今夜、ホールの片隅で

今夜、ホールの片隅で

東京在住クラシックファンのコンサート備忘録です。

 

タイトルの通り、作品を演奏する立場から見た武満徹について取材したインタビュー集。取材対象となったのは池辺晋一郎から山田和樹まで、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、フルート、クラリネット、打楽器、ハープ、ギター、笙、テノール、バリトン、指揮、作曲、ヴォーカルの各分野の全25人に及ぶ。雑誌やWeb媒体に連載されたものではなく、全て書き下ろしの本書のために行われたインタビューのようだ。著者の原塁(はら・るい)氏は1989年生まれ、専門は音楽学、表象文化論とのこと。

 

インタビューは決まって「武満さん(武満作品)との出会いについて伺えますか」という質問で始まり、具体的な作品や演奏についてのやりとりがあった後、最後に「これから新たに武満作品に取り組む方にメッセージをいただけますか」という質問で締めくくられる。世代の若い5名ほどを除き、生前の武満さんと直接交流のあった人ばかりなのがポイントだろう。彼らが現役を退いたらもう聞けなくなるであろう、武満さんに関する貴重な証言がこうして残された。25人それぞれの武満像の断片を重ね合わせた、多彩かつ異色のバイオグラフィーになっている。

 

興味深いエピソードが満載だが、中でも印象に残るのは、武満さんがよく「鼻歌を歌っていた」と多くの人が語っていることだ。武満さんの人となりが伝わってくるし、武満作品の根底に「うた」があることを端的に教えてくれる。「武満さんの頭の中にある音楽は、楽譜の指定よりも遅い」というのも、何人かが異口同音に指摘していて面白い。演奏の現場に立ち会った武満さんに「もっとゆっくり」と言われた奏者は多い。それを知らず、楽譜の指定に忠実にやる若い世代や海外の奏者たちの演奏は、概して望ましいテンポより速くなりがちなのだそうだ。

 

個別の言葉では、例えばこんな部分を引用したくなる。

 

「システムや形式で表現するのではなく、ピアノの前に長時間座って同じような和音を何度も聴いて、聴いて、聴いて、そこから語りかけてくる声を待って、待って、待って、一音ずつ作られた音楽ですので、同じように一音ずつ出しては聴くことをくり返すことでしか作品に近づくことはできないと思います」(佐藤紀雄)

 

「楽譜を目の前に置き、鍵盤に指を這わせ、一つ一つ確かめるように音を出してみることから始めましたが、あの曲(「遮られない休息」)は、まさにそういう仕方で書かれたのだろうなと思います。「この音かな、それともこの音かな」と、まるで音を出すことを少し恐れながら指先で触れるように進んでいく」(北村朋幹)

 

こうした発言を引き出す著者の、揺るぎない武満愛に裏打ちされた取材力には舌を巻く。インタビューの合い間に挿入されたテーマ別のコラムも的確で隙が無い。

 

武満徹の評伝と言えば、立花隆のライフワークとも言うべき大著「武満徹・音楽創造への旅」を思い出す。あれが同時代人による作曲家の「正伝」だとすれば、こちらは世代を超えた大いなる「外伝」。武満徹の音楽に関心を持つ演奏家にとっても聴き手にとっても必読の一冊だろう。今年は武満さんの没後30年に当たる。これまであまり聴いてこなかったピアノ曲やギター曲、合唱曲なども、演奏機会を見付けて聴きに行きたいと思っている。

■国際音楽祭NIPPON 2026 フォーレ室内楽全曲マラソンコンサート(26/3/1横浜みなとみらいホール)

 

[ヴァイオリン]諏訪内晶子、ベンジャミン・シュミット、金川真弓、米元響子

[ヴィオラ]赤坂智子、鈴木康浩

[チェロ]イェンス=ペーター・マインツ、上野道明、佐藤晴真、辻本 玲

[フルート]石井希衣

[ピアノ]ソン・ミンス、秋元孝介、北村朋幹、阪田知樹、三浦謙司

[葵トリオ]秋元孝介、小川響子、伊東 裕

[レグルス・クァルテット]吉江美桜、東條太河、山本 周、矢部優典

 

