不思議、大好き! -13ページ目

不思議、大好き!

文章はすべてフィクション。ほぼ1話完結。

希望の数だけ失望は増える。出会いの数だけ別れは増える。 って誰かが歌ってたけど、淋しさが身にしみる。

なんだか淋しくなった。

そういえば、最近は急に寒くなったね。何かを暗示していたかのように。寝てもさめても、君のことばかり考えていた季節が過ぎ去る気がして、淋しくなったのかな。

また君に自分勝手だと怒られそうだけど、伝えたかったことがある。

君は最後の電話で、『好きだよ』って言ってくれたね。とても嬉しかった、とても。思わず僕も声で伝えそうになった。

でも、僕にはその資格がないのを知ってた。想像ならまだしも、肉声で伝えるとなると、僕には誰かを好きになりそれを伝えるだけの資格がなさすぎる。それを十分すぎるほど痛感してたから、言えなかった。

僕は貧弱だね、勇気がないね。君を傷つけたくなかったし、失望させたくなかったんだ。君は今まで充分傷つき、今もそうした過去を、無意識のうちに抱えてる。

君はもう傷つくべきじゃない。

君はもう苦しんだりすべきじゃない。

君はとっても綺麗だよ。君はとってもとっても綺麗なんだよ。君は苦しんだ分だけ、人よりか大変な辛い思いをした分だけ、身も心も綺麗になったんだって僕は思う。

だから、自信を持って。大丈夫。大事なのは昔じゃない、今君が綺麗だって事だよ。

そして、これからは身も心も綺麗でいてね。そう、これからも。綺麗になる努力を続けてほしい。

昔に戻ることは簡単だけど、その純情と美しさを保ち続けて。危険で怠惰なところになんか行っちゃダメだよ。健全であってほしい、維持するが故に誰かに胸を貸せなくても、健全であってほしい。

