今夜、ホールの片隅で

今夜、ホールの片隅で

東京在住クラシックファンのコンサート備忘録です。

🔳2024セイジ・オザワ松本フェスティバル オーケストラコンサートBプログラム(8/16キッセイ文化ホール)

 

[指揮]沖澤のどか

[管弦楽]サイトウ・キネン・オーケストラ

 

ブラームス/交響曲第1番 ハ短調

ブラームス/交響曲第2番 ニ長調

 

先週に続き松本詣で。折しも台風7号が接近中で、新幹線の計画運休などもあり行けるのかヤキモキさせられたが、結果的に台風の進路が逸れ無事移動できた。それよりOMFを直撃したのは、今週と来週のオーケストラコンサートを指揮予定だったアンドリス・ネルソンスが、健康上の理由で直前に降板したことである。

 

で、急遽代役に指名されたのが沖澤のどか。音楽祭で居残り再登板のこのパターン、先日のサマーミューザの井上→ノットにそっくり。もちろん沖澤氏とノット氏では立場もキャリアも大きく異なるけれど、この交代劇、私も含め概ねポジティブに受け止められたのではないか。そんな訳で、2週連続で沖澤さんの「追っかけ」に。

 

ブラームスの交響曲は、SKOが創設以来最も数多く演奏してきたであろう中核的レパートリー。第1番は、冒頭からティンパニと共鳴したコントラバス隊が、巨大な蟲の如くブォンブォンと唸りを上げ凄い迫力。序奏から主部にかけて、張り詰めたアンサンブルが堅固で、鋼のようだ。その辺のやわなブラームスが軒並み吹っ飛ぶこの「強かさ」こそ、SKOの伝統だろう。

 

この曲のオーボエ・ソロを聴いていると、自然に宮本文昭氏を思い出すほどには、SKOの演奏が刷り込まれている。第2楽章の終盤、コンマス豊嶋氏の、溢れる想いを押し殺したように奥ゆかしいソロに、オケの来し方を聴こうとするのは感傷的に過ぎるだろうか。バボラーク率いる世界一のホルン隊が奏でる最終楽章の序盤は、ほとんどホルン・ファンタジーの様相。

 

沖澤氏の指揮は、特に変わったことはしていない。それでも普通ではない音がオケから引き出される。最終楽章の2度目の主題からコーダにかけては、魂を揺さぶられる瞬間が何度も訪れた。これは小澤さんが、さらには齋藤秀雄が追求してきたブラームスの「現在」であり、その演奏を聴き続けてきた我々もまた同じ門下の端くれみたいなもの…と、そんなことを実感して泣けた。

 

30分の長い休憩があり、後半は第2番。SKOの実演で聴くと、「田園交響曲」というより、もっと抽象的・求道的なアンサンブル作品に聞こえる。聴きながら何故か、チャイコフスキーの弦楽セレナーデを連想したのだが、あの作品で磨き上げられたサウンドと同質の匂いがするということだろうか。ベースとなる弦楽合奏にブレが無いので、音楽の体幹も揺るがない。第1番がパトスの発露なら、第2番ではこのオケのロゴスの凄みを感じた。

 

想像だが、もし予定通りネルソンスが振っていたら、もっと違う匂いがするブラームスが聴けていたはず。しかし代打沖澤が起用されたことで、このオケに脈打つ音楽性がより純粋な形で顕れたのではないか。バトンは確かに受け継がれたのだ。

 

過日、長野県上田市にある「戦没画学生慰霊美術館 無言館」を初めて訪れた。この美術館の存在を知ったのは、NHKの音楽番組がきっかけで、バーバーやクラムの弦楽四重奏曲がこの場所で収録されていたのだった。訪れた日は暑くて日差しが強く、小高い丘を登って木漏れ日のエントランスを入った途端、十字の形の館内のひんやりとした静謐のコントラストが鮮やかだった。

 

館内には全国から寄贈された名も無き画家たちの遺作が展示されている。個々の作品に何が描かれているか、よりも、絵を描くというのはどういうことなのか、という根源的な問いを突き付けられる。画家たちが亡くなった時の状況も書き添えられているが、一括りに「戦死」と言っても、病気や事故など様々な死因があることに改めて気付かされる。きっと同じ数だけ音楽を志した若者たちもいたはずだが、彼らには何が残せたのだろう…とも。