【第1部】11時開演

ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 作品13[シュミット・北村]

ヴァイオリン・ソナタ第2番 ホ短調 作品108[金川・阪田]

初見視奏曲[金川・阪田]

コンクール用小品[石井・阪田]

幻想曲 作品79[石井・阪田]

ピアノ三重奏曲 ニ短調 作品120[葵トリオ]

 

(ロビーコンサート1)

アレグロ・モデラート(2本のチェロのための)[矢部・伊東]

シシリエンヌ 作品78[石井・阪田]

 

【第2部】14時開演

ピアノ四重奏曲第1番 ハ短調 作品15[シュミット・赤坂・佐藤・三浦]

エレジー 作品24[マインツ・三浦]

シシリエンヌ 作品78[マインツ・三浦]

蝶々 作品77[マインツ・三浦]

ピアノ四重奏曲第2番 ト短調 作品45[諏訪内・鈴木・マインツ・ソン]

 

【第3部】16時開演

チェロ・ソナタ第1番 ニ短調 作品109[辻本・阪田]

チェロ・ソナタ第2番 ト短調 作品117[上野・北村]

子守歌 作品16[米元・三浦]

ロマンス 変ロ長調 作品28[米元・三浦]

アンダンテ 変ロ長調 作品75[米元・三浦]

弦楽四重奏曲 ホ短調 作品121[レグルス・クァルテット]

 

(ロビーコンサート2)

ノクターン第13番 ロ短調 作品119[秋元]

 

【第4部】19時開演

ピアノ五重奏曲第1番 ニ短調 作品89[金川・米元・鈴木・上野・北村]

ロマンス イ長調 作品69[佐藤・秋元]

セレナード 作品98[佐藤・秋元]

夢のあとに 作品7-1[佐藤・秋元]

ピアノ五重奏曲第2番 ハ短調 作品115[シュミット・諏訪内・赤坂・マインツ・ソン]

 

フォーレの室内楽作品を丸1日かけて全部演奏してしまおうという企画。没後100年だった2024年にもフォーレ作品の演奏機会は決して多くはなかったけれど、こんなプログラムを聴いてみたかった。全体は4部構成になっていて、どれか1~2部を選んで聴こうかとも思ったが絞り切れなかったので、思い切って1日通し券(11000円)で参戦。2つのロビーコンサートも含め、午前中から夜までフォーレ漬けの1日を過ごした。ちなみに国際音楽祭NIPPONの室内楽全曲マラソンコンサートは、ブラームス(2022年)、シューマン(2024年)に続き、フォーレが3人目。

 

通して聴いてみると、フォーレのこの分野の中核を成すのがピアノと弦楽アンサンブルのための作品であることがよく分かるし、その編成が四重奏→五重奏→三重奏という変遷を経て、最終的にピアノ無しの弦楽四重奏曲へと至る流れを俯瞰的に体感できる。また、各2曲ずつあるヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタ、ピアノ四重奏曲、ピアノ五重奏曲を、第1番と第2番でそれぞれ異なるメンバーで聴き比べられるのもこの企画ならでは。もちろん作品年代の違いもあるが、同じ編成でも奏者によってこれほどサウンドの印象が変わるのかということを実感した。

 

今回のプログラムで特に楽しみにしていたのが、2曲のチェロ・ソナタである。チェリストのレパートリーとしてはかなり地味な存在で、2曲とも実演で聴ける機会は極めて貴重。辻本&阪田、上野&北村という、望み得る最高のコンビで、それぞれの味わいの違いを堪能させてもらった。第2番の第2楽章アンダンテは、ずっと憧れていた意中の曲。解説によれば、元は単独の「葬送の歌」だったこの楽章に両端楽章を書き加えてソナタとしたそう。元はチェロ・ソナタの緩徐楽章として構想された「エレジー」と並び、フォーレの弦の極みとも言うべき名編だと思う。

 

