不思議、大好き! -11ページ目

不思議、大好き!

文章はすべてフィクション。ほぼ1話完結。

真冬の夜、現れたのは半袖半ズボンのヒーローだった。太い二の腕と厚い胸板や背中、膨れた太ももやふくらはぎ。多くの人は、彼が半袖半ズボンであることなどより、頑強な体つきに目を奪われるだろう。

彼がヒーローであるのは、暴漢に襲われた彼女の前に現れたからだ。

彼女が人気のない帰り道を選んで歩いていたのには理由があった。繰り返される毎日。決まった時間に電車に乗り、おおよそ決められた仕事をこなし、あとは寝るだけの単調さは彼女を孤独にし、パターン化された日常が彼女に人気のない道を自ずと選ばせたのだった。

暴漢が後ろから抱きついてきた時、その力強さに彼女の心は急速に力を奪われ、はたまた、自分とは違うその意思の強さに圧倒された。抵抗などできるはずはない、お前は犯されるんだと神から宣告されたような無力感が疾風のように頭を横切った。すると、走馬燈のように、彼女を取り巻く多くの人の陰が見えた。

幼い頃、両親に大切に抱かれた記憶。自分も無邪気にじゃれついたときに感じた心地よさ。こうした思いを裏切るような今の現実を前に、彼女は両親に謝罪した。

自分を無二の親友と断言してくれる友人。血縁ではないのにそこまでの想いを寄せてくれる友。今を襲うこの現実を親友が聞いたら暴漢や不条理な彼女の運命に対して物凄く腹を立てるであろう、その友に彼女は詫びた。

また、この現実は頬に押された焼き印のように自分を苦しめるだろうとも彼女は思った。隠すことなどできない。一生自分の脚を引っ張り続けるのだろうと覚悟した。

いっそ、殺してくれたらいいのに。もうダメだよ。この先希望なんてない。

そんなとき、半袖半ズボンのヒーローは現れた。

抱きつく暴漢のダウンジャケットを鷲掴みにして、凄い勢いで揺さぶって、暴漢を彼女から引き剥がした。掴んだ部分のダウンジャケットから羽毛が舞った。その力が想像を絶するものだったことは容易に察しがつき、彼女も暴漢も唖然としていた。

しかし、暴漢は怯まなかった。成し遂げるのを邪魔された欲望は幾重にもとぐろを巻いて戦闘準備にかかった。暴漢のひどくひきった顔が満身で敵意を表している。

それに対して、ヒーローは平然と仁王立ちで対峙した。その姿は、無関心というのではなく、戦闘に対する心の構えができているといった様子だった。拳は適度に固められ、足は地面に吸いつくようにしっかりと降ろされている。

次の瞬間、暴漢は言葉にならない言葉を発して、牙を剥いてヒーローに襲いかかった。

だけれども、暴漢の闘争心は一撃で鎮圧された。カウンターで顎に一閃、拳が当たったのだ。暴漢の牙は反作用の衝撃として自らを襲い、ヒーローの打撃はその相乗の衝撃として追い打ちをかけた。

バギッと鈍い音が響く。一瞬で暴漢は跪くと、両手で顎を押さえた。まるで顔から顎がこぼれ落ちるのを留めるように。

直感的に、ヒーローが脳震盪ではなく、顎を砕くことを目的に打撃を放ったことを彼女は知った。なぜなら、暴漢は自分の悪行を悔い改め、ヒーローに赦しを乞うような恰好になったからだ。彼女は、まるで正義の儀式を見ているようだった。

そのあと、ヒーローは暴漢に言った。俺の眼の前から消えろ、と。暴漢は堪えきれない痛みと、見事に挫かれた欲望に涙しながら逃げ去って行った。辺りは静寂を取り戻した。

夜露が、醜い欲望や血なまぐさい戦闘をゆっくりと洗い流していくようだった。

しばらくそうした雰囲気が漂った。その中でヒーローは自分の行いを確認するように、目を閉じて天を仰いだ。理由はなんにせよ、人を痛めつけてしまったことを後悔しているみたいだった。

