ココハドコ? アタシハダレ? -40ページ目

ココハドコ? アタシハダレ?

自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

 

 

朝の陽光を浴びながら自分を美しく見せる鷺さんが、ちょっとうつむき加減の鴨さんに何事かお誘いしている、そんな風景。もう何年も前に多摩川で撮った写真。同じ風景がSNSの世界でも展開してるというお話。

 

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私のBLOG歴は間はあいてるのだが、なんだかんだと15年くらいになる。その初めはミクシィなんかが人気になる前、2ちゃんねる掲示板が人気で嘘もホントもごっちゃまぜの掲示板について「ネットリテラシー」がどうだこうだと盛んに言われていたころなので、年齢のわりに免疫はあるほうだろうと勝手に思ってる。「年齢のわりに」とあえて言うのは私のような「高齢者」の域に達してる人が何かの拍子にFacebookなんか始めて「お友達」なんか作り始めると、もうネットリテラシーなんて言葉も知らない人も多いし、そこで何が起こるか考えない人も多いだろうと思うからだ。「鷺」さんが狙う「鴨」さんは年配者が多いのは、引っ掛かりやすく、しかも若者より資産を持ってると踏んでいるのだろう。

 

私も半年ほど前にFacebookを始めた。このBLOGをFacebookにシェアはしてるが、私の活動(?)のメインステージはあくまでこのBLOGだと思ってるので、リンクは貼ってない。で、Facebookで、あるグループのメンバーになったら、しばらくして若くて美しいお嬢さんやマダムっぽい女性から「お友達」申請。そりゃ若いし美人だし断る手はないわな。もちろん「OKですよ~」と返事し、続けてLINEを交換。3人ほどの女性と入れ替わり立ち替わりトークしてたらどいつもこいつも1週間もたつか経たないうちにもうけ話を始める。おじさんからもらった情報とか姉が送ってくれる情報で暗号資産で毎回30万から50万の収入を得てますとか、FXで一晩で100万ドル儲けましたとか言ってくる。女性たちは揃って中国系で台湾に住んでるとか日本とシンガポールのハイブリットですとか、いろいろ言うのだが、とにかく日本語が下手。私が「鷺」とか「鴨」と漢字で書くとおそらくこの文字の訓読みなんて知らないし、読めてもこの日本語のダジャレは理解できないと思う。なにしろ、まともに相手してるとこっちのいう事の半分は通じてないことがよくわかる。それなのに、彼女たちがトークに添付して見せてくれる精算伝票みたいなレシートみたいな粗末な帳票は日本語。ふつう中国人が自国で取引してるなら帳票は中国語だろう、それが日本語なんだからもう狙いははっきりしてる。で、友情とか信頼とかなんだかんだと言いながら誘ってくる。

 

彼女たちはオレオレ詐欺の受け子みたいなもので組織からはいつでも都合よく使い捨てられる人たちなのだろう。いや、詐欺は金を払い込んでそれが戻ってこないと判明しなければ犯罪は構成しない。私にとって彼女たちは、まだ犯罪を犯してないし、犯したとしても証拠がない。彼女たちが騙されている被害者という可能性もないわけではない。それだけではない。もしかするとなりすましで、実際は男だったりすると思う。まことに厄介。まあ自業自得と思うけれど、トークだけは続くところまでは付き合ってやろうかと思ってる。好奇心、冷やかし、それに暇つぶし、写真通りの美女なら、少し同情も。

 

ダメな ワ・タ・シ。

 

 

参考記事

これは詐欺でしょうか? MT5に850万投資をしましたが

MT5でFX取引して 出金しようとしたら

 

 

 

 

 

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ゴッホ展を見に行ったついでに、上野公園界隈を激写!

「おのぼりさん」気分を楽しんだ(笑

 

 

かっては西郷隆盛像は上野のシンボルだったけど、どうも今はパンダらしい。銅像の前は閑散としてたけど動物園の前には行列。ちなみに私はなまパンダを見たことがない。余計なことまで言ってしまうと、ディズニーランドも行ったことがない。今時の「おのぼりさん」になるにはその両方とも見ないといけないね。

私は昭和30年代の「おのぼりさん」だから西郷像で満足(笑。

 

ちなみに、

「おのぼりさん」という言葉は江戸時代からあった

・・・・らしい。

 

(清水観音堂の月の松の向こうに見える弁天堂)

 

(竹の台広場)

 

国立博物館の前の広場に名前がついてるとは知らなかった。「竹の台広場」。ふむふむ・・・

 

