不思議、大好き! -12ページ目

不思議、大好き!

文章はすべてフィクション。ほぼ1話完結。

空を見上げる。

そこには何もない。塵が乱反射して見える青が見える。何もないけど見える。

そこに何を描こうか。僕には何が描けるんだろうか。悔やみだろうか、未来だろうか。

何を描くかは、その時の気分によって変わるのだろう。その時の環境によって変わるのだろう。その時の志向性によって変わるのだろう。

キャンバスは、別に空じゃなくったっていい。でも下地は白じゃなく、青がいい。白が混じった青がいい。

青から連想するもの。水、海、深層、若い頃、喪ったもの、同姓の友達、友情。不思議と異性は強調されない。

何を描くかではなく、何が描かれるだろう、ということの方が自然に思う。

絵筆を頭から空へと伸ばしてみる。でも描けない。留めているものは迷いだろうか。

絵筆には様々な思いやイメージがまとわりつき、溜められていく。

そこで気付く。

過去なんて描けない。未来なんてない。どちらも、とってもリアルじゃないんだ。

過去はつじつま合わせのようなパズルであり、未来は絵空事なんだ。

人は空に絵空事を描きたがる。

それはきっと上を向いているからなのかな。

向くことしかできないのに。
遠くを見詰める時、目を細める。そこに見えるものは、ほんの僅かな時もあれば、濃度の高い液体が沈むようにずっしりと僕を包むこともある。でも、最近僕は遠くを見詰めて思う、僕は今何かを見失いそうになっていると。

そう思うと、複雑な気持ちになる。Aを握っていたはずなのに、気付いたらBを手にしていた。Aはいつの間にか僕の指をすり抜けて消えてしまう。乾いた砂が手からこぼれ落ちるように。

この複雑な気持ちは迷いに似ている。でもAとBについて迷っているわけではない。僕の意思とは関係なく、僕はAを見失い続けていて、Bはその輪郭を形成しつつあるのだ。

否応ないこの現象は、すっかり僕の気持ちを重くする。Bを持つことで僕が生まれ変わったとしても、Aは手放したくないのだと思う。でも事は進行しつつあるのだ。

このことは無視できないのだろう。すべきでないことなのだろう。僕の意思に関係なく、遠くを見詰めた時に見えるものは、変わりつつあるのだろうか。
駅でジャケットのフードを被り、一服した。目の前には嘘みたいな大粒の雪が降る。それを見て何を思うか。

って、何も思わない。

一服が終わり、手袋をする。自転車にまたがり、雪の中、走った。途端に、腕や腿に雪が積もる。

嘘みたいに、自分の腕や腿が白く染まる。真っ白の白さに少し驚いた。あんまり見たことがなかったんだなぁって。

進めば進むほど、大粒の雪が顔に当たる。目にもよく入った。視界は白くて、痛い。

もちろん、僕は家に向かってた。止まらずに。でも、じゃれてくる娘はもういないんだろうなって思った。

途中で休もうかと思ったけど、止めた。それでも、僕には行く場所なんてないんだもの。進むしか、帰るしかないんだ。

自転車に乗ると、いつも大腿筋の躍動を感じるんだけど、感じなかった。小さくカタカタと、ひとこぎひとこぎ櫓を漕ぐように前に進んでるだけだった。ノロノロと。

もう積もり始めた雪景色の中、そうして僕は家に向かった。

アパートに着いたとき、本当はどこに進んでるんだろうと思った。無意識のうちに、どこかに進んでる。そこは僕の望むところなんだろうか。
彼女は僕を見ていた。僕は何度も彼女の黒目の中に映る自分を確かめた。確かに彼女は僕を見ていた。

でもそこに映った僕は、通りすがりに見るウィンドウガラスに映った自分のように、何も残らない。ただ単に映っているだけなのだ。

まるで、彼女にとって僕という存在が、音楽を聞いているのに自分の琴線に何も触れない、ただの雑音のように思えた。いや、雑音という煩わしいものですらない。見ているそばから、その瞬間からすぐに消え去ってしまっているようだった。