僕は君と音信不通になってもそう思ってる。君のことは絶対に忘れない。とても綺麗な女の子がいるっていう、その生きてるっていう存在感は、僕の中で決して消えはしない。

話が少しそれちゃったね。もう一回、伝えたいことに戻そう。最後に一番言いたかったことを伝えます。


好きだよ。

愛してる。

できればこの手で、僕のこの手だけが、許されることとして、君を愛し尽くしたかった。

誰にも君には触らせない。そう言える存在でありたかった。それくらい想ってた。

いつか話したデートもしてみたかった。もっと若い時代から、君が傷つきはじめる前から、君との思い出を築きたかった。素敵な思い出で埋めたかった。

でも、現実はそうはいかないね。僕は周囲に幸せと思われ、どんどん孤独になるだけだけれど、君は違う。君にはまだ素敵になりうる時間がたくさんある。

これからは、今度こそ、素敵な人生を歩んでください。もしよかったら、この僕の想いはおぼえていてほしいな。僕も君から愛され、僕も愛したことは忘れない。

じゃあね。

ごきげんよう。

いつまでも。
まぶたは重い。体はたまごの殻で覆ったように外に対して閉じている。意識は、推進力みたいなのがなくて、当てもなくいろんな場所へさまよっていた。

そんなとき、夜中にふと目が覚める。首筋と足の裏が少しむずかゆくて、僕はベッドの中でもぞもぞした。酔ったような僕の脳裏には、自分も含めて様々な人が浮かんできた。

まず、同僚や上司がひとり一人顔を出した。きまってオフィスの入り口から入ってきて、僕に一声かける。何げない一言なんだけど、何を言ったのかよくわからない。

僕は自分のデスクに座って、その一言に小気味よく応えている。きっと何でも無いことなんだろう。僕は自分の愛想にひどく違和感を抱いた。

23人。僕のフロアーにいる全員が僕に声を掛けた。そして、僕は愛想の裏側でそのひとり一人の人間が抱える色んな背景を心配していた。

次は、肉親が現れた。同じような状況で、同じような対応を僕はしていた。そして同じようにその全員に対して僕は何らかの心配をしていた。

そんなことを想い、首と足の裏がむずかゆい僕はベッドから起きた。辺りを見回すと、そこは間違いなく僕の部屋だった。外はまだ暗く、小雨が降っていた。

少し混乱した頭を整理するために僕はベランダに出た。深呼吸をする。外の空気を入れて、僕の中の空気をはき出す。

空を見上げた。

一枚の空。

そして、君を想った。今度は寝ぼけた意識ではなく、覚醒した意識で。僕は胸の内にわずかな期待を感じた。

この期待はどんな種類の期待かを考えた。そのわずかな期待は、君に対して活動的なものを僕に想わせた。君は動いていて、呼吸していて、温かかった。

夜が明ければ君は起きだして、活動するんだろう。僕との接点に関係なく。また、僕のことが頭にあるかどうかとか関係なく、君は呼吸し太陽の高度の上昇と共に体温を上げていくのだろう。

君が呼吸し、動き、触ったら温かいんだという種類の期待を僕は感じ取ることができた。

君に関する情報は、年齢が増すに連れ何らかの思い出も増えていくように、多くなっていくのだろう。

僕がその詳細を知ろうが知るまいが、僕と関わろうが関わるまいが、君が日々を過ごしたっていう情報は増えていく。

想いが繋がるとか、片方だけが想っているとかは、それほど重要じゃない。

君が呼吸し、動き、体温があることが僕にとって重要なんだ。

君が日々生きていて、過ごしているっていう事実が重要なんだ。

同じ空の下、一枚の空を介して僕はそう想った。

でも、死んでしまうとそうでなくなる。

君は呼吸しないし、動かないし、体温もなくなる。そして決して君に関する情報は増えない、決して。すると、あらゆる僕の想いも堅い檻の中に閉じこめられたように、精気を失う。

もちろん、接点の多さで、君との関わりの多さに伴って、山のような思い出があるんだろう。だけれど、思い出という事実は相手が死んでしまうと、後から追加されたり、解釈し直されたりできなくなる。すると、美化されてしまい、思い出は箇条書きのような事実しか信じられなくなる。

そんなことより、一番重要なのは思い出が精気を失うこと。死んでしまった肉体のように、冷たくて、動かなくて、温かさが加速度的に失われていく。

こんな意味で死んだら何もかも終わりなんだなって僕は感じた。

世間にあるよくある天国話や想いは生きるといった夢物語を僕は全然呑み込めない。全然それにロマンを感じない。世界観は理解できるけど、納得感は全くない。

空想や想像で人との関わりを語り、信じられるほど人の実感は薄くない。相手の存在は強烈に濃いものだと思う。この濃さは生きているというその存在感に根ざし、想いは発展していく。

死んでしまうと、もう何も感じ取れい。生きていた瞬間までのもの以上のことは、もう何も感じ取れない。死んだ瞬間からぷっつりと何も感じ取れない。

だから、生きること。生きていること。その存在が周りに与える影響は想像以上に大きいのだろう。

君はどこかでまだ生きているのかな。

ねぇ、君にだけ生きていて欲しいと思うのはダメかな。何か間違ってるのかな。僕のわがままかな。
夜風が、気ままに左から右に流れていく。僕の肌をなでたりさすったりしながら。そこで、僕は思った。