 

第二展示館に併設された図書館がとても充実していて、蔵書の背表紙を見ているだけでも愉しい。この日は本数の少ないローカル線とバスを乗り継いで来ていたので、帰りの時間が決まっていたけれど、願わくばここで一日過ごしたいと思ったぐらい。

 

* * *

 

先月末から今月にかけて、じっくり読み進めていたのが、ちくま文庫の新刊「長谷川四郎傑作選 シベリヤ物語」(堀江敏幸・編)。長谷川四郎という作家には、昔教科書で読んだ「赤い岩」で出会い、その後いくつかの短編を読んだが、「シベリヤ物語」は未読だった。作者は1945年11月から1950年2月までシベリアで捕虜生活を送り、その体験を基に11の短編が書かれた。

 

これを読むと、日本兵の捕虜だけでなく、ソ連国内からも多くの人々が様々な理由でシベリアに送り込まれていたことが分かる。そして「シベリヤ物語」の以前も以降も、この国の抑圧的な支配構造に、基本的な変化は無いのだろう。最近、ロシア文学者の奈倉有里氏の著作が好きでよく読んでいるけれど、若い世代の彼女が書き伝えるロシアのリアルと、長谷川四郎が見聞きした当時の極東ソ連のリアルが、地続きであると実感する。

 

この時期にこの旧作が刊行されたのは、もちろん終戦の月である8月を意識してのことだろう。記録的な猛暑が収まる気配の無い日々、通勤の電車内でこの文庫本を読みながら、遠くて近いシベリアの過酷な寒気を想像していた。

 

* * *

 

先週、NODA・MAPの新作舞台「正三角関係」を観た。松本潤が初主演ということでチケットが争奪戦となり、何度目かの抽選にかろうじて引っかかった。ネタバレになるので詳しくは書けないが、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を下敷きにしており、それを「唐松族の兄弟」=日本の花火師の家族の話へと大胆に読み替えている。

 

ドラマは花火師の長男(松本潤)、物理学者の次男(永山瑛太)、教会勤めの三男(長澤まさみ)の「三角関係」を軸に展開される。火薬と物理学と神、それらが揃った時点で、早い段階から、あるカタストロフが待つことを想像させる。たまたま取れたチケットが8月6日だったことにも、何かしら意味を感じてしまう。この時期の公演日程もまた、偶然ではないだろう。

 

奈倉有里、長谷川四郎、ドストエフスキーと、またロシア関連でつながる。そしてNODA・MAPと言えば、2019年の「Q」で観たシベリア抑留の悲痛な場面が忘れがたい。あの芝居にも、今回同様、竹中直人が出ていたのだった。個別の絵が、小説が、舞台が、こうして分かちがたく混然としてゆく。

🔳2024セイジ・オザワ松本フェスティバル オーケストラコンサートAプログラム(8/11キッセイ文化ホール)

 

[指揮]沖澤のどか

[管弦楽]サイトウ・キネン・オーケストラ

[ソプラノ]エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー*

 

メンデルスゾーン/「夏の夜の夢」より 序曲、スケルツォ、間奏曲、夜想曲、結婚行進曲

R.シュトラウス/交響詩「ドン・ファン」

R.シュトラウス/「四つの最後の歌」*

 

セイジ・オザワ松本フェスティバルを現地で聴くのは、2017年にファビオ・ルイージが振ったマーラー9番以来7年ぶり。小澤さんの逝去という大きな節目を迎えた今年だが、個人的には例年よりプログラムが魅力的で、この日はOMF初の首席客演指揮者に就任した沖澤のどかの就任披露公演2日目。7年前は路線バスで会場にアクセスしたけれど、今ではシャトルバスが頻繁に出ているんですね。

 

プログラムはいずれもコンサートの前半にやりそうな3曲。2年前の初登場時に振った「フィガロの結婚」での忘れがたい体験から、まず声楽付きの作品をということで「四つの最後の歌」が決まり、横に広がる「四つの~」との対比で、縦に勢いがある「ドン・ファン」を組み合わせたそう。そしてメンデルスゾーンは、沖澤さんが大事な時に採り上げてきた、クルト・マズア先生直伝の勝負曲らしい。

 