僕らは会話をしていた。仕事上のこと。いくつかの言語的なアクションがあり、それに応えるリアクションが確かにあった。

「今ちょうと切らしてて…」
「じゃあ私が今度持ってきますね!」
「それならいいですよ」
「よろしくお願いします」

思い返せば、僕は初めて彼女と話をした。だからかもしれない。だから、こんな雲を掴むような印象を受けたことを強烈に抱いたのかもしれない。

彼女は今も僕と話したことを覚えているんだろうか。本当に、話していた物を持ってくるんだろうか。僕は彼女の意識に少なからずなんらかの痕跡を残したんだろうか。

上手く考えられない。僕は今日本当に彼女と会話をしたんだろうか。それすらも危うく思うくらい、不思議な瞳をしていた。

そういえば、深くて、濃い瞳をしていた。表情のない黒目。美しいといえば美しいのだけれど、美しいという形容を、全く意に介さないような孤独な眼だった。

どうでもいいと言えば、どうでもいいのだけれど、その孤独さが僕を惹きつけた。

無意識のうちにすずっと沈む。底なし沼に、時間を掛けて、ゆっくりゆっくり沈んでいき、沈む中で様々に自分の死を思う。誰にも関わらず交わらず存在にも気付かれずに、独り沈みゆく自分をじっくり省みる。

そんな死生観を彼女から、彼女の瞳から感じたのかもしれない。

バカじゃない。そんなの考えすぎだよ。あんたに無関心で、別の事を考えてただけよ。

周りはこう言う。それでもいい。僕が周囲と年々乖離していっているのは自覚している。

そうだね。考えすぎたね。やれやれ、全くだ。

僕はこう応える。本音は建て前という協調性に抑圧されていった。建前とは秩序の均衡性を保つ社会の必須システムだから仕方ない。

でも仕方ないで上手く済ますことができないのが、僕という意識であり、志向性なんだと思う。

化けの皮剥がしに行こうぜ。墓場でロックスターはそう叫ぶ。羊か吠えるよりもたくましく見える。

僕はそんなにたくましくない。実際に本音と建て前を倒錯することさえある。つまり自分が見えなくなり、仮面という建て前で鏡を見ても仮面の顔が自分だと思ってしまうのだ。

そんな時、彼女から感じた孤独が僕を救う。彼女の瞳を契機に膝を抱えうずくまるとき、ポロッと仮面が取れる。そのとき初めて生の自分を確認することができる。

こうならないと、こういうことが起きないと、自分が確認できなくなったのはいつ頃からだろう。

これは、良い傾向なんだろうか。
今日さ、新宿で靴を買ったんだ。うん、この靴 。結構まともな造りで、完全防水らしいんだ。

夕方頃、雨がかなり降ってきたでしょ。それで履いてた靴がびしょ濡れになっちゃってさ。気持ち悪いなぁって思ってたら、近くに靴屋があって、なんとなく入ったんだ。

そしたら、すぐに俺より10歳くらい若い男の 子が目に付いたんだよ。

え、何でって?

なんかさ、イケメンというより美男子って感じの男の子だったんだ。もちろん俺はソッチの気はないよ。でもすごく良い笑顔しててさ。

髪は無造作ヘアで色は黒、笑うと口角がキュッと上がってえくぼができんのよ。

そうそう、洗顔フォームのCMに出てきそうな 男の子。

それで、その男の子の仕草がまた変わっててさ 。ずっと横に揺れてるんだよ。まるで愉快なリズムにノってるみたいなんだ。

喋り方も、まぁ揺れてるからかもしれないけど 、リズミカルでさ。

あっ、ううん。若者特有のだらしない感じは受けなかったよ。それはたぶん、様子が楽しそうで、笑顔に清潔感があったからだと思うよ。

でね、なんか色々説明してくれて、その男の子は靴について結構知ってる風なんだけどさ、俺の質問に対する回答の精度が低くて、四割ぐらいしか分からなかったなぁ。

え、確かに俺の理解力のせいかもしれないけどさ、だってメンズの靴の説明で突然レディースの雑誌持ってくるんだよ。それじゃあよくわからねぇって、しかもその靴の写真がすげぇ小さいんだもん。えっ!?、もちろん新宿といえどもその男の子の瞳孔は開いてなかったよ。

