ベースにあるもの | Novel & Scenario (小説と脚本)

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このエッセイで既存の作品や作家に触れる際に名前を出す時と出さない時があって、「どういう基準?」と気になりました。急にです。その都度なんとなくだったんですが、自分なりになんか基準があんの?

まず称える時ははっきり書きます。あまり問題ないだろうと。相手先の目に触れることはまぁないでしょうが、触れたところで不快にはしないんじゃないか。ピントがズレた称賛だと可能性はゼロじゃないけど大目に見てもらえるだろうと。

でも批判の時は両方あります。はっきり書く時と書かない時と。

今まで書いた対象を振り返ると、世間的に広く知られたもの、評価されたもの、ある種の権威ですね。

しっくり来ない作品はたくさんあるし(あって当然でしょう)でもいちいち批判はしません。トゲトゲして嫌だし不毛だし、ほとんどはスルー。たいていの人がそうですよね?

それでも「これだけは言いたい」「言わねば」というレアケースを書いてるわけですが、明記するのは相手先に伝えたいとか意見したいんじゃなく、世間に向けてです。世間の評価に対して「それ違くない?」というのが目的で。

相手先にもし伝われば不快にするかもしれないし返り討ちに遭うかもしれません。なので全然気は進まないんですが、名前を書かないと意味がない時だけ書いてる感じ。

だから細部を批判したいだけの時は書きません。世間にそこまで知られてないもの(と思えるもの)についても書かない。わざわざ書いても無駄にバチバチして不毛。

で、ここからは手前味噌になりそうで難しんですが、この「戦うのは権威や強者と」というスタンスはわりといいよね、大事よね? と思います。

まぁメジャー作品やその製作者は自分からするとみんな強者で差をつけずすべて明記していいんでしょうが、とりあえず「より強いものだけ」を相手にする感じ。

昨今の政治や風潮は逆に行ってる気がします。強いものには逆らわず(逆らえず)弱いものだけをいじめて切り捨てるような。

カッコ悪いですね。全然クールジャパンじゃない。

もちろん弱者がすべて善人じゃないでしょう。なんでもかんでも差別やハラスメントにこじつけ、「むしろ強者じゃない?」と思うこともあります。他者に配慮のないワガママなだけも多く見ます。

それとはそれで戦わないとおかしくなるし、相手はいつも強者限定というんじゃないんですけどね。

弱者のずるさというのはあります。すぐ誤魔化したり安易に長いものに巻かれたり。

自分も例外じゃありません。でもそれは人のサガだろうと思います。追いつめられたらズルもする。追いつめておかしくさせるものが別にいる。

目の前の相手よりその背後、元を辿るって大事ですよね。先の先の、そのまた先に原因があるかもしれない。追っていくのは嫌いじゃありません。

そして支援してるうちに弱者が強者になってるケースもあります。力を手に入れいつの間にか横暴に振る舞ってるケース。

なので信じ続けてもいけないんでしょう。時には疑ったり都度判断が必要。

そこらがとても難しんですが、それでもなお弱者の方につきたいと思います。つくも何も自分はそもそも弱者なんですが、強い方につこうとするのはみっともない。カッコ悪い。

例えばコロナ対策にしても戦争にしても、威勢のいいことを言う人は「自分だけは死なない」と思ってる。死ぬのは「自分以外の誰か」と思ってる。自分は不死身のヒーロー。子供みたいですね。

自分より弱いものが犠牲になっても「致し方ない」と言い、「シビアな判断に迫られるのが現実」と言い、のどもと過ぎれば「あの時あの状況では仕方なかった」とろくに検証せず反省もせず責任も取らない。

自分に都合のいい事象や理屈ばかりを採用して意見を持つのは、物語を作るのと一緒です。

誰もがそうと言えばそうでしょうが、「自分の方が間違ってるかもしれない」と思えない人、「さらに弱い人はどうだろう?」と想像できない人、そして強力ゆえに影響大でも悪びれない人には、希望が持てません。今の自分を肯定ばかりしてるんですから。

弱い側にどれだけ立ってるか、というのがいろんな事や物や人を見分ける時の基準になってるようです。

「それはちょっとカッコよすぎない?」と思わなくもないですが、負け犬の遠吠えにも見えて「カッコよくはないか」とも思います。でも不死身のヒーローを気取るよりいいやね、と思います。
 

 

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