作品は残る? | Novel & Scenario (小説と脚本)

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作者が死んでも作品は残る、という意見を聞くとなんだか安らぎます。そうだな、そうかもしれないな、と。

今はデジタル技術の進歩で作品を残すのが手軽にできるようになりましたね。自分などが書いたものでも電子書籍で出版できます。なんらかの賞を取ったわけでも出版社のお眼鏡にかなったわけでもないのに、作品を自由に発表できる。発表しても売れるかどうかはまた別ですが、とにかく他の著作物と一緒に並べてもらえる。

デジタルデータなので複製も簡単です。自分は今Amazonのみですが他のサービスで出版することも可能は可能です。販売という形でなくともWebサイトを作れば作品を発表でき、インターネットがあれば世界中で見てもらえる。

便利な時代になりました。もちろん便利になり過ぎて発表される作品が溢れ、埋もれてしまい見つからない、という面はあるでしょうが、それでも自力で発表できる場ができただけいい。

デジタル媒体じゃちょっと、という人はいまだいますけどね。

ネットにアクセスしないと見れないじゃないか。端末に落としたところで電源がないと見れない。単体で見られずデータなら消えるおそれがあるし、なんとも頼りない。

わからなくはないですが紙の本だっておそれや限界はあります。傷むし燃えるし、「形ある物はいつか壊れる」でしょう。

まぁいずれにしても作者の命よりは長く残りそうです。人生100年時代と言えど。

名作となれば何度も版を重ねたり多くのところから出版されたりさらに残りますしね。稀なケースでしょうが。

いや物とか形の話じゃなく「心に残る」という意味だろう、との意見もあります。

作者が死んでも作品は残る、というのは、それを見た人、読んだ人が影響を受け、さらに別の作品を作ることで残り続けるという意味。作品を作らなくても接した人の性格や考え、つまり人間形成に影響し、その人と接した人にも広がる。DNAのように残り続ける。

そういうことはまぁ、あるはあるでしょう。

でも影響というのは日々受けるものですしね。生まれたての赤ん坊なら親の影響が100%だったとしても、そのあと自力で立ち、歩き、多くの人や物に接すれば様々な影響を受け、100だった影響はどんどん薄まるんじゃないか。無論0にはならないでしょうが度合いは減っていく。

そんな風に毎日いろんな刺激を受けるのだから、作品に受けた影響、それは残ってもわずかだろうと思います。死後も残るというのは作者自身が望むこと、愛好家などが信じたいことで、一種の「物語」じゃないかと。

人は日々あれこれ感じて考え、至った結論を形にしたいと作品にしたりしますが、おそらく生きた証を残したいんでしょう。洪水でも流されないような重い石を墓にするのと同様で、この世に存在したことを残したい。死と共に消えてなくなり、忘れ去られるのは寂しくて。

煩悩と言えば煩悩でしょうが、自分もあります。バリバリあります。たぶん一般より強めに。

物語や物語について書くのはただ楽しかったり考えをまとめたかったりと同時に、「これは意味あることだし残したい」という欲求、「残さねば」という使命感、そういった個人的な思い込み、諸々の物語に動かされてるんだと思います。自ら欲してこさえた物語に囚われ、もしくはしがみついて生きている。

なので他人をとやかく言えないし上からの分析のつもりはないのですが、作品の影響について言えばあまり期待してない、できないと言うか(売れてないという個人的な理由もあるでしょうけど)懐疑的なところがあります。

思うほど作品は残らないし残るのはわずかだし、ほとんどのものは消えていくだろうと。今も稀に残ってるのは古典だったりパイオニアだったり歴史的文化的な価値とかの付加価値ゆえで、本来作品は時代遅れになるのが運命、忘れ去られるのが自然じゃないか。

そんな物語を書いたことがあります。「逃避行」という短編でした。昔々の話ですが場所は特定してません。日本を浮かべてもいいしそれ以外を浮かべてもいいように書いたつもりです。ストーリーなどの詳細は省きますが、「忘れ去られた物語」を書こうと思いました。

自分はハワイ好きで昔は何度か旅行し、魅力は常夏で緑豊かで自然に果物がなってるし海には魚がたくさんいるし「まさに平和な楽園」と感じるためですが、歴史を学ぶとカメハメハが統一するまでは各地にグループがあって争っていたようです。縄張り争いが幾度もあったよう。

そのハワイアンの祖先は遠くポリネシアからカヌーで渡った人たちですが危険を冒して海を渡ったのはやはり故郷の島々で争いがあったんだろう、と想像します。縄張り争い、権力争いなどで負け、居場所がなくて新天地を求めるしかなかったんじゃないか。

明治になると今度は日本からも(それ以外からも)多くの人が移住し、人が集まれば軋轢は生まれ、そういう争いを人は昔から世界各地で繰り返してきたんだろうと思います。そこには無数のこんな物語があったはず、というのが「逃避行」のモチーフでした。今も残る物語はあるけどほとんどは語り継がれず消えていったんじゃないか。

そう考えるのは寂しく悲しく、だからこそ「作品は残る」という物語を欲し、さらに「残るものが価値ある」という考えを生み、それで人は発展や潤いもしたけど、残らない物や事を軽視する価値観を強めたんじゃないか。そこを見直さないといけないのかもしれません。

日々あれこれ感じて考えても、結論に至るだけじゃない。結論に至らないこと、無関係なもの、流れて消えていく時間が大半で、大半だからつまらないと思うし粗末にしがちですが、そここそもっと注目すべきじゃないか。

日常。それは天災や戦争が起きれば一瞬で失われるものです。物語にならないもの。物語から弾かれるもの。

自分の中ではそれらを書くのが「エッセイ」と考えてるところがあります。逆に稀な出来事や結論を書くのが「フィクション」と分けている。役割分担と。

でも思えばこのエッセイでは物語についての結論みたいなことばかりを書いていて、フィクションよりずっとストレートに書いてます。矛盾してる。

儚く消えていくものをもっと書くべきなのかもしれませんね。それだともっと読まれないかもしれないし、上手に書く人がたくさんいるので書いてこなかったんですが、ちょっと考えます。

 

 

物語についてのエッセイ・目次

 


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