そんで始終揺れるから、余計わかんなくてさ。

でもさ、なんか楽しそうなんだよね。だから微笑ましくなっちゃってさ。まぁゴアテックがどうのとか、ビブラムがどうのとか分かんなくてもいいやって思ってさ。

うん、そうだね。おまえの言うとおりだよ。世 の中には2種類の楽しさがある、悪意のある楽しさと悪意のない楽しさ。

その男の子のは悪意がないんだよ。ちゃんと言葉も頑張って敬語つかってくれてるし、清々しい笑顔で対応してくれてるしさ。そして何より、俺に関係なく、純粋に、働いてることや生き てることが楽しいって感じを受けるんだ。

そういうのってあんまりないことだよ。

まぁ彼も実際はそんなに純粋じゃないかもしれない、単純じゃないかもしれない。でもさ、人に生きていることが楽しんだよって自分の姿だけで伝えるってすごいことだよ。映画でさえ、緻密に練られた物語が必要だってのに。

こういう笑顔って俺にもあったのかなって、彼を見ながら思ってた。高校の時はそうだったかもね。そうそう、ゴールデンエイジってやつ。

でもさ、彼は高校生とかの守られた年代や何しても楽しいと思える精神段階はとうに過ぎてるんだよ。学生はまた違う。学生になってバカ騒ぎして楽しんでる連中にはあんな清々しさは出せない。

うん、ひとりいるよ。大学時代のカンがそうだ ね。カンの楽しそうな姿や笑顔は大好きだよ。

カンやその男の子と俺はどう違うんだろうって 考えちゃったよ。うん、そりゃ違うさ、人が違 うんだもん。でもそういう意味じゃなくてさ、 やっぱり人生楽しい方が良いじゃない。

そう、それこそさっき言ったみたいな悪意のない、純粋な楽しさ。誰かを傷つけたり、誰かをバカにしたり、わざとバカやったりして楽しむんじゃなくてさ。それで、それを見た人も楽しい気持ちにさせる人生の楽しみ方、俺に靴を売ってくれた男の子のように、そこにいるだけで人生の楽しみ方がなんとなく分かるみたいにさ。

俺には何が足りないんだろう。何が欠けてるんだろう。一体何が。
元気かな。

といっても君はいないんだよね。

いなくても、ボイスレコーダーに声を入れて送るみたいに、残しておこうかなって今日は思ったんだ、なんとなく。

でもホントにこれが君の元に届くかはわかんない。アドレスが間違えるかもしれないし、僕が送らないかもしれない。まぁでもそんなのいいか、だってやってみなければ始まらないもんね。

じゃあ。仕切り直して。はじめるよ。

えへん。えー。あー。

何を言おうか。改まると話せないもんだね。うーん。

そうそう、話せないと言えば、僕はだいぶお喋りみたいに君は思ってるかもしれない。

でもね、僕はほとんど喋らない人なんだ。

たいていずっと黙ってる。人と会ってる時は特にね。実は無口なんだ、こう言うのもなんだけど。

突然だけど、この前ね、夢を見たんだ。

とても嫌な夢だったんだ。

すごく寒い異国の朝に、母親とその娘が人のいない街を歩いてたんだ。

すると、母親の方が誰かを見て慌てて走り出した。

まさに恐怖に駆られてっていう感じで。

でも、すぐに転んだ。顔をひきつらせたまま。結構はげしく転んでた。

そこで視点は転んだ母親を見下ろす感じになったんだ。おかげで、誰を見たのか、何に恐怖を感じたのかは分らなくなった。でも、その誰かは、あるいは何かは、すぐそこまで来ていたんだろうね。