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そして、アメ横。アメヤ横丁とも言う。語源は二つあって、戦後の混乱期、砂糖が手に入りにくかった時代に飴を売る店が並び、それが人気を呼んで「飴屋横丁」になったという説とアメリカ軍の放出物資を売る店が多く、それで「アメ横」になったという話。

 

アメ横というと年末年始の賑わいをTVで見るからか、普段もこんなに混んでいるものとは思わなかった。ちょっとした驚き。店を遠目にのぞき込むくらいで買い物はしなかった。

 

 

 

 

 

 

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ゴッホ展を見てきた。ゴッホの展覧会はこれまで何回も開かれてきたのだろう。2年ほど前にも上野の森美術館で開かれており、そちらも私は見ている。ゴッホの作品が大々的に日本に紹介された最初はおそらく1953年の複製画による展覧会で、実作品での展覧会となると1958年に東京国立博物館で開かれたゴッホ展で、実は親に連れられて私はこれも見ている。この展覧会は大盛況で国立博物館の周囲に長い行列ができ、鶯谷駅の方まで長くのびていたのを覚えている。

この展覧会にはゴッホが大色彩画家として登場するアルルの時代以降の名作が大挙して展示されていた。アルルのはね橋や満開の桃の木を描いたもの、花瓶に生けられたひまわりや、夜のカフェ、糸杉、これらの主だった代表作が子供だった私に強い印象を残したようだ。絵といえば子供向けの絵本とか小学校の授業で描く自分や級友の絵しか知らず、本格的な絵画に初めて触れたのがこの展覧会で、大混雑の中で見たこれらの作品の記憶が今に残るくらいだから、その印象は相当に強かった、と言っていいのだろうと思う。

 

 

しかし、時代とともに展覧会の規模は小さくなってきている。作品の数はそろっても、なかなか名作がずらりと並ぶという事はなくなった。これは海外から日本に輸送するにあたって、盗難や破損、紛失と言ったケースに対してかけられる保険の金額が年々上昇し、今では莫大な金額になっているからだと言われる。だから、そうそう名作ばかりを持ってくるという事が出来なくなった。寂しい限りである。

 

 

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今回のゴッホ展も2年前のゴッホ展も構成は似ており、オランダ時代に重心を置いているように見えた。ゴッホはひとことで言えば「善意の人」なのだが、この「善意」が実は抜き差しできぬところまで彼を追いやっていったらしい。まだ本格的に絵を描き始める前、彼は美術商に就職したものの解雇され、牧師になろうとして失敗し、伝道師にもなるにはなったが、派遣された鉱山で抗夫たちと同じように顔を汚しきたない格好で説教し、なけなしの金もパンも着るものも、寝台までも人々に与えて自分は乞食同然の風体だったという。教会は伝道師の体面を汚すものとして彼を追放した。弟のテオに勧められて絵を描き始めるのはこの頃なのだが、ハーグに移ってアトリエを構えた彼は、父なし子を妊娠した娼婦を保護し、家族との間に騒動を起こし、彼を支えてきた弟からも送金を止められる。

 

こうしたオランダ時代のデッサンや暗い色彩で描かれた農民や職人の油彩画、これまで私はあまり注目して見ては来なかったが、デッサンの線や油彩の筆の力強いタッチにはこれら貧しい労働者や農民に寄り添って生きようとする強い感情が込められているように見える。色彩は暗いがペシミスティックな印象は皆無と言って良く、それが魅力になっている。

「防水帽を被った漁師の顔」という作品がある。辛苦に満ちた半生をはね返そうとする強い意志を感じさせる目が印象的である。娼婦だったシ-ン・ホールニクがモデルと言われる「祈り」というデッサンでは悲しみを乗り越えて母親となった女の安らいだ表情が印象的だ。後の「大色彩画家」など想像もできない作品群だが非常に魅力的な作品が並んでいたことは確かである。私はそう感じた。

 

 

ゴッホのわずか10年そこそこの画業のうち、色彩が明るさを獲得してゆくのは後半の5年、弟から印象派絵画の話を聞いたり、パリに出て実際にそれらの絵画に触れたり、印象派画家との交流が始まってからのようである。では、それは「流行」を追ったという事なのだろうか、ゴッホの中で何が変わったのだろう?労働者や農民、貧困の中にあって救うすべもないような人々に「寄り添って」生きようとしたゴッホはどこに行ってしまったのだろう?

 

以下は全く私の個人的な考えだが、おそらく「寄り添う」事のどれをとっても失敗し続けたゴッホの「善意」、出口を失った彼の「善意」が最後に見つけた出口があの色彩だったのではないか。彼は彼の「善意」という魂を、あの美しい色彩の中に込めたのだと、そんな気がしてならない。

 

 

 

 

 

 

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