僕は風にとって障壁なんだろうか。邪魔なんだろうか。はたまた逆らっているんだろうか。

僕は目をつむって、意識を集中した。

僕の意識は風に乗って、左から右に流れる。体を離れて、ベランダから空へと飛んでった。それでわかったことは、風は僕など全く気にしていない。

気にしているのは僕の方だ。僕だけだ。勝手に僕が気にしてる。


「そういう事ってあるよね」
「何が?」
「気にしてるのは自分だけって事」

彼女は、あごの下に出来た吹き出物を鏡を使って懸命に手入れしながら、僕の話を流した。

「私は、知らないのは私だけって事の方が気になるよ」

相変わらず鏡を見つめながら、彼女はそう答えた。


その夜、僕は夢を見た。僕は日本海に浮かんでた。仰向けで、大海原に浮かんでた。

体はとても疲れていて、泳げなかった。浮かんでいるのが精一杯。ふわふわと波に身を任せるより他はない。

僕はそこで自分の人生を振り返っていた。あの時はこんなことがあって、その時僕はこんな判断をしたんだっけなって。丁寧に、ひとつひとつ振り返った。

海はとても深かった。底は冷たそうで暗かった。僕の過去も思い出している割に、全然はっきりしなくて、冷たく暗かった。

ふと、サメがいるかもしれないとも思った。サメはお腹が空いたら僕を食べるのかな。食べられたら痛いのかな、でもいいやって思った。

次の瞬間、場面が変わった。

僕は病室にいた。体に全く力が入らない。僕は相当弱っている。

すると、医者が僕に話しかける。

僕は癌らしい。末期だって。延命処置をするかどうかを尋ねる。

僕は断った。

「とても苦しいですよ」
「頑張って耐えます」
「本当にいいんですか?」
「いいんです」

病室で、僕は独りになった。

また昔のことを思い出してた。そこにはもう語るべき言葉はなかった。赤茶けた無音の映像が、途切れ途切れ、流れているだけだった。

とても落ち着いていた。この瞬間こそ、こうした時間こそ、ずっと待ち焦がれていたものだと痛感した。僕は、運命の恋人に再会した時のように、感動して涙した。


もちろん、これは夢だ。目覚めてから、僕は末期癌の苦しさを想像した。想像を絶する苦しさなのだろう。

僕は本当に延命処置を拒否できるだろうか。痛みや苦しさに耐えかねて、延命処置してしまうんじゃなかろうか。拒否できるだけの心の強さと覚悟が必要だと思った。

これからはそれを、僕は身につけなければならない。ここ10年で最も一生懸命に、積極的に。こういうのって、本当に久しぶりだ。
空にいて、雲から垂れる。それはとても突然のことだった。手の中から、不注意に滑り落ちるみたいに、ポロッと。

まわりにはたくさんの仲間がいた。喜んでいたり、怒っていたり、哀しんでいたり、楽しんでいたりする仲間が映った。でも誰とも混じることはなかった、僕は。

心細かった。寂しかった。悲しかった。

それはきっとまわりに仲間がいるからだ、と思った。

だからなるべくまわりを見ないようにした。でも目をひらかないわけにはいかなかった。だって雨粒だし、全身鏡のようなものだもの。

多くの仲間を体に映しながら、僕は落ちていった。どんどんどんどん落ちていく。びゅんびゅんびゅんびゅんと風を切って落ちていく。

どうしようもなかった。どうにもできなかった。もう上がることは決してない。

すると、街が見えてきた。今度は、たくさんの人や建物が映った。しゅんしゅんしゅんしゅんと下から上へすり抜けるように、映していった。

僕の意思とは関係なしに、多くのものが体を通り抜けるように過ぎ去っていくのが苦痛だった。苦手なものを何度も繰り返し食べなければいけないように、胸につかえる嫌な感じがした。

でも止まることはできない。ぎゅんぎゅんぎゅんぎゅんと押し潰されるように落ちていく。ぎりぎりぎりぎりと僕は身を削るように落ちていく。

気がつくと、僕の体はとても小さくなっていた。まるで満員電車で肩身を狭くして、申し訳なさそうに縮んでいた。こんなの望んでいない、と思った。

思ったけれど、どうしようもない。仕方がないさと呟いた。それ以外に、言うべきことが見つからなかった。

米粒ほどに小さくなった僕は地面に行き着く。

そして。

砕けて散った。

もう何も映らない。
ぼくは、ゆうがた、びょういんにいた。

とてもおおきなケガをしたらしい。たしかに、ひだりては、ぜんぜんうごかない。じぶんのてじゃないみたい。

つくえのうえにおいたオレンジみたいに、じぶんのてをながめた。みぎてじゃなくてよかったことと、しばらくあそべないってことをおもうと、むねが重くなった。でも、まあいいや。