母親は顔を大きく歪ませていた。銃口を向けられたみたいに。いや、実際に銃口を向けられていたんだと思うんだ。

だって、撃たれたんだもの。ズドンと。大きくて硬そうなブーツに肩を踏まれながら、確実に心臓を打ち抜かれてた。

即死だったんだけど、それを見ていたんだろうね、ぐったりとした母親のもとに娘が駆け寄ってきたんだ。

白い息で悲鳴をあげながら。

可愛らしい顔のまだ幼い女の子だった。

僕はね、危ないよ!って思ったんだけど、近寄っちゃったんだ。

すぐその子も母親と同じように、大きくて硬そうなブーツで肩を押さえつけられたんだ。

それで、撃たれた。でも心臓じゃなかった。右目の上あたりを打ち抜かれたんだ。

女の子は泣き叫んでいたけど、容赦はなかった。

続けて撃ちはしなかったけど、もっとむごいことがその子に待っていたんだ。

どこからか、大きなハサミをもった真っ赤なザリガニ、いやロブスターみたいなのを、口に押し込まれた。

拷問みたいでひどい。

ズルッズルッと食道まで入って行ったんだけど、苦しかったんだろうね、涙目で懸命に吐き戻してた。

でも、出てきたロブスターには尻尾がなかったんだ。

それでその後すぐに、女の子は救急車で病院に運ばれた。

若くて真面目そうな医者が、レントゲン写真を見てた。そのレントゲン写真には、ロブスターの尻尾がきれいに喉に引っかかってるのがわかった。医者はため息をついて言うんだ。

お気の毒ですが、もう手の施しようがないんですって。

みんなとても暗い顔をしてた。

頭には穴が開いていて、喉はメチャクチャにされているんだ。

そして母親はもういない。

とても嫌な夢だった。

こんな話をするために、録音したんじゃないんだけど、僕もなんだか暗くなってきちゃった。

・・・この辺にしておくね。じゃあ。また。
ひだまりに手をかざすと、とても温かかったんだ。

まるで君が優しく手を握ってるみたいだった。

なんだかとても落ち着いた気持ちになったよ。

僕が死ぬとき、君がそばにいてくれる。

君がそばにいてくれて、手を握ってくれてるなら、僕は自分の人生を肯定できそうだ。

僕は君みたいに可愛くて、美しくて、優しい人と出逢えた。

そしてこうやって僕の手を最期まで握ってくれた。

僕はこれで良かったんだ。

本当にこれで良かったんだってね。





そう想えて死ねたらよかったのに。
ある休日。

大きな観覧車のある遊園地には、出口のない迷路があった。

もちろんそんなものに目もくれない人は多い。それは正しいし、賢明な選択だ。出られないものなどに入らない方が、良いに決まってる。

迷路の入り口には、どのように行き詰まるのかが書いてある。こういう行き詰まり方やああいう行き詰まり方があると丁寧に指し示されていた。但し書きには、「いずれにせよ、あなたは行き詰まるのです」と念押しまでしてある。

僕は黒のジャケットからタバコを取り出した。煙をくゆらせながら、ひとしきり考える。子どもの顔が浮かんだ。

迷ったり悩んだりしたわけじゃない。僕は入ると決めていた。迷路内は喫煙可ってあるし。

ただ、僕は出口のない迷路に入るのだ、という儀式みたいなのが必要な気がしたんだ。

入る前にね。

意味なんてないさ。だいたい出口がない迷路に入る意味なんてどこにあるんだ。その行為が示す過程や結果はあっても、僕は意味を見いだせない。

僕はジャケットのポッケに手を突っ込んで迷路に入った。

迷路の中は暗かった。

いくつかの分かれ道を適当に進んだ。日の当たらない道をクネクネとだらしなく歩いた。ものの10分で、パンの切れ端なんて落として来なかったから、後戻りはできないんだなって思った。

ときおり、絵画が壁に掛けてあった。オレンジ色の間接照明で照らされている。絵画の趣味は僕好みだった。

ほとんどが女性の絵。モネの散歩、日傘を差す女やラ・ジャポネーゼ。たまに、ルノアールのマントン郊外の風景なんかもあった。

印象派の絵ばかりだったのだけれど、飽きはしない。僕は絵を見つけると立ち止まり、ひとしきり眺めた。描画がぼやけているせいで、いくらでも捉えようがあった。

甘い顔にも見えたし、怒っているようにも見えた。温かな風景に見えたし、冷たい風景にも見えた。共通しているのは、抱く印象はすべて僕の中のもので、僕は孤独だということを思い知ることだった。

どれくらい歩いたろう。かなり歩いたんだろう。脚の筋肉が痛み、背筋を伸ばして歩くのが辛くなってきた。

僕は床に座って休んだ。息をつく。そのうち寝そべった。

寝転がると、頭の先に後ろが見えた。吸い込まれるような闇に包まれた回廊が見える。その深い暗闇には、恐ろしい怪物がいて、口を開けて僕が引き返すのをじっと待っているみたいに思えた。