開演時間になると、沖澤さんがコンマスの白井さん、矢部さんと連れ立って登場。指揮者とオケのメンバーが一緒に登場する伝統は受け継がれているようだ(終演後の、ソロではなく全員出てくるカーテンコールも)。

 

1曲目の「夏の夜の夢」。思えばこの「序曲」ほど、新進のシェフを迎えるに相応しい曲は無い。冒頭の木管の4つの和音から早くもエモい。軽快に飛ばすかと思いきや、じっくり構えた重厚で本格的なメンデルスゾーン。タララ、タララ~と上下に旋回するサビのフレーズの、いつもとは違う高揚感にぐっと来てしまう。「夜想曲」のコクのあるホルン隊の響きもSKOならでは。「結婚行進曲」の冒頭のトランペットは、マーラー5番冒頭の葬送行進曲とそっくりだな…と、今さら気付いたり。

 

休憩を挟み「ドン・ファン」。これは実に密度の濃い十数分間。音響的には、デッドなこのホールを凝縮感がありながらエッジの効いたサウンドで充たし、音楽的には、場面場面で様々なほかの作品を彷彿とさせる情報量の多いアンサンブルを展開。強かな美音のオーボエを始め、各パート多士済々のソロが冴える。これを聴いてしまうと、いかにも気が早いけれど、R.シュトラウスのより大きな管弦楽曲やオペラもこのコンビで聴いてみたくなる。

 

「四つの最後の歌」は、エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーの歌唱、そして沖澤&SKO共に、諦念や無常感に傾き過ぎることのない、知性的で健全な演奏。第2曲の終盤ではホルン・ソロがくっきりと存在感を示し、第3曲と第4曲ではコンマス矢部氏のひたむきなソロが優しく寄り添う。特筆すべきは第4曲で、陽の光や風や鳥の声など、音楽の中に流れる時間や空間と、特急あずさやシャトルバスから見てきた松本周辺を流れる時間や空間とが、ホールの壁という垣根を越えてつながる感覚を味わった。まさに今、ここで聴くべきスペシャルな選曲。

★「四季~ユートピアノ~」(1980年)

 

こちらをじっと見つめる中尾幸世。アカペラの少女の声が日本語で歌うマーラー4番の最終楽章。雪景色の中を歩き続ける幼い兄と妹。「1歳、母のミシンの音を聴いた。2歳、父の靴音を聴いた。3歳、古いレコードを聴いた。4歳、兄とピアノを見た…」というナレーション。ピアノ調律師・榮子の独り語りというスタイルが、この作品で確立している。

 

津軽のリンゴ産地出身の榮子は、幼くして兄、母、そして父を亡くし、道東の祖父母の家に身を寄せる。やがてピアノ技術者への夢を抱き1人旅立つ。花咲線浜中駅での祖父母との別れ、緑の中を行く列車の窓辺で涙を流す榮子に、マーラー4番の第1楽章が流れるくだりは屈指の名場面。上京し小さなピアノ工場に入るも間もなくつぶれてしまい、ベテラン調律師・宮さんを紹介され、住み込みの見習いになる。しかし手の不調で調律できなくなった宮さんは、大型客船の船内で榮子が調律中に消えてしまう。

 

その後も、先輩調律師の愛子が突然亡くなったり(自殺?)、榮子の周囲で大切な人の喪失=「音が消える」が続く。それでも四季は巡り、榮子はピアノの調律で色々な場所を訪れ、人々と出会う。ラストは冒頭と同じく、カメラを見詰める榮子、零れる涙、雪の中を歩く兄妹、マーラー4番終楽章の歌…で終わる。佐々木美学のひとつの極致ではなかろうか。100分。

 

★「川の流れはバイオリンの音」(1981年)

 

「アムール川、ライン川、セーヌ、ミシシッピ、アマゾン、ドナウ、エニセイ、ドニエプル…」と川の名前を言い続ける声。ヴィヴァルディ「四季」冬の第2楽章をアカペラで歌う声。栄子のナレーション「アルプスを下った。小さな川に沿って歩いた。大きな川に出た。ポー川。フィウメ・ポー」。ピアノ調律師・栄子がヴァイオリン・ケースを持ってポー川のほとり、クレモナの街へやって来る。東京で壊してしまった妹のヴァイオリンを直すために。語りは栄子から妹への手紙という形を取る。