おかあさんは、ぼくのしゅじゅつのことを、だれかにはなしてた。ひだりてくびをひらいて、はりがねで、ほねをつなげたっていってた。まるで、おもちゃをなおすみたい。

そとばっかりみてた。びょういんからみえるそとは、あおいろを、よごしたみたいな、いろだった。ちょっと、そとであそびたい、とおもった。

ぼくは、うんていだって1つとばしでできるし、ひらがなだってとくい。たいやとびも、はしるのだって、えだって、じょうずにできる。でも、もうそんなのいいや。

そういえば、ぼくは木のぼりしてたんだっけ。それで、おちた。どうやって、なんで、おちたか、おぼえてない。

おちたとき、ひとりだったから、だれもしんぱいしなかった。だれも、たすけてくれなかった。まわりに、ひとはいたけど、みんな、めずらしいものをみたように、ぼくをみてただけ。

ぼくは、ないた。そんなにいたくなかったけど、クモのすが、むねにしつこくからみついたみたいに、とってもいやなきがして、ないた。しんぞうは、どくどくしてた。

ちょうどそのとき、先生がめにうつった。先生のなまえをよぶと、きてくれて、ぼくのみぎてをみると、いっしゅん、おこったみたいなかおをした。そして、すぐにぼくをだっこして、ほけんしつにつれてった。

それから、きゅうきゅうしゃがきて、ぼくはのせられた。そうすると、きゅうに、ひだりてくびが、いたくなった。てくびがもえちゃったみたいに、あつくなった。

それで、きがついたら、びょういんでねてた。

おかあさんはそばにいてくれたけど、おとうさんは、きてくれなかった。おかあさんは、いっかいきたっていったけど、ぼくはみてない。ほんとかな。

おとうさんは、とってもいそがしい。たべものをつくって、おきゃくさんにたべてもらうしごとをしてる。そういうしごとは、ふつうよりいそがしいらしい。

なんで、そんなしごとをしているのか、ぼくにはわからない。なにがおもしろいのか、どうしてしなきゃいけないのか、わからない。ぼくは、ちっともおもしろくない。

おとうさんも、おかあさんも、おにいちゃんも、やさしい。だけど、ぼくはそんなにやさしくない。なんか、いつもつまらない。

まいにち、まいにち、なにがたのしいのかな。おとうさんも、おかあさんも、おにいちゃんも、いそがしそうだけど、なんでそんなにいそがしんだろう。いそがしいのがたのしいなんて、ちっともたのしくないのに。

きょうしつのともだちは、ちゃんとすわったり、こたえたりしてる。でも、ぼくは、それができない。たいこをたたくと、ぴょんと、ちゅうがえりをする、さるみたいなことをして、なにがたのしんだろ。

ちょっとつかれてきた。かんがえるのを、やめたほうがよさそう。ぼくは、むねのへやにある、まどのかーてんをしめた。

そういえば、ぼくは、じぶんのへやのまどから、ながめてばかりだ。へやに、だれもいれたことがないし、へやからでていったこともない。ずっと、へやにひとりでいる。

あっ。思い出した。おちたときのこと。

木のうえから、ともだちがたのしそうに、あそんでいるのを、みたんだ。 それで、へやのまどから、てをのばしたんだ。そしたら、おちた。

でも、だれも、きてくれなかった。

もういいや。ねちゃおう。ぼくは、へやのあかりを、けした。
夜の駐車場。団地の僅かな灯りが、滲むように彼女の足元に広がっている。その片隅で、彼女は静かに目を閉じた。