引き返すわけはないじゃないか。僕は思った。そんなことに興味はない。


ふと気がつくと、迷路は僕の人生だった。狭い箱の中を右往左往する、僕の人生だった。僕はこの中で独り、死んでいくんだろう。

でも、僕はまだ生きている。生きたくなくとも。このことに行き詰まるかどうかが、問題なんだ。
僕には、信じたいことが、どれだけあるだろう。

こういう事を考えるのは夜がいい。視界は闇に遮られる。正確には、光は反射する物を失い、僕の目には何も入ってこず、いや違う、そもそも光など、どこにも届いていないのだ。

タバコのけむりをくゆらせながら、考えてみる。紫のそれが縦横無尽に漂う気配を感じる。でもそれは僕が生活経験からそうイメージしているだけで実際はどうかわからない。

そもそも僕には信じたいことなんかあるんだろうか。タバコのけむりのように、イメージが勝手に一人歩きしているだけじゃないのだろうか。

この真偽を見極めることはとても重要だ。僕は意識を集中する。眉間に深いシワが刻まれた。

深く考えたいときの手順は明白だった。用意をして井戸を捜して、井戸を降りて掘るんだ。深く、深く。

まずスコップを肩にのせ、タオルを首に巻く。つぎに、近くにある井戸を地図でさがす。これが逆だと、たいてい止めてしまう。

井戸は3つあった。どれもそう遠くはない。あるいて20分くらいのところだ。

僕はそのひとつを選ぶと歩きはじめた。ここでは、歩きながら何を考えるかが大事だ。掘るんだ、ということ以外は考えない。

もちろんたくさんのことが頭をよぎる。家族や仕事のこと、いくつかの印象的なニュースなんかがよぎる。でも、敢えて見過ごさなければならない。

井戸に着くと、深呼吸した。そして降りる。井戸の底に水はなかった。

でも、水脈は必ずある。土に耳を当てて探った。じわっとした冷たさを耳に感じる。

微かな水の気配を感じた。この方向だ、と目星をつけると僕はスコップを肩から下ろして、ザクッと掘り始めた。すぐに背中と腕の筋肉が張った。

ザクッ、ザクッ、ザクッ。

無心に掘り進めたいのだけれど、なかなかそうはいかない。

ザクッ、ザクッ、ザクッ。

様々なことが、折り紙を風に乗せたように、頭をよぎる。

ザクッ、ザクッ、ザクッ。

でも手を止めてはいけない。リズムを崩すと、何もかも崩れてしまう。体力が消耗しきるまで続けなければいけない。

ザック、ザック、ザック。

ペースが乱れてきた。疲れてきたのだ。汗が額を這い、頬に垂れる。

ザック、ザック…。

心臓が踊っている。発狂した少女のように、テンポを加速度的に速めて刻む。手や背中がピリピリ痛んだ。

僕は手を止めて、タオルで汗を拭った。重いボールが海に沈んでいくように、疲労感が足元に降りていく。僕は肩で息をして、熱い呼吸をしていた。

深く掘った。井戸の底からさらに下に掘った、不細工な穴の中に僕は居た。 深呼吸をして、上を見上げる。

夜空が小さく見えた。ちょうど親指と人差し指を丸めたくらいの大きさだ。僕は現実社会からずっと離れているように感じた。

でも、これ以上休むと、スコップを持てなくなる。僕はまた掘り始めた。疲労がもたらした怠惰が、僕の意識をぐっと縮めた。

僕は閉じていった。小さな星空を注意深く眺めるように、集中した。グッと手に力が入り、熱いものが頭に昇った。

ザックザック、ザックザック。

人は時折、僕を強い人だとか、タフだとか言う。

でも、そんなことは全然ない。

僕は自己完結的な人間になろうとしただけだ。誰にも頼らず、降りかかる様々な問題を自分一人で処理できるようになりたかっただけだ。有能な事務が独りで煩わしいことをすべて引き受け、処理するように。