フォーレがパリ国立音楽院の仕事で、試験やコンクール用に書いた小品も漏れなく網羅されている(「初見視奏曲」「コンクール用小品」「幻想曲」「アレグロ・モデラート」)。どれも数十秒~数分ほどのシンプルな音楽だが、一聴して捨てがたい魅力を湛えている。名曲「夢のあとに」も、この文脈で聴くと新鮮。様々な編曲がある「シシリエンヌ」は、案外オリジナルのチェロとピアノで聴けるのは珍しい。海辺の陽光が降り注ぐロビーで聴いた、フルートとピアノによるソットヴォーチェな「シシリエンヌ」もまた格別だった。

 

各パート精鋭揃いで、これだけのアーティストたちを1日で聴けるのも贅沢な話だが、特に印象に残った1人を挙げるなら、ピアノのソン・ミンス。これまで全くノーマークだったピアニストだが、ピアノ四重奏曲第2番、ピアノ五重奏曲第2番での、柄の大きい画然としたパフォーマンスには、頭ひとつ抜けた印象を受けた。アンサンブルの完成度という点では、やはり常設団体によるピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲に一日の長があるように感じた。とりわけ葵トリオによるピアノ三重奏曲の、情趣絶佳な第2楽章アンダンティーノは、本日の白眉とも言うべき美演。

 

開演前は1日がかりの長丁場でどうかと思ったが、始まってしまえば時間はあっという間に過ぎてゆき、最後は名残り惜しかったほど。ロビーコンサートではこの日唯一のピアノ曲「ノクターン第13番」も演奏されたけれど、ピアノ曲や歌曲も含めフォーレの魅力はまだまだ尽きない。

■東京都交響楽団 第1037回定期演奏会Cシリーズ(26/2/23東京芸術劇場コンサートホール)

 

[指揮]デイヴィッド・レイランド

[ピアノ]ティル・フェルナー*

 

ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル/序曲 ハ長調

モーツァルト/ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調*

シューマン/交響曲第1番 変ロ長調「春」

(アンコール)ヤン・ヴァンデルロースト(中原達彦編)/カンタベリー・コラール(弦楽合奏版)

 

ハ長調の清新な序曲に始まり、ピアノが歌う「春への憧れ」が続き、交響曲「春」へと至る、この季節に相応しい好プログラム…のはずが、気温が急上昇した当日は春をすっ飛ばして一気に初夏の陽気に。デイヴィッド・レイランドは2024年10月の群響東京公演で聴き好印象だった指揮者(都響には3度目の客演)。

 

最初の「序曲ハ長調」は、ファニー・メンデルスゾーン唯一の管弦楽曲。序奏付きの端正なソナタ形式で、弦による第2主題が弟フェリックスの「夏の夜の夢」序曲を思わせるのが微笑ましい。次のモーツァルトでは、気品がありながらも描線の濃いフェルナーのタッチを堪能。メインの「春」は、重厚感と歯切れの良さを兼ね備えた佳演。細部は表情豊か、かつ全体としては引き締まったサウンドに、レイランドの腕の確かさを感じる。メロディアスな弦楽合奏のアンコールは、指揮者の友人で同じベルギー出身の現役作曲家の代表作の1つなのだとか。

 

■名古屋フィルハーモニー交響楽団 東京特別公演(26/2/24サントリーホール)

 

[指揮]川瀬賢太郎

[語り]五藤希愛*

[アコーディオン]大田智美*

 

武満 徹/系図-若い人たちのための音楽詩-*

R.シュトラウス/交響詩「英雄の生涯」

 

「系図」&「英雄の生涯」という同一プログラムを、2017年10月にも川瀬&神奈川フィルで聴いている。思い入れある組み合わせなのだろう。「系図」はこの10年で6回目の実演。上白石萌歌、山口まゆ、唐田えりか、田幡妃菜、白鳥玉季に続く6人目の語り手は、2010年生まれの五藤希愛(ごとう・のあ)。歴代の少女たちの語りと、溜めや抑揚の違いを新鮮に聴く。冷静に聴いていたつもりが、「とおく」の「そのときひとりでいいからすきなひとがいるといいな」で思わずぐっときてしまった。

 