ひとしきりその確認作業をした後、大きく息をつき、ヒーローは彼女に一目もくれずに、どこかへ走って行った。



それから、ヒーローは彼女の前に一度も現れていない。

ふと、仕事の手を止めて彼女はつかの間思う。また何かあったときには助けにきてくれるのかな、と。でも暴漢に襲われることなんて、ない方がいいと思い返して再び仕事に向かう。

でもそれからというもの、彼女の頭の中にはヒーローがいて、その存在感が彼女を勇気づけてくれた。

だから、彼女はいつも感謝した。ヒーローに。その存在感に。
乳飲み子は、一人、母を待っていた。この世界に生まれて間もないその子は、一人でそうしていることが多かった。ひと握りの分別は、母の顔と母の乳房と赤ちゃん煎餅だけであった。いや、少なくとも傍目からはその3つだけは、分別しているように思えた。

アゥとかウゥとかの言葉にならない言葉を一日中言っていたり、黙っていたり、泣いていたりしていた。立つことも、這うこともできたが、それを見て喜んでくれる人も、はやしたててくれる人も周りにはいなかった。お腹が空くと小さなちゃぶ台の上にある赤ちゃん煎餅を食べたり麦茶を飲んだり、時たまオムツの中におしっこやうんちをしたりして、母が帰ってくるのを待った。

さみしいとかつまらないとか、そういう感情はまだ未発達で、あるいは未分化で、分別されてはいなかったし、ましてや対処法なんて知る由もなかったから、もう泣かなかった。ただぼんやりとではあるが、強いわだかまりのようなものが心のなかにあって、それを感じては、一人でひどく落ち着かないよう様子を見せていた。それよりも何よりも、いつもその子は、ただただ母を探した。

しかし、辺りには幼いその子でも十分に見渡せる広さしかないし、視界を遮る物もほとんどなかった。ワンルーム四畳半。押し入れはまだ開けられないし、玄関やユニットバスルームのドアノブには手が届かなかった。

来る日も来る日も、帰ってくるであろう母を待ち続けていた。正確には、その子には一日という感覚もないし、待つという行為の積極的な認識もない。ただ、夜遅くに帰ってくる母の顔を見ると、どこからともなく緊迫した感情が込み上げて、嬉しさのあまりか、寂しかったという分別の発露か、ひどく泣き叫んだ。

その日、母は珍しく早くに帰ってきた。そして、すぐに泣いている自分の子を抱いた。身体を密着させて、泣きやむのまで背中をさすり続けた。背中をさする母は、その日、なぜか泣いていた。

また、その日に限って、母の後ろには見知らぬ男性が立っていた。その男性は、乳飲み子に向かってほほえんでいた。乳飲み子は、最初緊張したが、男性のほほえみをつぶさに観察するうちに警戒心は薄れ、母のぬくもりもあいまって安心しはじめた。

珍しい事、変わった事はそれだけではなかった。母はいつもより大きな買い物袋を持っていた。その中には食材がどっさり入っていた。母は子が泣き止むと、狭いキッチンに立って、子のために離乳食を作りはじめた。

母の脚にしがみつきながら、物珍しげに、子は見上げていた。すると、部屋に入ってきた男性に抱えられた。びっくりしてむずがったが、男性の腕や胸から伝わる温かさと丁寧に抱くその気持ちが肌を通して伝わり、心地良くなって、乳飲み子はいつの間にか眠ってしまった。

肩を優しくたたかれて起こされたときには、母と男性の柔らかな視線と、その子のために作られた数々の料理に囲まれていた。視線も料理も、今までそんなことは一度もなかったから、乳飲み子は嬉々として喜んだ。とにかく嬉しかったのだ。

柔らかな眼差し。温かな食事。自分の一挙手一投足に笑顔を向ける母と男性。

乳飲み子の心に、初めて幸せが芽生えた。その心に後押しされてか、食事中、その子はニコッと笑顔にもなったし、自分に向けられた母と男性の言葉掛けに、顔をつぶして両手を精一杯挙げたりして、嬉しい気持ちを目の前の二人に伝えた。