 

老ヴァイオリン職人のアントニオ、少年ルーカ、白馬の老農夫ルイジ、声でグラスを割る力自慢のマリオなど、人々との触れ合いがあり、アントニオの工房を借りて、栄子はヴァイオリン作りを始める。「ヴァイオリンのf(f字孔)は川(fiume)」。ポー川には無いヴァイオリンの木を求めてドナウ川へも旅をする。そのうちアントニオもルイジも亡くなり、栄子のヴァイオリンはニスが乾けば完成するところまで進む。「今度はどの川に行こうかな」。最後はまた色々な川の名前と、鐘の音が聞こえる。

 

オール海外ロケで、栄子がしゃべる片言のイタリア語の発音が強い印象を残す。以前から見られた外国語への愛着と、中尾幸世の独特な語りが見事に溶け合って、独自の世界観に結実、全編がひとつの音楽のようだ。80分。

 

★「アンダルシアの虹」(1983年)

 

イタリアに続きスペイン編。舞台となるのはアンダルシアの街・グラナダと、グァダルキビル川。「地球の片隅で 川のほとりで/今日も静かに暮らしている人々が/います。」という字幕で始まる。テーマ曲は珍しくオリジナル作品のようだ。

 

洞穴を掘る職人マヌエル。そのロマの一家が住む白い家に、ひと夏の間、部屋を借りた栄子。妻のコンチータも長女のピーリーもフラメンコの踊り手である。栄子はマヌエルの仕事を手伝いながら、鍛冶屋のペペ、郵便屋の助手ホアン、力持ちのサンチョ、ギター職人のアルフォンソ、小鳥の笛を作るフリアンらと交流していく。しかし彼らは次々と、それぞれの旅に出てしまう。マヌエル一家もまた、書き置きを残していなくなる。栄子は虹の絵を描き、次の「川の音」を探して歩き始める。

 

ピアノ、ヴァイオリンに続き、今回主役になる楽器はギター。そして栄子は画才の持ち主でもあり、出会った人物たちの見事な鉛筆画を描いてゆく。バブル前夜の、「地球の歩き方」初期の海外志向、異郷への憧れを思い出させる作品。82分。

 

* * *

 

「川の流れはバイオリンの音」「アンダルシアの虹」の後、スロバキア編「春・音の光」が放送され、この3本が「川3部作」。ほかにも、つげ義春原作の「紅い花」(1976年)や、1980年代後半から90年代前半にかけて数本のドラマが放送されたようだ。しかし今、それらの作品を公式に視聴する手段は無く、訃報があった今年6月以降も、再放送された様子は無い。こうしたアート系のテレビドラマが制作され、輝きを放っていた時代は遠くなるばかりである。

 

ところで、私が中尾幸世さんの存在を最初に意識したのは、実は佐々木昭一郎ドラマではない。NHKFMで放送された寺山修司原作のラジオドラマ「赤糸で縫いとじられた物語」で耳にしたのが先である。一度聴いたら忘れられない声と語りに魅了されたのだが、知らずに見ていた「川の流れ~」の主演が彼女で、その後何十年か経って、佐々木昭一郎作品で再会することになるとは思わなかった。そういう意味でも、忘れられない作品群となった。

佐々木昭一郎はNHKのドラマ・ディレクターだった人。ドラマともドキュメンタリーともつかない独特の演出と、音楽を印象的に用いた作風で、主に1970年代から80年代にかけて活躍した。私自身は、代表作の1つである「川の流れはバイオリンの音」をかろうじてリアルタイムで観た記憶があるぐらいで、微妙に間に合わなかった世代。このブログを始めた2014年に、NHKBSで佐々木氏の作品のいくつかが再放送され、その時初めて集中的に視聴することができた。

 

録画したそれらの作品を、もう一度見直してブログに書いておこうと思っているうちに、10年が経ってしまった。今年こそは夏の休暇を利用して観るぞと思い、久しぶりに「佐々木昭一郎」を検索してみたら、6月14日に亡くなっていたことを知った。そんな訳でタイミング的には追悼企画になってしまったけれど、保存していた6本の作品を初回放送順にふり返り、簡単な感想を備忘録として残しておきたい。

 