右手に握られたラケットは下を向いていた。手の平から人差し指と中指で添えるように当ててグリップを支えている。彼女は、大きく深呼吸した。

身体は温まっている。家でたっぷり柔軟運動をしてきた。全身の筋肉はほぐれており、うっすらと熱すら帯びている。

準備はできている。あとは気持ちだけだ。そう確認した後に、1…2…3…4…と、ゆっくり数えはじめた。

彼女は気持ちをそうやってはかる。集中のタイミングを探った。中央指令室のように、すべての動きは気持ちが握っているということを彼女は知っている。

20…21…と、彼女の眉間には深いシワが刻まれた。いつもより集中できない、と彼女はすこし焦る。しかし、彼女は、24…25…と、辛抱強く続けた。

26……27ッ! カチッと重たいスイッチがonになったように彼女は目を見開き、同時に大地を力一杯蹴った。次の瞬間、猛烈なスピードで脚を開き、突風が渦を巻くように足先から大きな力が上昇した。

中指と人差し指で支えられたラケットは縦に回転するように顔をあげる。するといつしかグリップは親指と小指、薬指で固く握られた。

右腕は高く、ゆっくりと挙げられて、ラケットは彼女の頭上に登った。臀部から肩までの彼女の体は弓なりに反って背中に力が溜められ、彼女は腰回転のトリガーを引くタイミングを待った。足元から興った力の渦は螺旋状を描いて、徐々に、しかし確実に、彼女の体を昇っていった。

半円になった上半身へ、その腰から肩にかけて、舞い上がった力がこもる。その弾力が最高潮になるのを、静かに彼女は待った。足の指がスニーカー越しに地面を噛んでいた。

肩と腰の筋肉が最もこわばり、背中の筋肉が弛んだその一瞬、彼女はグリップが軋むほど強く握り、地球に
穴をあけるつもりで強く踏み込み、フッと息を吸い込むと腰をねじ込んで目一杯回した。

ビュッと闇を切り裂く鋭い音がすると、ラケットは空気を切って、いつまにかまた下を向いていた。

彼女はこの動きを何度も何度も繰り返す。1つひとつの身体の動きを、気持ちの起伏に合わせて、確かめた。指先に汗が光るのを機に彼女は腰をおろした。

肩で息をして、ひとしきりぼうぜんとした。

そして、彼女は明日を想った。そして立ち上がる。彼女の今日は終えようとしていた。

家路に着く彼女の影は、くっきりと大地に刻まれていた。



僕はFさんと五反田で会うことになった。その日、Fさんは風邪をこじらせていた。それについて、おれが風邪をこじらせるなんてあんまり無い話なんだけどね、と彼は黒いニット帽に手を当てながら言っていた。

僕らはFさんの事を話すつもりだった。彼も僕もそのつもりでジョナサンに入った。僕はジョナサンじゃなくてもっと落ち着いて話のできる場所を提案したけど、そういうのいいから、おれ昨日もココ来てっから、と遮られた。

ジョナサンでは、タンドリー&メキシカンチキンを頼んだ。僕はジョナサンに行くといつもそれを頼む。でも、その料理の名前はなぜかいつも覚えられないし、今だって当たっているか分からない。

僕はそのことをFさんに話そうとすると、そういうのいいから、と止められた。Fさんはドリンクバーのグラスをいくつもテーブルに並べて僕の近況を尋ねた。僕は紙ナプキンをいじりながら、つっかえつっかえ話すことになった。

そして僕らは5時間近くジョナサンで話し込んだ。途中、ウェイターがドリンクバーのコップを下げに来て、それが不慣れだったので、Fさんは、チッ、と舌打ちをした。ウェイターは気まずそうに、だけど聞こえなかったという風に去っていった。

僕らはとても込み入った話をしていた。内容は、目には見えない、また行為や現象で表せないもので、お互いの共通認識を確かめながら、事実を基に仮定と仮説をひとつひとつ頭の中で組み立てていって結論を探す種類のものだった。この困難さによって話が尽きることはなかったし、実際、あぁもうこんな時間だよ、というFさんの憤りとも失望とも着かない発言によって打ち切らざるを得なかったほど僕らは話し込んだ。

Fさんの話をするはずだったのに、結局Fさんのことはひとつも話さなかった。でも僕にとっては、とても大切な話だった。重要な価値観のひとつが崩壊するような、真に迫るものがあって、事実僕は五反田の駅に戻る間、途方に暮れていた。