食事の最後にはオレンジジュースも出してくれた。それは市販のものではなく、男性が新鮮なオレンジを何個もしぼり、母が薄めたり何かを加えたりして味付けをしてくれたものだった。初めて飲むそれは、甘くて、酸っぱくて、少し苦くて、なんだかとても美味しいもののように感じ、乳飲み子は身体を揺らしてキャッキャッとゴグゴク飲んだ。

その後、母と男性は満足するまで遊んでくれた。母と手をとって踊ったり、ハイハイで追いかけっこをしたり。男性には高い高いをしてもらったり、肩車をしてもらったり。

母と男性は冬だというのに、額に大粒の汗をかいていた。でもそんなことは気にせず、一生懸命その子に笑顔と気持ちを向けていた。時折、子は手を額に伸ばして不思議そうに触ったりしていたが、母と男性の笑顔につられて、子も笑顔になった。

月が中天に差し掛かる頃、ついに子はウトウトしはじめた。

子はしかれた布団に入る前、オレンジジュースを再び飲まされた。子の意識は辺りの静けさと月の明かりの間をさまよい始めていた。満たされた心で、母の乳房にすがり、子を挟んで三人で布団に入った。

三人の、誰の耳にも、静けさと月明かりの中に、子の笑い声がこだましていた。

ふと、子はうすれゆく意識の中で、母の顔を見上げると、母は黙って涙を流していた。母の手は子の小さな頭を撫でていた。そして男性の顔は見えなかったが、その大きな手でゆっくりとやさしく子の背をさすっていた。

月明かりの中で、子の寝息は、さっきまでの楽しかったイメージに、命を吹き込むもののように生き生きとした輪郭を与えていた。

しかし、ゆっくりと上下する寝息が止んだ。

その時、母の涙は嗚咽に変わり、男性の手はこわばり、ぎこちない動きに変わった。

乳飲み子の身体は徐々に硬くなり、布団にその重みを刻むように沈んでいった。

もう、笑うことも、遊ぶことも、楽しむことも、乳飲み子には許されなかった。
心が乱れて落ち着かないとき、僕は洗い物をする。キッチンに立ち、自分の食べた物が載っていたお皿やお椀を洗う。夕食はキノコのスープとチキンステーキ、サラダ、ご飯だった。

スポンジに洗剤をつけて、黙々と洗う。きちんと油や汚れが落ちているか、指でこすったりして念入りに確かめもする。黙々と取り組んではいるのだけれど、もちろん何も考えていないわけではなかった。

時計は夜の8時10分を示している。 ざわざわする心の雑音を鎮めるために、耳を澄ませる。自分の存在がなくなるくらい、そう感じるくらい、外に向けて耳を開く。

耳を外に開くと、様々な音がまい込んでくる。コンクリートの上を歩くハイヒールの音、隣の家の階段を降りる音、蛍光灯の中の水銀が飛び交う音。コツコツコツ、トットットッ、チッチッチッ。

しばらくすると、外に向けられた耳は、自然と僕の内に秘められたら音を拾うようになる。こうした種類の音は、意識して、直截聞くことのできる音じゃない。自分の中にあっても、自分の掌の中にはない、繊細な音。

次第にその繊細な音は、もはや音としてではなく、あるイメージとして僕の中で響きはじめる。



クパッと、海面から顔を出したのは、成熟したウミガメだった。

ウミガメは、海の中で誰かとすれ違った。その誰かの印象は、ズキュンと、豪速球のような強い衝撃を与えた。驚いたウミガメは思わず海面から顔を出した。

ミカンの皮のようなカタチの、温かくどこか懐かしい余韻がウミガメの心に強く残っていた。何だろうこれは、一体何が起こったんだろう、そして、私は誰とすれ違ったんだろう。

すれ違った相手がまだ辺りにいるかもしれないと思って、再び海を覗いた。けれどそこには誰も、何も、もう居はしなかった。ウミガメは諦めてまた顔を出す。

空は青くて、雲はなかった。そんな空を眺めて考えているうちに、手足を動かして浮いているのが億劫になってきた。ウミガメは力を抜きながら仰向けになって、海の上に浮かぶことにした。