★「マザー」(1970年)

 

「ある日…/あるとき…/ある街で」「ひとりの赤児が/捨てられていた」という字幕で始まる。海を横切る船の影。海を見ている少年。神戸と思しき港町を、母を知らない少年(横倉健児)が独り彷徨い歩き、様々な人々との束の間の出会いが描かれる。祭りの最中の港町はパレードで賑わい、外国人の姿も多い。様々な言語で発音される「母」を意味する単語のコラージュ。「ぼくねぇ、生まれた時何見たかよく覚えているよ」に始まる少年の特徴的なモノローグが挿入される。

 

終盤、少年は警察(?)に保護されるも、ほぼ黙秘状態で埒が明かない。ラストは冒頭と同じ埠頭を駆けて行く少年の空撮と、字幕「ある日、ひとりの少年が/見知らぬ里親のもとに/ひきとられていった(後略)」。子役にどう演出を付けたのか謎だが、ドキュメンタリー色が濃く、特に外国人女性とのディスコミュニケーション(ほとんど放送事故レベル)がリアルで痛々しい。哀愁に充ちた口笛のテーマ曲と、老人がマンドリンで弾く第九の「歓喜の歌」が流れる。56分。

 

★「さすらい」(1971年)

 

北の漁村で海を見ている青年(渋沢忠男)。幼くして親と離れ、兄と共にキリスト教系の施設で育った彼が、「ここじゃない、ほかの所/この人じゃない、ほかの人/今ではない、ほかの時」を求め続ける、魂の彷徨を描く。上京した青年はまず看板屋に職を得て、いつもギターを弾いている先輩と下宿生活を送る(この先輩が歌う戯れ歌が傑作)。その所在地は渋谷・円山町界隈のようで、神泉駅近くの崖やトンネル、踏切など、今とほとんど変わっていない(赤い服の少女役で栗田裕美が登場)。

 

やがて先輩の後を追うように看板屋を辞めた青年は、ヒッチハイクで北を目指し、サーカスの下働きをしたり、移動劇団のトラックに便乗したり、氷屋の手伝いをしたりしながら、出会いと別れをくり返す。しかしどこにも居場所を見出せないまま、冒頭の海辺で所在なげにぶらつくシーンで終わる。

 

前述の渋谷(道玄坂のホコ天も)や、ディスカバー・ジャパンの時代の地方(主に東北)にロケした記録として興味深い。津軽鉄道の川倉駅や深郷田駅が出てくるし、移動劇団は気仙沼、氷屋は三沢基地周辺で米軍相手の商売もしている。見世物小屋の「ヘビ女」の客寄せ口上や、サーカス一座の生活感、ゲリラ的に街頭で任侠芝居を始める移動劇団(新宿はみだし劇場)の行状など、今では失われてしまった当時の「サブカル」の貴重な資料映像でもある。90分。

 

★「夢の島少女」(1974年)

 

佐々木作品のミューズ・中尾幸世が初登場。冒頭からオルガンが弾くパッヘルベルのカノンが流れ、その後様々にアレンジされテーマ曲として全編に挿入される。東京の下町・木場辺りの川べりに、赤い服の少女(中尾)が意識不明で倒れており、発見した少年(「マザー」の横倉健児)が抱え上げて自室に運び込む。少年は少女の世話をし、2人の密やかな共同生活が始まる。少女の回想で、彼女は秋田県の五能線・八森駅近くの海辺の村で、祖母と2人で暮らしていたことが分かる。

 

やがて集団就職(?)で上京し、食堂で働き始めた少女だが、客の男に目を付けられ、付きまとわれるようになる。男の車に同乗したり、自宅に出入りするようになるが、2人の間に何があったかは具体的には描かれない。書き置きを残し少年の部屋を出た少女は、故郷の八森に帰る。その後を追う少年。この辺りから現実と幻想の境目が曖昧になり、少年が男を襲撃したり、少女と再会したりするが、どこまでが現実の出来事なのか判然としない。

 

ラストは冒頭と同じく、赤い服の少女を背負った少年が、夢の島と思しき殺風景な場所をどこまでも歩く空撮に、パッヘルベルのカノンが盛り上がって終わる。ファンタジー色が強く、破綻すれすれのドラマをファムファタール=中尾幸世という存在に託した野心作。75分。