「英雄の生涯」は、何と言ってもコンマス小川響子氏のヴァイオリン・ソロが強烈。これまで聴いてきた同曲中でも、文句なしに随一の存在感。圧倒的に雄弁で、べらぼうに巧い。もはや交響詩というフォーマットを逸脱し、この曲をヴァイオリン協奏曲にしてしまう「伴侶」無双状態。こんなコンマスがいたら、そりゃーこの曲を東京公演に持って来るよね。

■都響スペシャル(26/2/16サントリーホール)

 

マーラー/交響曲第8番 変ホ長調「千人の交響曲」

 

[指揮]エリアフ・インバル

[ソプラノⅠ]ファン・スミ

[ソプラノⅡ]エレノア・ライオンズ

[ソプラノⅢ]隠岐彩夏

[メゾ・ソプラノⅠ]藤村実穂子

[メゾ・ソプラノⅡ]山下裕賀

[テノール]マグヌス・ヴィギリウス

[バリトン]ビルガー・ラッデ

[バス]妻屋秀和

[合唱]新国立劇場合唱団

[児童合唱]東京少年少女合唱隊

 

インバル&都響による第3次マーラー・シリーズの第2弾。このコンビが「千人」を演奏するのは1996年、2008年、2014年に続き4回目とのこと。このうち私は1996年の演奏を聴いているはずだが、当時の記憶はもはや残っていない。

 

ひと言で言って、具だくさんのマーラー。老練な魔導士のようなシェフ・インバルが、具材をざくざく切ってばんばん鍋に入れていく。舞台狭しと埋め尽くした各セクション、リモートコンソールのオルガン、Pブロックの合唱団とその手前の独唱陣、舞台奥にずらりと並んだ児童合唱、そして後方左右2階席に配された金管のバンダまで、各素材が惜しむことなく投入され、サントリーホールという「鍋」が随分小さく感じられる。しかもこの料理、敷居の高いレストランではなく、ざっくばらんな食堂でいただくのが似合う。塩気も油っ気もしっかり効いているものの、ずっと聴き続けていてももたれることなく、案外あっさりと完食できるのもこのレシピならでは。

 

最も印象的だったのは、第2部序盤の緩徐な部分。インテンポで淡々と振る指揮者も多い中、個々のパートやフレーズをこれほど揺らす演奏は珍しい。これ、やり過ぎるとクサくなりそうだが、その一歩手前の絶妙な塩梅なのがインバル流。この曲全体を4楽章形式に見立てた時に、緩徐楽章としてのこの部分の性格を濃厚に表出したシンフォニックな演奏。終盤の「神秘の合唱」に入る直前の、フルートの導入をこれほど長く引っ張った例も稀。「神秘の合唱」そのものもこれまで聴いた中では最も遅く、寄り添う弦のオブリガートが立体的に浮かび上がる。宇宙が鳴動する終結部もアンサンブルが混濁することなく、楔のようなバンダの音型がしっかりと刻印される。

 

ああ、「音楽的」ってこういうことだよな…と思う。ところどころ粗っぽい部分もあったけれど、この作品の破格の気宇を余すところなく具現化してみせた手腕は見事というほかない。この日は3日連続公演の2日目で、インバル90歳の誕生日でもあった。終演後、カーテンコールの途中で弦楽合奏が何やらシリアスな音楽を奏で始め、それがやがて合唱団も加わった盛大なハッピーバースデーへと発展。マーラー8番を誕生日祝いの壮大な前振りにしてしまう90歳など、そうそういるものではない。

2011年にBS朝日で放送されたテレビマンユニオン制作のドキュメンタリー番組を劇場版として再編集した作品。主人公のジュピター・カルテット・ジャパンは長らく活動休止中だったが、今年の東京春祭で再会公演が企画され、また続編番組「カルテットという名の青春が過ぎても(仮)」の制作決定を機に映画化されたとのこと。その先行上映を観に、初訪問の菊川の映画館へ。

 

ジュピター・カルテット・ジャパンは、桐朋学園の学生によって2004年に結成された(当初の名称はジュピター・ストリング・カルテットだったらしい)。メンバーはヴァイオリンの植村太郎、佐橘マドカ、ヴィオラの原麻理子、チェロの宮田大。原さんと宮田さんの演奏は個別に聴いたことがあったけれど、彼らがこんなカルテットをやっていたとは知らなかった。このカルテットが演奏活動を展開したのは主に2000年代後半で、テレビカメラが入ったのは2011年に活動を休止するまでの最後の3年間ほど。当初はミュンヘン国際音楽コンクールに挑戦する4人のサクセスストーリーを想定していたそうだが、一次審査での落選という予想外の結果を受けて、挫折から始まる物語へと切り替わった。