誰とすれ違ったのかと、詮索するのはやめた。悪くない、とウミガメは心の中に残った妙な余韻に身を任せることにした。穏やかな波に揺られて、ウミガメはただよった。



僕はこのとき、コーヒーをわかしていた。もう洗い物は終えている。淹れたてのコーヒーを手に、リビングのソファーに腰をおろした。

ウミガメには申し訳ないのだけれど、僕は彼が誰とすれ違ったのか知っている。とはいえ、その誰かはウミガメには全く関係のない誰かなのだ。

でも、それでも、ウミガメが感じた余韻は僕を包んだ。大事なことは、その誰かは、ウミガメのそこにも、今の僕のここにも、決して居ないということなんだと思った。そして、この余韻に対しては、僕もただようしかなかった。

目を閉じて浮かびあがる人。ウミガメの頃、すれ違っただけの人。今夜もまた、僕はこうして闇を削っていた。
トンネルの中は暗くてジメジメしていた。歩いていると、額から汗が滲んで襟足から玉になって落ちる。着ているTシャツは古い汗と新しい汗でグッタリしていた。

辺りはオレンジ色に包まれていた。自分と自分以外の境界線がハッキリと映し出されている。僕は他の何物とも同化せずにいた。

暗いが夜とは違う。普通、暗さは自分と自分以外の物とを未分化にするが、オレンジ照明はそれを許さない。トンネルとはそういう処で、僕は僕という殻の中から溶け出しては行けない。

トンネルの中でも今日があり明日がある。デジタル時計を見ると、16時14分を知らせていた。脚が自然と前を進むように、刻々と時は前進し続けている。

トンネルの中でも、喫茶店でも、これは変わらない。

でもこういう仮説もある。今いるトンネルという世界の一部分が光速以上で移動すれば、時空が歪み、時は進むスピードを緩め、または止まるか遡るかする。でもそれはあくまで仮説であって、実証されてはいない。

こんなのあまり現実的ではないし、雲を掴むような話だ。あくまで現実とはデカルト座標のような中を進む直線上にある。そして僕には、これ以上の考察は能力を越えていた。

だけどつまり、ここで歩みを止めても、後ろに戻っても、結局はそうした進みの中にいるのだ。暗かろうが、僕と僕以外の物とを隔てようが隔てまいが、そういう現実の中に身を置き、こういう大前提の中で生きるしかないのだと思い知るより他はない。

何台かの車が僕の隣を通り過ぎる。一直線の通り道をすごいスピードで通り過ぎる者もあれば、楽しげな音楽をやかましくならしながらゆっくり通り過ぎる者もあった。僕以外の者は僕とは違う進み方をしている。

無いわけではない。この進みの前提となる知覚を覆す術が本当に無いわけではないのだ。そう思い返す。

トンネルの中は暗くてジメジメしている。こめかみから汗が流れた。新旧相混ざった汗が僕にまとわりつづける。
「聞くの忘れたなぁ」

今夜も眠れなかった僕はそう思った。たぶん、長く運転していたからだろう。身体の奥がこわばっているんだ。

でも、それとは別に人は歳をとると眠れなくなるものなんだろうか。

僕の祖母は去年85歳で人生の幕を下ろした。突然、意識がなくなって、動くことも、見ることも、話すこともできなくなってしまった。その事に誰もが驚き、悲しんだ。

最期の病室で、僕は祖母へ語りかける言葉を探した。でも声になる言葉はなにもなかった。火葬場でもみんな黙々と静かに過去を偲んでいた。

祖母は晩年睡眠薬を飲んでいた。高齢者にとってはそんなに珍しいことではないらしい。でも、なぜ眠れなかったんだろう。

いや、眠れないとき、どんなことを考えて、あるいは思っていたんだろう。

今になって、なんだか気になった。聞いたらなんて答えたんだろうか。きっと笑顔でこたえてくれたんだろうなぁとは思う。

いつか僕に話してくれた昔のことだろうか。

幼い頃、着物をきて、お祭りで金魚すくいをしたことだろうか。 若い頃、汽車で妹のところに自分よりも重い荷物(食べ物だったらしい)を運んだことだろうか。それともおじいちゃんと旅行に行ったことだろうか。