🔳フェスタサマーミューザ 新日本フィルハーモニー交響楽団(8/2ミューザ川崎シンフォニーホール)

 

[指揮]ジョナサン・ノット

 

マーラー/交響曲第7番 ホ短調「夜の歌」

 

本来なら井上道義氏のラスト・サマーミューザとなるはずだったが、直前になって病気療養のため降板することに。そのまま配布されたリーフレットにある井上氏のメッセージによれば、12/30の読響との引退前最後の演奏会でマーラー7番をやる予定だったが、思い直してサマーミューザにスライドしたらしい。しかし無念の降板で、氏の言う「究極の解釈」は永遠に封印されてしまったことになる。

 

で、代役に指名されたのがジョナサン・ノット。これには驚いたが、なるほど「払い戻し無し」を納得させる人選ではある。図らずもノット&新日フィルという普段ならあり得ないコンビが実現することに。その期待感もあってか、平日昼にもかかわらず(人のことは言えないが…)大入り札止めの大盛況で、開演前の男子トイレの行列がとんでもない長さに。

 

ノットが振るマーラー7番は、2019年11月の東響定期で聴いている。第1楽章の序盤は、その時を思い出させるテンポの遅さで、基本的な解釈は変わっていないようだ。ノットのタクトはいつもよりオープンな指揮ぶりに見えるし、良くも悪くもサウンドにクセが無い新日フィルの対応力もさすが。多少のキズはあるにせよ、第1楽章や第3楽章の終盤など「これは」と思わせる瞬間が何度かあった。

 

しかしそれがなかなか持続しない。音楽は流れているのだが、局面ごとの精度にバラつきがあり、全体としてはどうも焦点を欠く印象。第4・5楽章は正直「長いな」と感じてしまった。それでも終演後は大いに沸いたが、多分に急遽の代役出演に対する労いの意があったのでは。代打として打線をつなぐ役割はきっちり果たしたと思うけれど、それ以上のミラクルな何かまでは起こらなかった…というのが個人的な感想。

🔳トッパンホール ランチタイムコンサートVol.129 サマースペシャル(8/2トッパンホール)

 

[ヴァイオリン]小川恭子、大塚百合菜

[ヴィオラ]石原悠企

[チェロ]築地杏里

[ピアノ]北村明日人

 

ブラームス/ピアノのための6つの小品 作品118

シューマン/ピアノ五重奏曲 変ホ長調

(アンコール)ブラームス/ピアノ五重奏曲より 第2楽章

 

毎年書いている気がするが、危険な暑さが続くこの季節、会場までの道のりにちょっと怯む(特にマチネ)のが、先週のさいたま芸術劇場と、今回のトッパンホールである。でも聴きたい公演がこの時期にあるのだから、聴きに行くしかない。

 

この日のランチタイムコンサートは拡大版サマースペシャル。出演者は若手の精鋭5人で、ヴァイオリンの小川恭子さん、元Qインテグラのチェロ・築地杏里さん以外は、初めて聴く奏者たち。その1人、北村明日人さんのピアノで、まずブラームス晩年の小品集。力強さと優しさを兼ね備え、丁寧に弾き込まれた佳演。枯淡の境地ではなく、張りもツヤも潤いもある、フレッシュな感性で彫琢されたブラームスを味わう。

 

そして5人によるシューマンのピアノ五重奏曲。今回のメンバーはこの曲のために西巻Pが集めたとのこと。室内楽の実戦に覚えのある面々と見えて、冒頭のひとくだりから、若い個性がぶつかり合うというよりも、柔らかな呼吸感を感じる。口にしたら案外大人っぽい味のケーキのような。そして個々の奏者の存在感よりも、楽曲そのものの良さが伝わってくる。この作品の自然で自発的な律動感は、本当に素晴らしいと思う。

 

アンコールにはブラームスのピアノ五重奏曲から第2楽章。シューマンがピアノ五重奏曲の「女王」なら、ブラームスは「王様」だと思う。せっかくなら、もう二度と聴けないかもしれないこのメンバーで、「王様」も全楽章聴いてみたかったな。

🔳Noism Company Niigata 20周年記念公演「Amomentof」(7/28彩の国さいたま芸術劇場大ホール)

 

[演出振付]金森 穣

 