 

監督の浅野直広氏は元々クラシックを聴かない人で、この取材を通して自身が初めて触れるカルテットの世界を、一般の視聴者にも分かり易い言葉で、原田知世と監督自身のナレーションでかみ砕いて説明している。レッスンを通じてこのカルテットの課題として浮き彫りになる、ミスの無い正確性が重視される日本の音楽教育と、奏者自身の表現力を評価するヨーロッパのそれとの違いについては、やや類型的な図式という気がしないでもない。それでも4人それぞれの葛藤や苦悩は十分に伝わってくるし、4人が別々のヨーロッパの町に留学し、ソロ活動とカルテットを両立することが内包する矛盾から、カルテットの休止という選択に至る必然性にも説得力がある。

 

映画は冒頭、「僕は二十歳だった。それが人生で一番美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい。」というポール・ニザンのエピグラフで始まる。「青春」はこの作品の大事なモチーフで、文字通り4人の若い音楽家たちの青春時代が描かれる訳だが、カルテットという共同体はとりわけ青春と相性が良いのかもしれない。彼らよりさらに若い世代の、エール弦楽四重奏団やクァルテット・インテグラの演奏を聴きながら思うのは、その音楽の充実度もさることながら、そこに賭ける彼らの情熱の美しさであり凛々しさである。それはかつて確かに自分も経験したはずの青春という時間の余熱を、束の間感じさせてくれる。その作用には間違いなく、カルテットという芸術のひとつの本質があるだろう。

 

この映画で強く印象に残るのは、4人がカルテットとして最後のレッスンで、ガボール・タカーチ=ナジの指導を受ける場面。課題曲はベートーヴェンの弦楽四重奏曲第12番変ホ長調で、その第2楽章アダージョを巡るやりとりに本作の核心があるように思える。その同じ曲をプログラムに据えたカルテットの再会公演が、今年の東京春祭で予定されている。映画を観る前からチケットは取っていたけれど、観終わってさらに楽しみになった。青春が過ぎても、カルテットという名の物語はまだ続いている。

 

■東京都交響楽団 第1035回定期演奏会Cシリーズ(26/2/8東京芸術劇場コンサートホール)

 

[指揮]ベン・グラスバーグ

[ピアノ]アンナ・ヴィニツカヤ*

 

メラニー・ボニス/クレオパトラの夢(日本初演)

ラヴェル/左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調*

(アンコール)ラヴェル/「優雅で感傷的なワルツ」より 1.モデラート、亡き王女のためのパヴァーヌ*

バルトーク/管弦楽のための協奏曲

 

東京都心でも5cmの積雪を観測した衆議院選挙当日のマチネ。今回初めて聴く英国出身の指揮者ベン・グラスバーグは、2017年のブザンソン優勝者で、現在はルーアン・ノルマンディ・オペラの音楽監督を務める人。長身の長い手足をキビキビと動かす指揮ぶりは、いかにも有能な現場監督といった感じ。

 

1曲目の日本初演作品が聴きもの。まだまだ未知の作曲家はいるもので、メラニー・ボニス(メル・ボニス、メラニー・ボニとも)という名前は今回初めて知った。フランス近代の女性作曲家で、パリ音楽院ではドビュッシーやピエルネらと学友だったという。「クレオパトラの夢」は、伝説的な女性をテーマにした自作のピアノ曲をオーケストラ版に編曲した3曲のうちの1曲。私好みの和声に充ちた10分足らずの小品で、オケの鳴らし方を心得た巧みな書法が冴え、不意の素っ気ない終わり方も気を引かせる。NMLの音源で聴ける2台ピアノ版もまた違った味わいがある。近年再評価の気運もあるようだが、演奏機会があればもっと聴いてみたい作曲家。

 