おじいちゃんには昔のことをよく聞いておきなさいと、祖母はよく言っていた。だから、わりと祖父には祖父の昔のことをたずねた。でも、祖母にはあまり聞かなかったことを今更ながら後悔する。

僕はこんな風に眠れないとき、何を考えればいいんだろう。夜な夜な何を思い続けながら生きるんだろう。もういいよと思いながらも何を思って生きればいいんだよ。

朝やけがそんな傷口にとてもしみる。
我々はすでにこの世界にいて、なんとか生きていかなければならない。

男はそう言うと、一息措いた。僕は男からのっぴきならない覚悟のようなものを、その言葉から感じた。しずかに固唾を呑む。

奇跡なんて起こらない。天変地異は起こるかもしれないが、今我々が個々に置かれている状況は、一気に、都合よく好転するようなことは決してない。これは一つの真理だ。

我々は長く、そういったことに気付かずにいた。たとえば、ドラえもんの道具のように世界史の教科書が一夜にして頭に入り、明日のテストは悪くない点数がとれるだろうというようなことを、ずっと頭の片隅に抱き、タイトに締め上げる現実と現状のバランスを保ってきた。あるいは、気づかないふりをすることで精神バランスを維持してきた。

しかし、それは定期テストが眼前の一つの現実であった時代のものだ。そこから抜け出してみれば、そんな幻想を片隅にでも置いていたら、どんどん置いてけぼりを喰う羽目になる。だから、逃げ場がないことを受け入れ、逃げ場を作らないことを考えねばならない、少なくとも社会的側面においては。

タフな考え方だ、と僕は思った。僕は自分の頭の中をさぐってみた。ウィルススキャンをするみたいに、意識全体の一つ一つを精査してみた。

当然、それには時間が掛かる。そしてもちろん男は待ってくれない。男は続けた。

つまり、そこには正攻法しかないのだ。したがって、堅牢な現実という壁を正面からよじ登るような、コツコツと無きに等しい努力の塵を積み上げるような訓練が必要なのだ。そして、塵が積み上がる先に何が在るのか、何をおくのかを決めて、常に積み上げる行為を見極め続けなければならない。

厳しい戦いだ。きっと僕の友人のFならそう言うだろう。しかし、男はそんなことお構いなしに話を続けた。

まるで、厳しかろうが、タフでなければ務まらなかろうが、そんなことを言うこと自体が甘いのだと言わんばかりに。


その夜。僕はベッドに身を横たえながら、男の言葉を考えた。でも頭に浮かんだのは全然違うことだった。

家の庭の木陰から、大きな男が僕の部屋を監視していた。あまりに大きな体躯であったから、木の陰は全然目隠しになっていない。でも大きな男はそんなことは全く気にしていないようだった。

肩と胸、脚の大腿部の筋肉が服の上からでも目立つように膨れている。背が2メートルに近いのに、それほど筋肉があるのだから、まるで大きな岩のような佇まいだった。なのに、その男は飽きることなくずっと僕の部屋の灯りを眺めている。

注意深いその眼光は、蛙を睨む蛇のように強く縛り上げるような鋭さに満ちている。

男は僕が眠ったら木陰から出て、庭を徘徊するのだろうか。

何のために男はそんなことをしているのだろうか。

でも、大きな男の目的ははっきりしているのだろう。なぜならば、鋭いその姿勢から揺るぎない目的意識を感じるからだ。それがどんな種類の情報かはわからないのだけれど。

不思議と僕は緊張しなかった。詮索したいならすればいい。監視を続ければいい。

無機質な空気が、僕とその大きな男を、揺れることもなく、いつまでも留まっていた。
夜な夜な想う事なんて、ろくなものではない。日が沈んだら眠り、日が出たら起きる。その間には熟睡の他は何も無い方が良い。

だから、こんなことは、こんな時間は無い方がいい。でもそう言ってもいられないときもある。眠りを司る繊細な機械の小さな歯車が、いつの間にかコトンと落ちたように、何でもないのに眠れない。