「Amomentof」

「セレネ、あるいは黄昏の歌」

 

日本初の公共劇場専属舞踊団として2004年に新潟で設立されたNoismも今年20周年。私が初めてこのカンパニーの公演を観たのは2021年7月の「春の祭典」ほかで、それ以来3年ぶりに埼玉公演へ。20周年記念公演となる今回のお目当ては、マーラーの交響曲第3番第6楽章「愛が私に語ること」に振り付けられた新作「Amomentof」である。この曲を使用した舞踊は、以前モーリス・ベジャール振付の舞台映像を観たことがあるが、ベジャールの弟子筋に当たる金森氏はどんな舞台を創り上げるだろうか。

 

無音のまま緞帳が上がると、舞台には1人の女性ダンサー(井関佐和子)がいて、身体を動かしている。そこは稽古場だろうか、舞台上に腰の高さの金属のバーがまっすぐ伸びている。やがて1人、また1人とダンサーたちが現れ、バーを使ってウォーミングアップを始める。その人数が20人を超えた頃、井関さんが指先をふと見上げ、全員の動きが止まる。そこにマーラーの音楽が流れ始める。第6楽章がフルサイズで舞台化される。

 

出ずっぱりの井関さんがソロで、金森さんとのデュオで、あるいは代わる代わる現れるダンサーたちとアンサンブルで踊る。その動きがシンプルに美しい。途中、舞台奥に鏡が現れたり、レオタード姿だったダンサーたちが普段着の服装で登場したり、舞台背景に過去の公演ポスター(?)がずらりと映されたり、色々あった後、最後は音楽が始まった時の稽古場風景に戻っている。全ては彼女がみた一瞬の夢であり、カンパニーの20年もまた一瞬の夢のように…。

 

タイトルの「Amomentof」とは、「A moment of」を縮めた造語とのこと。膨大な稽古の果ての「一瞬」に賭け、そのまま残らずに消えてゆく、舞踊芸術というものの本質への愛、誇り、そして祝福に充たされた30分間。あまりにも儚く、そして切ない。

 

休憩を挟み、ダブル・ビルのもう1本「セレネ、あるいは黄昏の歌」。月(セレネ)をテーマにしたシリーズ作品で、初演時には野外で上演されたそう。「Amomentof」よりも神話的・説話的なドラマ性を感じさせ、腰を落とし足を踏み鳴らす日本的な下半身の動きが目立つ。そして何より印象的なのは、ヴィヴァルディ「四季」をマックス・リヒターが編曲した音楽。この編曲版を聴くのはおそらく初めてだが、あたかもこの舞台のために作曲されたかのように、音楽と舞台とが不可分に一体化していた。

🔳フェスタサマーミューザ 東京交響楽団 オープニングコンサート(7/27ミューザ川崎シンフォニーホール)

 

[指揮]ジョナサン・ノット

 

チャイコフスキー/交響曲第2番 ハ短調「ウクライナ(小ロシア)」(1872年初稿版)

チャイコフスキー/交響曲第6番 ロ短調「悲愴」

 

東京・春・音楽祭と同じく、今年で節目の20周年を迎えたフェスタサマーミューザ。今やすっかり定着した2つの音楽祭は、同じ年に始まっていたんですね。オープニングは今年もノット&東響によるチャイコフスキーの交響曲で、昨年の3&4番に続き2&6番が採り上げられた。これまで6曲中唯一実演で聴けていなかった第2番を聴ける貴重な機会。

 

この第2番、「小ロシア」というニックネームに馴染みがあったけれど、今回は「ウクライナ」と併記される形に。調べてみると「小ロシア」という呼称には歴史的に複雑な経緯があるようで、昨今のウクライナ情勢が、こんなところにも関連しているのだと実感する(ちなみに「ベラルーシ」よりソ連時代の「白ロシア」に馴染みがある世代)。解説によると、第1・2・4楽章に現れる旋律がウクライナ民謡に基づいている。

 

この曲には作曲者自身による改訂稿があり、そちらで演奏される方が一般的なようだが、今回は1872年初稿版での演奏。予習でよく聴いていたパーヴォ・ヤルヴィ&チューリッヒ・トーンハレ管による演奏と聴き比べてみると、全く別の曲のようだ。第2楽章の行進曲はずっと遅く感じたし、第3楽章スケルツォはチャイコフスキーとは思えないほど無骨で乱雑。そうしたプリミティブな姿をそのまま詳らかにするのが指揮者の意図だろう。