ヴィニツカヤがオケと協演するのを聴くのは3回目で、過去2回も都響定期だった(インバルとのプロコフィエフ2番、尾高忠明とのパガニーニ狂詩曲)。左手1本でもオケに埋もれることなくクリアで、パワフルかつリッチな音色は健在で、この人のピアノやっぱり好きだなと思う。この日は聴きながら、ソロ・パートではラフマニノフやスクリャービンの仄暗さを思い出し、行進曲風のオケ・パートではショスタコ味を感じた。ピアノ協奏曲というよりも、オケ伴付きのピアノ曲のように聞こえたのも、このコンビの演奏ならではだろうか。アンコールにもラヴェルを2曲。今回は日程の都合でリサイタルを聴けないが、その渇きを多少なりとも癒してくれた。

 

休憩を挟み、後半はバルトークのオケコン(奇しくも、ヴィニツカヤがプロコ2番を弾いた時のメインもこの曲だった)。全楽章ほぼアタッカで、文字通り隙の無いパフォーマンス。どのパートもさすがに上手いのだが、最も魅力を感じるのは弦セクションの吸い付くような一体感だろうか。芸劇と言えば以前は銭湯みたいな残響が気になったものだが、いつの間にか随分解像度が上がったように思えるのは、改修工事の効果もあるのか、それともグラスバーグ&都響サウンドのなせる業だろうか。

フジコ・ヘミングの映像作品と言えば、ブームのきっかけとなった1999年のNHKのドキュメンタリーに始まり、2024年の訃報の後に放送された晩年のドキュメンタリーに至るまで、専らテレビで観てきた。だからこの映画もおそらく似たような路線で、今さらフジコ・ヘミングか…と思わなくもなかった。でも実際に観てみたら、これは一連のテレビ番組とは異なる文脈で構想された、第一級の伝記映画であることが分かった。

 

短いエピソードを重ねていくアンソロジー風の構成。各エピソードの冒頭には、筆記体のアルファベットで綴られた章題が付く。幼い頃、家族を日本に残したまま母国へと去った父親の記憶に始まり、フジコさんの辿ってきた人生の軌跡がほぼ時系列で語られる。それはこれまでにもテレビで何度か観てきて知っている物語ではあるけれど、そこからは漏れていた側面や細部が丁寧に取材され、掬い取られる。今も残るベルリンの生家の内部の様子や、俳優の弟・大月ウルフや、スウェーデンに暮らす異母妹エヴァの証言、菅野美穂が朗読するフジコさんの絵日記の飾らない心情、等々。どの部分を切り取っても愛が感じられ、映画全体がフジコさんへのラブレターになっている。

 

フジコさんが自らの人生を振り返って、「憂しと見し世ぞ今は恋しき」という百人一首の一節を引く場面があるが、まさにこの言葉に尽きる。フジコ・ヘミングという個人の物語が、あらゆる家族の、芸術家の、女性の、漂泊者たちの物語へとつながっていく。フジコさんの両手の指が意外なほどずんぐりむっくりしているのにも驚く。その指が奏でる「ラ・カンパネラ」全曲の演奏シーンが終盤に流れる。そしてリスト「ため息」の旋律に乗せた、フジコさんの生涯を凝縮したような自室でのラストシーンがあまりにも美しく、まるでイコンのように神々しい。

 

■NHK交響楽団 第2056回定期公演(26/1/29サントリーホール)

 

[指揮]トゥガン・ソヒエフ

[ピアノ]松田華音*

 

ムソルグスキー(ショスタコーヴィチ編)/歌劇「ホヴァンシチナ」より 前奏曲「モスクワ川の夜明け」

ショスタコーヴィチ/ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調*

(アンコール)シチェドリン/ユモレスク*

プロコフィエフ/交響曲第5番 変ロ長調

 

N響ソヒエフ定期のBプロはロシア/ソ連プロ。1曲目はムソルグスキーの未完のオペラの映画化に際し、ショスタコーヴィチがオーケストレーションを施したもの。ほんの5分ほどの瑞々しい音画で、郷愁を誘うクラリネットの旋律に、水滴のようなハープの爪弾きが撥ねる。

 

ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第2番は、これまで聴いた中では2018年5月のアレクサンドル・トラーゼ(パーヴォ&N響)の渋い抒情が記憶に残る。この日の松田さんは、至って真摯に真正面から弾き切ってみせた。それでも何かしら食い足りなさが残るのがこの曲の一筋縄ではいかないところだろうか。

 

プロコフィエフ5番をソヒエフがN響で振るのは13年ぶりとか。13年前はまだこの曲にもソヒエフにも馴染みが薄かったけれど、今となっては当代屈指のプロコ振り・ソヒエフの指揮でぜひ聴いてみたい1曲(未聴だが2023年のウィーン・フィル来日公演でもこの曲を代役指揮している)。

 

第1楽章の序盤から、「モスクワ川の夜明け」にも通じる黎明の気配が立ち込める。低弦や金管の深呼吸するような響きに、ホール全体が充たされる。音楽の流れに窮屈さや強引さが無く、あくまで自然体でリラックスしている。この楽章、どこまで行ってもなかなか本題が始まらず、「で、結局何が言いたいの?」と思わされることもあるのだが、なるほどこれは「本題の前の深呼吸」なのではなく、「深呼吸そのものが本題」だったんですね。

 

第3楽章の悠揚迫らざる歩みも然り。これまでプロコ5番と言えば、偶数楽章の軽妙な展開に断然魅力を感じていたけれど、むしろこの曲の真髄は奇数楽章にこそあり…と思わせてくれる。第2楽章も中間部のおっとりとしたスローダウンが印象的。第4楽章ではもはやソヒエフは拍で振らず、漂う「気」のようなものを撫でたり手繰ったり。トリッキーな楽想の仕掛けが悉くいい出汁となって、実に豊かでコクのあるサウンドが醸し出される。

 

まさに「交響楽」の醍醐味。これほど味わい深く多幸感あるプロコフィエフはなかなか聴けない。次は13年後と言わず、また近い将来に名シェフのスペシャリテを味わわせていただきたいもの。

■東京都交響楽団 第1034回定期演奏会Aシリーズ(26/1/23東京文化会館)

 

[指揮]ダニエーレ・ルスティオーニ

 

ヴェルディ/歌劇「運命の力」序曲

ヴェルディ/歌劇「マクベス」第3幕バレエ音楽

ヴェルディ/歌劇「オテロ」第3幕バレエ音楽

ヴェルディ/歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲

ワーグナー/歌劇「リエンツィ」序曲

ワーグナー/歌劇「タンホイザー」序曲

ワーグナー/歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲

ワーグナー/歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲

 

ルスティオーニの指揮は2016年に東響、2017年に都響で聴いて以来、久しぶりの3回目。今年4月から都響の首席客演指揮者への就任が決まっており、そのプレ披露公演でもある。かつて「三羽烏」と並び称されたイタリアの若手指揮者たちも、最近何かと話題のバッティストーニは東フィルとの関係が続いているし、ルスティオーニは都響にポストを得た。東響にはマリオッティとのコネクションを継続してほしいところ。

 

この日はヴェルディとワーグナーのオペラの序曲・前奏曲・バレエ音楽を集めた、定期演奏会としては珍しいプログラムで、ちょっと遅めのニューイヤー・コンサートといった趣向。前半にヴェルディの4作品、後半にワーグナーの4作品が演奏されたが、このうち実演で全曲を聴いたことがあるのは「オテロ」と「タンホイザー」のみ。いずれ「マクベス」と「ローエングリン」ぐらいは聴いておきたいと思っているけれど、8作品全部を全曲聴くことはないだろう。その一端に触れられる機会としても貴重。

 

1曲目の「運命の力」からフレッシュで歯切れの良い快演。このオペラ、本編の救いの無い筋書きを解説で初めて知った。「マクベス」のバレエ音楽を聴くのはおそらく初めてで、舞台上演ではしばしばカットされるとのこと。「オテロ」のバレエ音楽もそこだけ切り抜いて聴くとオペラとは別物のようだ。「シチリア島~」ではクレッシェンドにロッシーニ味が感じられ、なるほどイタリア・オペラの地続きの伝統が鮮やかに息衝いている。