僕が今語るべき事はなんだろう。

僕には背中がある。その背中には何人か寄りかかっている。そんな感じがする。

一人ではない。二人でもない。三人以上。

三人より多くは僕の感度では計り知れない。でもちゃんと僕の背中に誰かの背中を感じる。顔は見えないけれど、大小様々な背中が寄りかかっているのは確かなことだった。

それは時に重かったり、軽かったりする。温かい時もあれば冷たい時もある。柔らかいときだって、硬いときだってある。

とにかく、そこに誰かの背中が在る。

それに対する評価は、その存在を煩わしく感じたり、嬉しく感じたりしてるから、定まらない。

評価とは別に、僕はそれを望んでいるんだろうか、欲しているんだろうかと考えてみた。

でも、それらはいつの間にか在ったもので、望む望まないや欲する欲しないは関係ないと言いたいところだけど、もう少し注意深く探らなければ大事なものを見落としてしまいそうな気がする。

たぶん欲していたのだろう。より正確にはそういう存在ができることは想定していたはずだ。ホウセンカの種を植えれば芽が出るように。

方向を定めれば、道筋は見えてくる。あとは踏み外さないように、目の前の道をたどっていくだけだ。でもそうした作業をこなすうちに、あることに気づく。

行き先がわからないんだった。あてはないんだった。いや、それはわからないんじゃなくて、見えていないだけじゃなくて、最初からないんだって事に気づく。

想定した行き先々はあっても、心から望んでいたわけじゃないんだって。

それを知るとき、何度も思い知るとき、背中の重みに対して無駄に汗を掻きながら支えようとする。

そうまでしなくても支えられるのに、何だかそうでもしないといけないような気分になる。

だから僕の書くものには汗や肉体労働のような描写が多いのかもしれない。

僕は抗おうとしているんだろうか。僕の中にある暗く湿った性質に対して。そうなんだろうか、まだよくわからない。

生きようとすることに、何らかの希求が僕の中に存在しているんだろうか。

そんなものは無いと十年も思い続けてきたのに。

霞む視界はすべての音を悲しげに響かせていた。目には見えない、微小な水滴に反響し、その波長を歪める。それでも風は音を運び、加速させる。

視界が霞み始めると、すべてのことが億劫になった。心臓の辺りから、じわっじわっと、毒水が布を侵すように、怠惰な趣が体を浸食する。まるで底なし沼に脚を突っ込んだように、途方に暮れた。

気がつくと、僕は底なし沼の真ん中にいた。泥が体にまとわりつき、顔にもへばりつき、体は鉛のように重くなる。うなだれ、ゆっくりゆっくり、沈みゆく過程に耐えるしかない、結局、なすすべなど、予防的対策などないのだと改めて思い知る。

目を閉じる。音の世界が再び真っ暗な視界に訪れた。あらゆる音が波紋を広げ、僕に訴えてくる。でもこの時、その一つひとつに色があり、匂いがあった。

同心円拡大方式的に大きく広がろうとする様々な音は、多くの障害物に当たり、その度に拍子のようなものを備えた。障害物に当たった波紋は、弧となり、その部分を歪ませながらも僕の耳に、彩りや微かな匂いを届ける。僕は反響物ではなく、それらの音を浸透させる吸収体となることに努めた。

