税事業者にならざるを得ないインボイス制度の推進に加担する姿勢でした。これも一般大衆が消費税の正しい概念を知らなければ正しいことを言っているかのように思えてしまいます。

消費税は預り金ではないという趣旨で消費者目線ではこじつけとしかとらえられないような判決が下されたにも関わらず、ここにきて、中小、零細企業を課税事業者に転換させ、きっちりと消費税を取る魂胆が見えます。

現実問題として、インボイス制度は免税事業者であるか、課税事業者かについて事業者側に選択権があるものの、取引先が課税事業者である場合、免税事業者との取引において、消費税の仕入控除を受けられないとなれば、取引先は免税事業者と取引することを敬遠することになり、免税事業者は実質課税事業者にならざるを得ないという制度です。

ですから、実質的には増税が目的の制度といえ、判例も無視した制度ということになりますが、岸田主張は首相、インボイス制度廃止せず 参院代表質問 | 共同通信 (nordot.app)の通り、インボイス制度は廃止しないと確りと明言したようです。

インボイスはあくまでも消費税額を求める手段であって、インボイスという手段を目的(消費税計算方法の原則)になってしまうことは、法律に関係なく課税できるということになり、憲法84条の法律による課税制度に実質的に反しています。
仕方ないとか、実態を知らずに悪事を野放しにしていると、政府はどこまでも違憲行為を積み重ねますので、何事も有効な反対活動をせねば、国民は政府の言うなりになるということです。

先に挙げた改憲問題の通り、改憲後に税金も上がる可能性も有りますし、預金封鎖のようなことも十分考えられます。世界的にはデジタル通貨の導入が進められている訳ですから、国民に不当な重税をかけて苦しめてたり、円安が進んでも放置なのも、その布石なんだろうなと思います。

このまま国民が大勢で抵抗せねば、改憲が実現し暗黒社会に突入します。

 

以上、消費税について、私も詳しく把握出来ていなかったので、調べて記事にさせて頂きました。最後に税に関連して、聖書に書かれたことを見てみたいと思います。

 

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、信仰はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。(マタイによる福音書/ 二十三章 二十三節拙訳)

 

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています。』ルカによる福音書/ 十八章十一節~十二節

 

上記聖句は律法学者やファリサイ派といったその当時の権力者達は、律法に従って形式的に収入の十分の一を献納していたものの、心の中には隣人に対する慈悲の心が無く、律法主義に陥っていたことを主イエスが弾劾されたものです。

律法主義について、ミカエル氏:神を愛するということと人が生きる意味に書かれていますので、以下に抜粋致します。

 

~以下引用~

神の掟は守らなければならないのは当たり前なのですが、何故守らないといけないと思っていますか、救われるためですか。そうだとすれば、それも偽善です。律法主義に陥っています。義務感から神の掟や戒めを守っているのは、まさに律法主義者なのです。心から神を愛していないのです。私が言いたいのは、神を愛すれば、自然に掟も守るようになるのです。

~引用ここまで~

 

以上の通り、律法学者やファリサイ派達が本来の道を見誤り慈愛を蔑ろにした失敗談を糧に、形式的に律法を守る、且つ当人も律法を守っていると思い込んでいる状態ではなく、心から神を愛して律法を守りたいと思って守るようになっておらねばなりません。義務感でやっているうちは、まさに律法主義者であり、キリスト者を目指す人は、くれぐれも気をつけておらねばならないことです。

 

尚、税金とは、税制(国の税金の仕組み) : 財務省 (mof.go.jp)によれば、年金・医療などの社会保障・福祉や、水道、道路などの社会資本整備、教育、警察、防衛といった公的サービスを運営するための費用を賄うものです。みんなが互いに支え合い、共によりよい社会を作っていくため、この費用を広く公平に分かち合うことが必要です。と書いてあります。

全く無意味なことに膨大な税金が使われていることを知って、国民が抗議する必要は当然ありますが、収入の一部を納める根本には相互扶助の心や気持ちがあることは大前提として理解できます。

最後に以下聖句を紹介して終わりにします。

 

申命記/ 14章 28節~29節

三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当ての無いレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業についてあなたの神、主があなたを祝福するであろう。

 

今の世の中で教えを正確に守ることは難しく具体的に守る術は各自で考えるべきですが、収入の十分の一を貧しい人に直接会って分け与えたり、伝道活動の糧として使うのであれば、神の御心に叶う行動だと私は考えています。

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

聖書を読みキリスト者を目指されることを願っています。