僕はその基礎を作るのに4年かかった。ちょうど20歳から24まで。それまでは人に頼らなくてはいけなかった。

ある時は夜中に友を起こし、一晩中話した。ある時は行き釣りの女の子を抱いた。またある時は、とても物わかりがよく、気立ての良い人の世話になった。

でも、全部、全員、こう言うのは申し訳ないのけれど、僕を救えなかった。

だから、僕の言う自己完結性とは諦めに近い。諦めざるを得なかったのだ。それほど僕は僕なりに、その4年の間に疲れ果て、絶望し尽くしたのだ、僕なりに。

だから、僕は全然強くないし、タフでもない。人に対する希望を諦めた人間を強いとは僕は言わない、タフだとは言わない。

僕は独りで地中深く沈み、さらに深く掘り、沈み続けるだけだ。

独りで掘り、沈み続ける先には何もない。誰もそんな僕に気づかないし、誰の人生にも本当の僕は現れない。それでいいんだ。

その時。僕の意識は真っ白になった。考えるべきものが、信じるべきものが、何もなくなったのだ。

手のひらは強く握った握り返しや掘り進める時の振動で赤く腫れあがった。腕や背中、脚は凝り固まり、痙攣していた。身も心も疲れたと思った。

僕は崩れ落ち、尻餅をついた。そして、うなだれた。上を見上げる力も気力もなかった。

何も聞こえない。何も感じない。在るのはうざったい僕の存在感だけだ。

しばらくの間、沈黙が流れた。みんな僕に気を遣って、音を立てないようにしてるような沈黙だ。何もかもが嫌で、うざったくて、そうしたことすら感じてしまう諸悪の根元である、消したいけど消えない自分の存在が、嫌で厭で堪らなくなった。



ふと、誰かが泣く声がした。しゃくりあげるような、声の高い、泣くことを恥じない泣き声がした。幼いそれはとても僕の気を引いた。

声は、明確に誰かの助けを求めていた。助けてくれる誰かを呼んでいた。優しく抱きしめられ、安堵することを望んでいた。

僕は、徐々にとても悲しい気持ちになった。

その泣き声は痛いほど僕を同調させた。

僕の心は仁王様のようなマッチョにギュッと鷲掴みされ、グイッと引っ張られるように、泣き声にひかれた。

頭を撫でてやり、優しく抱きしめ、大丈夫大丈夫と声を掛けてやりたいと強く思った。

それが助けになるのかどうかわからなかったけど、何かしてあげたかった。何かせずには居られなかった。僕でよければ、僕しか居ないのならば、僕はそうしてあげたかった。

僕は立ち上がり、スコップと汗や泥まみれのタオルを捨てて、穴をよじ登った。

その時は、疲れも痛みも孤独もなかった。夢中だった。とにかく、早くそばに行ってやらなくてはと、そればかり思っていた。

泣く事なんてない。僕が付いてる。大丈夫。

それを伝えたくて必死だった。ただただ必死だった。僕はよじ登り続けた。

やっと外に出られた。

辺りを見まわした。

でも、いつの間にか泣き声は止んでいた。

いつから、どうして止んだのか分からなかった。気づかなかった。僕は渇いた口で息をついた。


僕はその時、僕は決して救われなくても、誰かを救いたいという気持ちが僕にあることを、知った。
何でもないときに、とらわれることがある。テレビのチャンネルを切り変えて、ふと目に留まった映像で止めたときのように。突然見えているものが替わり、それに心を奪われる。

僕は宴会の二次会で、職場の人とカラオケボックスにいた。みんなガヤガヤと歌い、リズムに乗って肩を揺らしているような場面。僕は対面の男性陣を見ていた。

男性陣は僕なんて見ていない。大きなモニターの歌詞を見ていたり、手に持つタンブリンなんかでガチャガチャ音を鳴らしていただけだ。でも、僕はとらわれた。

別に誰かの発した言葉や仕草が気になったわけじゃない。僕がとらわれた事と男性陣の関連性はない。関連性で言えば、唯一、そのカラオケボックスが暗かったということだけ。

そう、僕の前に現れたイメージは夜だった。それもかなり遅い時間帯。24時とか日をまたぐような時刻の夜。

場所は六本木。僕らは戸建てを貸し切ってパーティをしていた。夜通しのパーティー。1階には大理石が敷いてある広いフロアーがあり、2階は仕事部屋のような部屋が2つ。

どの階にも、どの部屋にも食べ物と飲み物が用意されていた。僕は最初1階にいたが、飽きて一度2階に行って、また1階に戻ってきた。その時、藤椅子が2つ空いているのが目に付いた。