 

後半は「悲愴」。東響によるこの曲と言えば、2015年8月にゲルギエフが振ったチェスキーナ洋子追悼演奏会での演奏を思い出すし、ミューザで聴いたこの曲と言えば、2020年11月にやはりゲルギエフが振ったウィーン・フィルの演奏を思い出す。

 

以前に読んだインタビュー記事が正しければ、ノットはこの曲を指揮したことが無いらしい。そして、敬して遠ざけてきたチャイコフスキーの全ての交響曲の楽譜を、もう一度読み直してみる…とも。なるほど、先週、ブルックナー7番を暗譜で振ったノットが、この日はスコアを見ながら「悲愴」を振っている。

 

この曲にこびりついた悲劇性や、詠嘆調の演奏慣習を排し、一編の交響曲として各パートを再構成した演奏。贅肉を落とした、引き締まったサウンド。当然、最終楽章もアタッカではない。弦も必要以上にしゃくり上げない。終盤、タムタムに続くトロンボーンのアンサンブルの、何とあっさりしたことだろう。余計な設定を削除し、再起動したPCのような身軽さ。ゲルギエフとは全く別の曲に聞こえたが、これはこれで興味深い。

🔳東京交響楽団 第722回定期演奏会(7/20サントリーホール)

 

[指揮]ジョナサン・ノット

 

ラヴェル/クープランの墓

ブルックナー/交響曲第7番 ホ長調(ノヴァーク版)

 

この日はみなとみらいでかなフィル定期を聴いた後、サントリーホールの東響定期へハシゴ。途中、日吉で1回乗り換え、ホールtoホールで1時間かからず、思ったよりスムーズに移動できた。

 

最初に管弦楽版「クープランの墓」。ブル7の前プロとしては珍しい組み合わせだが、強いて関連性を探すなら、大切な人への追悼の意ということになろうか。ブル7への心の準備がすでに始まっているような整然たる演奏。

 

ブルックナー生誕200年の今年、すでに各番号の交響曲が何度も演奏されている当たり年だが、私はようやくこれが今年の初ブルックナー。ノット&東響による第7番は、2015年6月の定期でもやっているが、惜しくも聴き逃しており、待望の機会。とは言え9年前と今では、かなり違った演奏になっているはず。

 

第1楽章、冒頭の息の長い主題から、ノットの棒に吸い込まれるように、目の詰まった水も漏らさぬアンサンブルが展開する。聴いているこちらまで胸がきゅーっと締め付けられるようだ。どんなリハーサルをしたら、こんな隙の無い演奏が可能なのだろう? 何だか美しすぎて畏れ多いような、空が青すぎて哀しくなるような、そんなブルックナー。変な事故でこの名演が壊れませんように…と余計な心配さえしてしまう。コーダではティンパニのトレモロが鬼気迫るクレッシェンドで度肝を抜いた。

 

フレージングのどの瞬間を切り取っても神懸っている第2楽章。息遣いがそのまま伝わってくるフルート・ソロが、要所要所で温もりを添える。何気ないフレーズの歌い終わりに、思いがけず第2ヴァイオリンやヴィオラのパートが浮上してきて、存在感を主張する。頂点で打ち鳴らされる打楽器の神々しさ。終盤の金管合奏の透明な哀しみ。第2楽章が終わっても、まるで全曲が終わった後のように長い静寂が続き、なかなか緊張が解けない。

 

後半の2楽章も充実した演奏だったが、とにかく前半の2楽章までで打ちのめされた。この公演のチラシには「ブルックナーここに極まれり」とあったが、その宣伝文句に偽りなし。このコンビを10年以上聴いてきて、決定的な名演に何度も出会ったけれど、まだこんな高みがあったとは…。どのパートも持てる力を尽くした全員野球だったが、敢えてMVPを選ぶなら、ティンパニの清水太とフルートの竹山愛。どちらも上手い奏者だとは思っていたが、当夜改めてその真価を知らしめた。

 

今年はもうブル7は聴かなくていいや。まだまだこの余韻に浸っていたい。