小雨が降っていた。空を覆う雲はそれほど悪意のある色ではなかったのだけれど、やむことはなかった。そんな中、僕はゆっくりと閉じていった。

目と耳にフタがされて、呼吸が弱まっていった。外からの刺激を拒絶していた。内に内にと、僕の意識は向けられ、電車の座席にすわりながら僕は閉じこもっていった。

それがいくら大切なものであろうと、大きすぎたり重すぎたりしたら抱えきれなくなる。だから僕のこの反応は変なことではちっともない、と僕は自分に言い聞かせた。むしろこの僕の反応がいかに大切な話であったかを表す良い証拠ではないかとさえ思った。

でも閉じた僕は容易に開こうとしなかった。幾人かの人や陽気な音楽、明るい色彩などが僕を開こうと試みたがすべて失敗に終わった。それは当然だよ、と僕は思った。

だって心の扉には内側にしか取っ手が付いていないもの。開くことが出来るのは僕しかいない。でも、そういうのいいから、とFさんが言うような気がした。

それから家に着いて、僕はソファーに横たわった。こういうときは眠るしかないと僕は思う。僕の意識を出来るだけ排除して、僕のずっと奥の方で調えていくしかないのだ。
夜。僕は寝床についた。もうすぐ日にちをまたごうとしていた。

空気は少し湿っていて、冷たさの中に水気の重みをかすかに感じる。

耳を澄ますと、無音の中で、空気が漂う気配に気付く。それは躊躇しているようにも思えた。僕の顔に降りようかどうかと。

僕は布団の中で目を閉じた。すると、そっとまつ毛に湿ったものが降りる。目に少しだけ重みを感じた。

月の光は僕の部屋まで届いていないから、部屋は真っ暗だった。でも目を閉じると、世界はグレーに変わる。その中で目を凝らすと、ミジンコを顕微鏡で覗いた時のように透明なものが視界を行き来した。

僕は意識を頭の中に移した。そこには紺色をした湖がひろがっていた。その紺色は僕の視界までもを染めていった。

怖いような、惹かれるような、思春期の青少年が異性に抱くような畏れを感じた。僕は再び意識を視界に戻した。でも紺色は完全には消えなかった。

少し淡くなった紺色の世界の中に僕は居た。僕は布団の中で何度か寝返りをうつ。毛布の端が首筋にこすれた。

そこで自分が首を出して寝ていることに気づいた。急いで毛布を首までかぶる。体温で温まった毛布に僕はくるまった。


彼女はとても美しい手をしている。くびれた指の間接や艶のある爪、きめこまやかな手の甲、そして全体の滑らかな曲線は均整のとれた稲穂を連想させた。それはまるで、陽を浴びて黄金に輝く稲穂が、多くの人に恵みと笑顔をもたらすようだった。

でも、僕は彼女の顔を知らない。分かるのは肘から先の両手だけ。また、彼女は僕に恵みも笑顔ももたらしはしない。

紺色の湖から、彼女はゆっくり出てきて、濃い霧の中を注意深く進み、僕が気がつく頃には、その両手で僕の首を捕える。

彼女の手はとても乾燥している。どんな物でも滑り落としてしまうくらい。きっと彼女は何も持つことはできない。

それは美しいが故の苦悩に似ている。滑らかな手の平、余分な肉のない美しく伸びた指で、何かをつかむことはできない。でも周りの人々はそんなことには気付かず、逆に美しいが故に彼女はすべてを手にしているとさえ思ってしまう。

僕の首に巻きついた彼女の手からそんなことを感じた。その執念のような強い強い彼女の純粋な思いはきつく激しく首を絞める彼女の両手から伝わってくる。もう絶対に離さないと。

