物語の曖昧さ | Novel & Scenario (小説と脚本)

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あだち充の「タッチ」と「H2」が好きで長年交互に読んでます。両方とも高校野球を題材にした少年漫画で共通点は多いですが、対照的な部分もあります。

「タッチ」は主人公ふたりがほぼ最初から最後まで相思相愛。揺るがない。あいだに双子の弟(幼馴染)がいてややこしくなりかけますが、序盤で急死。彼を思うとふたりは進めない。特に兄が進めない。内面の問題ですが本人には重く、それでも相思相愛で物語としてはわかりやすい。

「H2」も幼馴染との恋愛が軸ですが、比較するとややこしい。主人公は幼馴染を親友に紹介し、でも並より遅かった思春期を迎え、彼女に対する思いに気づく。彼女もまた彼への思いに気づき、しかし進んでしまった人間関係を戻せない。それを察した親友は、彼女に改めて自分か主人公かを選ばせようとする。甲子園での対決のあとに。

幼馴染のことを諦めていた主人公は、親友の決意を知り闘志を燃やし勝負に挑む、という流れですが、この時の心境を理解するのが難しい。自分はいまだによくわかりません。

あだち充の描く主人公たちの特徴は、自分が不幸になるのをいとわない点だと思います。自分より相手のことを考える。

「H2」の主人公もそうで、幼馴染を思えば選ばすことなどできない。自分が勝っても誰も幸せになれない。そんな選択を彼女に迫った親友への怒り。自分の負けですべてが収まると思いつつ、自分には野球しかない。そして今まで苦楽を共にした仲間がいる。わざと負けたりはできないし、野球だけでは勝負したいとやってきた。

様々を背負っての対決。そして親友に勝つものの涙を流す。

このラストの解釈はネット上だといろいろで、しかし「おかしい」という批判ではなく「どうとらえたものか」という疑問と各自の考え。それが多いのは作品の曖昧さゆえでしょうが、決して悪いとは思いません。自分はそれを楽しんでます。自由に想像して物語を創る楽しさ。だから繰り返し読む。

わかりやすくないためにハマる、多くに支持される、という物語は結構ありますね? このブログで取り上げた映画「この世界の片隅に」もそうだと思います。

わからなさ、曖昧さはリアリティーを生みますし。ひとりの人間だって一貫してない。それが集まって作った世界はややこしい。

それでも現実世界ではなんらかの判断を常々しないといけませんが、素早い判断は落ちつきたくて、というのをよく見ます。安心したくて答えを急ぐ。

でも早まった判断よりはすぐ決めつけない余裕、保留にしておく曖昧さ、未確定や不安定に耐える姿勢こそ成熟かもしれません。

なので曖昧さには肯定的なつもりですが、フィクションではこれを排したものにも魅力を感じます。

前にも書きましたが山田太一さんの「男たちの旅路」は好きな作品で少し前にシナリオ本を買いました。近所の図書館でいつでも借りられたのですが、最近すっかり図書館から足が遠のいたので。

再読してもやはり名作、良作でした。

ただ以前も書いた通り、山田太一作品の中では異質だと思います。老いや障害者や親子関係などの問題を真正面から取り上げ、そのテーマのために場所を選びキャラクターを作りストーリーは無駄なくストレート。隙なく見事なものです。

改めて堪能しましたが、でも過不足なく曖昧さはないため「精巧な作品」と感嘆するものの、そこどまり。それ以上には膨らまず、このエッセイでも取り上げようとしましたが「さて何を書こう?」と考えても言うことなし。

それがいけないわけではありません。作品としてはそれがいい出来、と自分も作り手としてはそこをめざします。曖昧さの魅力は感じつつも、それはめざさないし狙うものじゃないと考えます。

とは言え「みなまで書かない」とかはやりますけどね。一から十まで書かず、読者が自身で答えを出せるところで留める。

それはしかし曖昧にしたいわけじゃなく、むしろより伝えるためです。自ら出した答えの方が深く染み入る。

ではなぜ曖昧さを避けるかと言うと、まず「物語はそういうもの」と考えるから。

物語は何をどうまとめてもいい無限の自由の中で、これしかない、というパーツを選び選び形にするものだと思います。選んだからには理由がある。残したからには意味がある。なんとなく選んだにしても、他よりこれがいいという選択には根拠がある。

根拠が曖昧だと伝わらない。よくわからないと混乱する。混乱させないためには確かな理由で選ばないと。なんとなくなものは明確にするか削らねば。物語はそういうもの。

それに曖昧さは害悪にもなり得ます。

クリント・イーストウッドが監督した「グラン・トリノ」という映画がありました。イーストウッドは主演も兼ねていて頑固な爺さんです。作中で「東洋人は数字に強いだろ」と偏見を言う。そういうキャラクターです。老いのためにミスをするしそもそも完璧な人間ではありませんが、「数字に強いだろ」という偏見に対して「それは偏見よ」という返しが作中ではない。その判断は映画を見た人に委ねられます。「またこの爺さん偏見言ってらぁ」

しかしそう思わない人も中にはいるかもしれません。「そうか、東洋人は数字に強いのか」

そういう可能性が少しでもあるならツッコミなしで放置する表現は曖昧、不備と言われても仕方ないでしょう。

高畑勲監督の「おもひでぽろぽろ」という映画がありました。ラスト近くである婆さんが自分の発言を「間違ってるとは思わない」と言う場面があります。この婆さんだって特に知恵者という扱いじゃないし、「グラン・トリノ」の爺さんと同様、一個人の考えでしょうが、ラスト近くで言われると重みが増す。

これが自分には流せないレベルでした。「自分が間違ってるとは思わない」という姿勢は最悪、諸悪の根源とさえ考えてますし、勿論それを描いてもいいんですが、描いたからには対抗する否定反論もしっかり描かないと作品自体が偏ってしまう。

でも作中ではやはり返しがありませんでした。重みを持たせて言い放しでは悪影響が気になります。自分ならこうは描かない。

つまり作品づくりというのは自分の思う正しさ、公平さ、理想や憧れ、そういった答えを形にすることだと思います。自己表現で自己主張で、それが照れや遠慮やより伝えるための微調整などで柔らかくなったとしても、あえて曖昧をめざすのは違う。

なので作者としては明確に表現したつもりなのにうまく伝わらなかった…という意図しない結果が「曖昧さ」なんだろうと思います。あえて狙ったものはわかる気がするし、わかれば自分は興ざめします。

作者がベストを尽くしても伝わらないこと、いろんな受け手がいて感じ取ってもらえないこと、そういう隔たりがどうしてもあって、それでも受け手がわかろうとするのは、その作品に「作者なりの全力が込められてる」と思えるから。自分が「H2」をループするのはそうです。

そんな読まれ方は作者にとって不本意かもしれませんけどね。

でも作品が手を離れてしまったら、作者はどうすることもできないものでしょう。

時には誤解され拡大解釈され、過大評価されることもあるでしょうが、いずれにしても巡り合わせ。運次第なのは不公平とも言えるし、やりきれない時はあるはずです。しかし作者は受け入れるか無視するしかない。

そんなコントロールできない「曖昧さ」が物語は元々あるんだろうと思います。人によって評価が分かれ、答えが1つじゃない。だからこそ様々あるし、作られ続ける。

でも作者自身には紛れもない答えがあるはずと。自分はそうです。それを描き切れたかどうかがポイントで、あとはあまり気にしません。気にしないから作り続けてるんでしょう。評価や売れ行きを重視したらとうにやめてる気がします。
 

関連リンク:この世界の片隅に

関連リンク:山田太一作品

物語についてのエッセイ・目次

 


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