僕はそこに座り、シャンパンを飲んでいた。炭酸が抜けていなくて、ほんのりと酸っぱい。味は悪くなかった。

周りは様々な話をしていた。女の子や男の子の話、仕事の話なんかがおもしろおかしく囁かれている。僕は片手間にラジオを聞くように、特定のそれということもなく、耳を傾けていた。

こういう時は何も考えていないのだろうか。それとも聞こえてくるそれぞれのトピックについて、何かしら思いを巡らせるのだろうか。いや、僕はただ落ち込んでいただけだ。

僕は落ち込んでいた。とはいえ、僕が元気なときなんてほとんどない。だからいつも通り、心の雨雲を眺めていただけだ。

そんなとき、隣の藤椅子に女性が座った。僕と同じセクションの先輩だ。普段あまり話したことがないから、なんだか少し気まずかった。

彼女はスキニーのブルージーンズをはいて、長く編み目の粗いマフラーをしていた。スナフキンみたいだなって思った。でも、とても似合ってた。

僕はなんだか居心地が悪くなったから、思い切って話しかけてみた。

「江川さんは、普段どんなことを考えてるんですか」
「別に何も」

彼女はほとんど笑わない。仕事をしているときも、休憩の時も、たとえ仲間が冗談を言っても口元からふふっと声を漏らす程度しか表情を崩さない。だから、彼女がまともに答えてくれなくても、僕は特に驚かなかった。

「うそ。ほんとは海のことを考えてる」
「それはどんなイメージなんですか」
「私が裸になって、海の底に沈んで、丸くなってるイメージ」

寒そうだなって思った。水は冷たい。海の底の水はとても冷たいだろう。

「寒くないんですか」
「寒いよ。でも寒いくらいじゃないとイケナイの」

「イケナイ」という言葉に彼女の強い意思を感じた。「絶対にそうでなくてはならないのだ」といった彼女の強い意思に僕は少し興味を抱いた。それで僕が微笑むと、彼女は僕を横目で見て、彼女も微笑んだ。

それから僕らはいろんな話をした。その多くは自分の過去のことだった。そして今の自分の価値観なんかも話した。

でも、彼女は帰らねばならなかった。もちろん終電はもうとっくにないのだけれど、帰ろうと思えば手段はいくらでもある。僕は彼女をタクシーをひろうまで見送ることにした。

外は凍えるくらい寒かったのだけれど、夜空は綺麗だった。でも、僕は寒さで肌が痛くなった。そんな中、彼女ともっと話したいと思っていた僕は胸が締めつけられる思いがした。

でも、送る途中、僕はほとんど彼女に話しかけられなかった。言葉が見つからなかった。いつも決まった場所にしまっておいたはずの家の鍵が、出かけるときに見あたらないように、僕はもどかしかしくて少し苛立った。

周りには高いビルがいくつも並んで立っている。ビルの下には前衛的なオブジェがあった。それを眺めることで僕はもどかしさと苛立ちをなだめようとした。

前衛的なそれは見ている者に奇抜な印象を与えた。どこかしら挑戦的でもある。自殺しようとする者に「あんたホントに死ねるの」と流し目で言うように。

細長い隙間をくぐり抜けるように、僕の意識は緊張していった。なだめるどころではない。どうしようかと言葉をさがしながら、彼女の横顔を盗み見た。

彼女は渇いていた。もちろん肌が乾燥してるわけじゃない。もっと印象的なことで、砂漠の砂が心を埋めるような、息詰まる渇きを僕は感じた。

口元から白い吐息がもれる。粉雪のようだ、と僕は思った。その粉雪を口に含んでも水気はないのだろうと思えるほど、彼女の吐息は白く、そしてかわいていた。

でも、美しかった。

たしかに彼女の中からは、幸せや喜びは感じなかった。感じるのは、孤独や悲しみだった。でも孤独や悲しみがとても美しく思えるときがある。

「綺麗ですね」

僕は呟いていた。

「ありがと」

彼女はそう答えると、しばらく僕の顔を見て、呟いた。

「あなたもね。綺麗よ」

それから僕らはニッコリと笑い合った。



こんな笑顔は、それきりない。