首に何本もの縦皺が刻まれる。彼女の手はその力で色を失い、目一杯僕の首を絞め続ける。同時に僕の首は熱を帯びてくる。

でも僕は落ちついていた。生理的な苦しさはあるし、もちろん喋ることなんてできない。でも僕は落ちついていた。

彼女の思いに邪悪なものは感じなかった。僕の命でよかったらいいんだよ。僕はこれでいいんだと僕は思った。

明日のことも、仕事のことも、その人間関係や友人のことも、将来のことも、もう考えなくていいと思うと全身から力が抜けていった。

僕は、僕以外の何者かの美しい手によって、その強く激しい思いによって、命を落とす。このことに何の不都合があるのだろう。鎖は年々硬く太くなり、日々閉塞感が増していくのに、鎖自身が一体どうやってそれを断ち切れるというんだ。

僕はそんなことを思っていた。偽らずに思えた。僕はもういいんだ。

でも、彼女は手を離してしまう。ゆっくりと力を抜き、そっと僕の首から手を離す。そして消えてしまう。

首筋にはまだ彼女の思いが残っていた。でもそこに彼女の手はもうない。感触も次第に消えていった。

目頭が熱くなった。胸から感情の波が押し寄せた。しばらく僕はその波打ち際にたたずむことしかできなかった。

ふと時計を見ると、午前1時を指していた。秒針は確実に動いている。確実に明日へと向かっていることを僕に告げていた。

ゼロから、また僕は明日への準備に取り掛かった。
莉子は真理の言っていたことを考えていた。

耳の穴に長い針を突き刺されることや首を絞められることを考えながら眠るってどんなことだろう。私にはそんな経験がないから分からない。でも、どうしてか気になる。

部屋に帰って来て、ソファに身を投げ出してからも莉子は考えつづけた。どんな気持ちなんだろう。なんでそんなこと思っちゃうんだろう。

まるで暗闇で先端の見えないロープをたぐり寄せるようだった。手応えのないロープをスルスルと。でも引っ張らないわけにはいかなかった。

しばらくそうした後、莉子は帰ってからまだ着替えていないことに気がついた。時計をちらっとみてから、風呂に入り、眠る支度に取り掛かった。その間、一言も口にしなかった。

そして、それらを済ませると、ジャスミン茶を煎れた。

ジャスミンの葉の香りが鼻や喉に漂う。

すると、莉子はまた考えはじめた。どうして私は真理の気持ちが分からないんだろう。彼女が眠るときに抱くイメージは彼女の何かを象徴し、その何かは私に訴えているんじゃないかしら。私はできるだけそれを汲み取りたい。

でも困ったことに何も感じない。莉子は彼女のイメージから何も感じることができない。莉子は諦めかけた。

結局私は真理ではないし、真理のイメージを共有出来るような体験もない。そもそもお手上げじゃない。そこで莉子はジャスミン茶を飲み干したが、苦みが喉をいぶした。

キッチンでジャスミン茶を入れていたカップを洗っている時、ふと大学時代のことを思い出した。そこにはひらめきにも似たものがあった。莉子は大学時代に使っていたあるノートを探した。

卒業して9年にもなるが、このノートだけはいつも本棚に入れていた。それは唯一莉子が本気で勉強した領域だったから。今でも使っているわけではないが、引っ越す度に何のかんのでいつも持ってきてしまうのだった。

見つけたノートには『フッサールの現象学 一般講義ノート』と書かれていた。大学ノート1冊分丸々その講義のものだったが、大半は講義以外の独学で彼女が埋めたものだった。莉子はほとんど忘れてしまった記憶を拾い集めて、「他者問題」のページを探した。

見つけだすと、次いで「意味の転移」について吟味している箇所に目を通した。
そこにはこう書いてあった。

「たとえば、リンゴというものの確信は、それが“リンゴ”という物体だからではなく、自分の意識上の意味でしかありえない。つまり“リンゴ”は私や私たちの意味付けの上に現象(存在)している。だから人の気持ちというものは自分の体験や経験、あるいはそれらの類推を基にした感情移入による意味を自分が抱くことにほかならない」

