梨さんのブログ -98ページ目

雪やコンコン-3

昨日(2月3日)は千葉、東京、かなりの雪が降りました。

通常勤務につき、窓からの眺めで楽しみました。


帰宅途中に

「雪だるまつくった」

という兄からのメールに気づき、寄り道。


猫の額のようなベランダに積もった雪でこさえたとのことで

手のひらサイズ程度のものを想像してたら

結構でかい奴がそのベランダに鎮座しましまし。


母へ電話して話したら

「あれ(兄)は器用だから、いいのが作れたんじゃないか」

となにやら誇らしげ。


ええ。確かにあなたの息子さんの作った雪だるまは

それはもうご立派なできばえの代物で、と内心面白かった。


郵パックで、雪だるまの商品がありますね。

発泡スチロールのかわいらしい外装に、棺おけのように包まれたダルマさん。

前に地元(雪は降らない)の職場にそれが贈られて、皆で愛でて楽しみました。


あれ位の大きさで、形も見事な球形。

目鼻のパーツは手頃なサイズの小物でかたどり、その厚紙を切り抜き、

ポスカで着色し、目の中心はボルトで固定。




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眉の位置を変えて、表情の変化も楽しめます。


職場で雪だるま「作りたいね」という話がでて

私は「カマクラが(作れたら)いいな」と話すと、笑われてしまいました。

それにはまだ雪が足りないそうです。残念。


「走行中の電車の車窓から見る雪は横に降る」という現象も確認できました。

無風時の降雪状態を、移動中の乗り物を定点として観測すると

雪が横に吹雪いているように見えるだけのお話。


ネオンサインと同じことですよね。

上から降っているはずの雪が、横から現れ、横へ流れているように見える。

視点を変えただけで、全く違った現象を発見できます。


雪やコンコンあられやコンコン。

犬派?猫派?

どちらも居心地良さげです。

日本語表現法演習

慇懃無礼で思い出しました。


学生の頃、私の書いた作文やレポートを評して先生から

「○○(私の本名)さんの文章は二枚目だね」

と言われました。


‘二枚目’は通常、男子に用いる表現では?というつっこみはともかく

「え?じゃあ、(文章でなく)実際はどうなんですか」

と思わず先生に聞き返しました。


「うーん」

と先生は少しためらいがちに

「…二枚目半かな」

と、お返事賜りました。

たぶんに気遣い込みの評価とお見受けしました。


好きな先生だったので、結果として先生にお気遣いを強要した事態に

恐縮と羞恥心で、何やらいたたまらない気がしました。


実際の私は三枚目なのです。

あ、でも相手によるかな。


きょうだいや、近しい友だち宛てのメールでもそうです。

文章にすると、なぜかかしこまってしまうのです。


記録として残される可能性に、警戒心が作用しているのでしょうか。

どうしてそうなるのか、自分でもよくわかりません。


たまに、くだけた表現をすると

自分でも「?」と思うほどブッキラボウというか、ガラの悪い印象になります。


家族や友だちなど仲の良い、近しい人との会話を文面で再現すると

かなり口の悪いこと、乱れた日本語を自覚できます。

近親者とは信頼関係があるので、甘えが生じるのでしょうか。


たとえば、ひとつ年上の兄のことを、私も弟も名前で呼び捨てですし

「おまえ」とも言います。

ふたつ年下の弟も、私のことを呼び捨てです。

幼少期に親の育て方によると思われますが、全く気になりません。

友だち同士でも「おまえ」「あんた」などを使うことがあります。


夫婦間や恋人でもその傾向がありますよね。


昨今日本語の乱れが、まま問題視されますが

私の使う日本語もかなりおかしいので、人様のことをとやかく言えません。


ただ思うに、口の悪さを他人から指摘される人でも、

言葉の使い分けがちゃんとできている人も、もちろん中にはいらっしゃり

そのギャップを目の当たりにすると感心するしだいです。


えっと、何のお話でしたっけ。

まあ徒然なるままにしたためてみました。



飛べました

子どもの頃、何事も努力すれば成就すると信じていた。


なので、子どもの頃、実は私、空を飛べていました。


他言はしなかったので、証人がいないのは残念です。

誰かにこの事実を話すと、その能力が失われてしまうのではないかと

警戒していたフシがあったと思われます。


「人間は飛べないっていうけど、自分は何でか飛べるんだもんねー」

と、ひとり悦に入ってました。

しかも確か小学3年生頃まで、その遊び(?)は続いていたと思う。


それ以降、生身の人間がタケコプターなどの装置無しで

飛べるはずがない、という認識に変わったのではなく

何となくそこから意識が遠のいただけだったかと思います。

振り返り、こうして他人に話すのは今回が初めて。


実際‘飛べた’というのは単に空想だったのではなく

平たく言えば‘スキップ’の応用です。


スキップって両足が地を離れ、滞空時間が発生しますね。

その飛距離をなるべく大きくすることにより‘飛んでいる’と

都合よく勝手に解釈していただけの話。


時間は通常全ての人に平等で、しかもその影響は

人間だけでなく全てを支配する絶対的な概念かと思いますが

反面、時間の経過を感じる感覚って、極めて個人的なもので

実態としては、相対的なものでもあると思われます。

実時間と、体内時間とでも区別しようかと…。

あ、ひょっとして四次元ってこんな感じ?違いますね。失礼しました。

勝手な持論です。自分のブログなので好きに言わせてやってくださいませ。


話を元に戻し、その頃の私にとって、そのスキップする時の滞空時間は

‘飛んでいる’状態であると認識するに足るものであったというわけです。


今でもその心理状態を思い出すことができます。

私は確かに飛んでました。


今だと人間が自ら飛翔する方法として、

背中の翼を羽ばたかせるという発想が主流かと思います。


当時の私の場合は、大地を蹴りだし、その勢いでtakeoffという原理でした。

大きく開脚し、両足をまっすぐに伸ばす。

最初の蹴りの強さと、伸ばした足の分だけ、長く飛べると信じてました。


そして重要なのは、着地。

ドスンと床に響くような着地は絶対にNG、それは美しくないという独自の美学があり。


自分が空から舞い降りたことを

他人に悟られてはならないという前提がありましたから。

他人にその秘密を知られると、飛べなくなるので、そこは慎重になるというもの。


着陸した後は何食わぬ顔です。

そのまま次のステップを続けると、飛翔継続状態になります。


ただのスキップの変則を、自分なりに

それで充分‘飛んでいる’状態であると楽しみ、喜んでいたしだい。



最近、このブログを読んで下さる方々から、私の実体と乖離した評価を頂き困惑。

誤解を招くような内容の記事に偏っていたことに気づかされました。


おバカな側面も告白しておかなくては…

とはいえ、特に望まれていないし、その必要もないとも思っていますが。


ホントは毎日ポカの連続で、反省の日々ですが、

学習能力の低さで救い難いのが自分でも情けない。

でもそれを取り立てて披露し、卑屈になるのは趣味ではないので。

しかし自虐な笑いは好きです。


そんなわけで、差しさわりのない幼少期のおバカ時代を披露してみました。


子どもの頃は誰しも独自の世界観で構築された

心のとりでのようなものがありますよね。


などと、普遍的な解釈を布石として自己防衛を図ってしまうあたりが

小賢しい性格の一端の表れで、皆さまご注意です。


なんだか混乱した内容になっていますが

実は常に混乱気味の私なのです。