温かな彩りや匂いは、うららかなイメージとして僕に降ってきた。桜の色や太陽の匂い。草原を駆け抜ける風や頬を赤らめた女の子。

キャッキャッとはしゃぐ子どもやそれを微笑みながら見詰める老夫婦。なぎた海や新緑の山々。希望や期待、夢に胸をふくらませる未来がそこにはあった。

僕は目を開けた。どろどろになった掌を見詰めた。重くなった体を省みた。

振り返ると、鬱蒼とした森が口を空けていた。オーケー。確かに僕の居る場所は、こういったところだ。

でも耳に残ったうららかな音はまだ残ってる。そこで抱いたイメージは頭に浮かんでる。僕はそこに還りたい。

子どもの笑い声がした。

森の奥からではなく、沼のどこからでもなく、霞の彼方からでもなく。

僕は引き返すべく、沼の中できびすを返した。

もうあごの辺りまで沈んでいたが、僕はもがいていた。
鬱蒼とした森の中を歩く。あてはなかった。安心なことなんか、ひとかけらもないように思えた。

昨日まで雨が降っていた。湿度はとても高く、肌に触れる空気は刺すように冷たい。その刺激が僕の神経を尖らせた。

歩きながら、人のことを想う。あんなに近づいたのに、結局僕らは離れ離れになった。なぜだろう、と氷結されそうな心の中で思う。

尖った神経では、尖った方向にしか進まなかった。やめよう。呟いて、ため息して、くぐもった息で想いを吐き出す。

体が冷えていると思った。指先は凍えていた。脚は棒のように硬直しかけていた。

僕はそこで止まった。背中のリュックからスコップを取り出す。手を息で温めた。

大きく深呼吸して、スコップを強く掴んだ。腰をかがめて、スコップの先を地面に向ける。そこに、ザクッと、一投を投げ込んだ。

右手でしっかりと握り、左手を柄に添えて、力強く地面に差し込む。体を半身にして、腰の回転力も使って、掘り込む力を増していく。僕は地を掘る機械になった。

なるべく力のロスがないように、一掘り一掘りの動きを固定していく。小さな乱れを何度も修正しながら掘り進めていく。僕の全意識は掘るという行為と動きの改善に向けられた。

背中から汗がにじみ出て、Tシャツが濡れてきた。手や腕の毛穴から湯気が立ち上ってきた。呼吸は濃く荒くなってきた。

でも、僕は続ける。ひたすら続ける。やめるわけにはいかない、と続けた。

動きが安定してくると、動作は意識から徐々に離れていき、不随意的な反復運動になってくる。すると、意識にノイズがはしる。人のことを想った。

僕に原因があったのだろうか。それとも外発的な要因がそうしたのだろうか。なぜ、どうして、なにが。

分かっているのは、結果であり、経緯は雲を掴むように不確かだった。残ったのは余韻であり、残像だった。今もありありと残る感触だった。

急にじわっと掌にその感触が蘇った。それを感じたとき、僕は一瞬眉間に深い皺を刻んだ。そしてさらに強くスコップを握り、あらんかぎりの力を入れて掘り進めた。

握力が鈍り始めていた。かがんだ背中がこわばって来ていた。膝が笑い始めていた。

行動体力が底をつき始めた。でも僕はやめなかった。ここが大事なところなのだ。

額から汗があふれて、頬を伝った。手や脚が痙攣していた。喉がカラカラで、乾ききっていた。

もう寒くはなかった。僕の体のどこも凍えてはいなかった。感じるのは疲労だった。

僕はスコップを放り投げた。後ろに倒れ込んだ。無意識に胸が上下して、懸命に息を整えようとしていた。

頭の中はカラッポだった。何も思い浮かばない。こんなことは、とても一瞬間のことなのだけれど、僕はこれを求めていた。

視線の先には、空があった。

突き抜けるような青い奥行きが見えて、僕は微笑んだ。
僕は道を歩いてた。小雨が降ってる。袖の隙間から冷たい風が忍びこむ。

どことない、寂しさが身をまとう。ふと辺りを見回す。誰もいなかった。

人々の視線は僕になんか向けられていない。

特定の誰かを思い浮かべてみた。

でも、誰も僕になんか目を向けていない。

名前を呼んでみた。

それでも、振り向いてくれなかった。

顔を思い浮かべてみた。

すると、微笑むどころか、腹を立ててすらいた。

ふぅっと、ため息を吐く。目を落とす。僕は歩いていた。

僕はこの歩みを止めることはできるんだろうか。この歩みの先には何があるんだろうか。一体僕はどこに向かおうとしているんだろうか。

どうして僕に怒りを覚えるんだろう。理由くらい聞いておけばよかった。でも、もう答えてくれないだろう。

僕は何のために歩み続けるんだろう。ただ歩んでるだけなんて、とても信じられない。それでも僕は進まなければいけない、いや、進んでる。

どこに、一体、どこへ。