 

続けて聴くと、ヴェルディよりむしろワーグナーのメロディメーカーぶりが際立つ。聴くまで忘れていたが、「リエンツィ」も名旋律の宝庫。演奏の熱量が楽曲構成の緊密さを浮き彫りにした「タンホイザー」は、当夜随一の秀演。「ローエングリン」第1幕への前奏曲は、改めて生音で聴くと冒頭部分の和音が「笙」のようにも聞こえる。締めくくりの「マイスタージンガー」も含め、重厚と言うよりはさっぱりとして見通しの良いワーグナー。

 

もっとも歌劇場経験の豊富なルスティオーニにとってこれはあくまで挨拶代わりで、真価を問うのは今秋に予定されているマーラー「復活」などを待ってからでも遅くはないだろう。

■NHK交響楽団 第2054回定期公演(26/1/18NHKホール)

 

[指揮]トゥガン・ソヒエフ

 

マーラー/交響曲第6番 イ短調「悲劇的」

 

N響の記念すべき創立100年イヤーの幕開けはソヒエフ月間。ほぼ毎年のように客演しているソヒエフだが、N響でマーラーを振るのはこれが初めてとか。公式サイトのインタビューで、「この交響曲の悲劇的な側面だけに光を当てるつもりはありません」と語っていたが、その言葉通り、この曲の従来のイメージとは一線を画す、多彩で豊饒な作品世界を引き出してみせた。

 

第1楽章で印象的なのは、トランペットのイ長調→イ短調のモチーフが念を押すように丁寧に演奏され、それに伴うティンパニの打撃が心持ちスローダウンする場面。提示部のくり返し、そして再現部と回数を重ねるごとにくっきりと耳に残る。大編成にもかかわらず各セクションが驚くほど分離よく聞こえ、特に遊軍のように立ち回るヴィオラ隊のザクザクとした刻みが際立つ。木管のベルアップと非ベルアップの違いがこれほどクリアに描き分けられたアンサンブルもなかなか聴けない。再現部の後半からコーダにかけて、音響的な迫力で押し切るのではない、音楽的な文脈の「持って行き方」の説得力には唸らされた。

 

中間楽章はアンダンテ→スケルツォの順。緩徐楽章は近年聴いた中では最も遅く、体感的にはアンダンテ・モデラートと言うよりアダージョに近い。そんな緩やかな弦の流れに浮かび上がる木管が、まるでフランス音楽(ドビュッシー?)を思わせる色彩感で聞こえてきたのには意表を突かれる。対照的にスケルツォはきりりと引き締まった快速テンポで、プロコやショスタコのソ連的スケルツォを彷彿させる。そしてこのメリハリの効いた構成で聴くと、スケルツォ→アンダンテで聴き慣れた耳にも、この楽章順にする必然性がいつになく腑に落ちる。

 

最終楽章で印象的なのは、金管セクションの繊細なフレージングを施されたアンサンブル。主部に入る手前の暗鬱さも、終盤のクライマックスでの豪壮さも、パワフル一辺倒ではなく、あくまで響きは柔らかく、優しさや奥ゆかしささえ感じさせる。ハンマーは2回。でも、これほど異物感なく、オケに溶け込んだ「楽音」として聞こえるハンマーも珍しい。陰の主役とも言うべきチェレスタやダブルハープの存在感も申し分ない。この長大な楽章が決してごった煮にはならず、素材ごとに丁寧に面取りされ適切に火を入れられた極上の煮物のようだ。最後の一撃に続くティンパニの、したたかに遅い足取りが雄弁な余韻を残す。

 

この曲、カタストロフの疑似体験装置のようなところがあって、絶叫系のアトラクションみたいな音響的刺激に充ちた演奏をつい期待しがち。それとはおよそ趣きを異にする演奏で、もう何度も乗ったはずのこのアトラクションの、これまで見逃していた風景がいくつも見えてくる。ソヒエフのマーラー、いいですね。少なくとも第6番に関しては、同じN響で聴いたパーヴォよりこちらの方が好み。新年早々「悲劇的」もどうかと思ったけれど、終わってみれば幸先の良いオーケストラの聴き初めでした。