そして端書きにはこう記していた。

「でもこれって独りよがりにならないのかな」

結局私は真理に感情移入できないわけで、これ以上はやっぱり進めない。…もう寝よ。莉子は諦めてベッドに入った。

自分が哲科に在籍していたときは、もう少し色々なものごとを根気よく考えられたような気がした。人の気持ちの不思議に興味を持ち、自分の言葉で捜したいと、当時思っていた。あれから9年、私は成長したのかな。

私は人の気持ちを理解しようと努力してきたのに、その成果をひとつも感じられない。長い付き合いの友達である真理の気持ちひとつ理解できない。理解できないどころか、なんだか真理がずっと離れて行ってしまうような気がした。

そんなことを考えてると、いつのまにか眠りに就いた。

その夜、莉子は夢を見た。

海岸で、真理は小さな船に乗り、こちらに向かってわずかに手を振った。私と真理の間のしょっぱい風が二人をどんどん引き離していく。私はなす術もなく、ただただ手を振り返すことしかできなかった。

とても哀しい夢だった。目覚めた時、とても泣きたい気持ちになった。でも涙は一滴も流れなかった。
私は莉子の家のソファに座って話をしていた。もう10年来の友達だから、お互いに話の種は尽きない。男の子についての雑談に花が咲いた後、不意に私は莉子にこんな話を喋り始めた。


この前、あることに気付いたの。ちょっとしたことなんだけど、気付いちゃって。それは眠ることなんだけど。

うん、眠ること。眠るまでには何種類かパターンがあったり、順序があったりするでしょ。気持ちが溶けて無くなるように眠りに入ったり、張りつめた糸が切れるように突然眠りに入ったりとか、色々あるじゃん。

でもね、その順序の最初がいつも同じなの。布団に入ってから、さあ寝るぞって思って、布団の中でもぞもぞしてる時に思うことがいつも同じ。え? 違う違う、意識的にそうしてる訳じゃなくて、あぁこの調子なら眠れるなって思ってから自然と頭に浮かぶことがいつも同じなんだ。

…なんかね、あんまり気持ちの良い話じゃないから悪いんだけど、黙ってるのは気持ち悪くて。私、いつも横向きで寝るんだけど、そうすると耳って天井向くでしょ。それって、耳の穴が天井に対して無防備になってるよね。

え、うん、なんかこういう言い方って変なんだけど、耳が聞こえなくなることって嫌でしょ? それで耳が聞こえなくなるときってだいたい耳の穴から何か入ったり、そこから鼓膜が破れたりすることでしょ。まあ、そういうのってあんまないことなんだけど。

そうそう、あぁ眠れるなって思ってから、自然と頭に浮かぶことが耳の穴に何かを入れられることなんだ。その何かは綿棒だったり、鉛筆だったり、長い針だったりするんだけど、とにかく誰かに何かを入れられることなの。それもゆっくりじゃなくて、手のひらをハンマーみたいにして一気にブスッと。

ねっねっ、嫌でしょ、そんなこと。なんかゾクッとしちゃうことで、全然そんなこと考えたくないんだけど、いつも思っちゃうの。そんなことされたら、耳が聞こえなくなるだけじゃなくて、確実に死んじゃうよね。

それと、もう一つ。これは思うというより、気をつけてることなんだけど。私、寝る時に首を出して寝るのができないの。

首を出して寝てると、どうしても誰かに首を締められることを思っちゃう。こう、布団の上から両手でググッと。寝る時以外はそんなこと全然考えないんだけど。

…うん、なんかね、変だよね。別に自分のことを神経質なわけじゃないと思ってるんだけど、寝る時はそうしないと眠れないの。何でそんなこと思うのかな。

「分かんないけど、それ面白いね」と莉子は言ったが、それ以上はどうしていいのか扱いに困る顔をしていた。


私はその夜、布団に入ってから首から耳まで毛布をかぶせた。すると、寝室の外のベランダから枯葉がベランダのコンクリートに擦れるような音が聞こえてきた。カリカリッと乾いた音がして、枯葉がもう死んでしまっていることを感じた。

なんだか気持ちが落ち込んだ。私の中で何かを終わせようとしていた。その意志を私ははっきりと感じる。