ココハドコ? アタシハダレ? -2ページ目

ココハドコ? アタシハダレ?

自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

 映画館で映画を見るのは何年ぶりだろう。ちょっと記憶にない。たまたま難民支援協会からのメールでこの映画のことを知り、見てみたいと思った。

 

「LOST LAND」

 

 ミャンマーの少数民族ロヒンギャの家族が迫害を逃れ、難民となってマレーシアへと逃れてゆく物語である。物語の中で政治的な文言や内戦の実情など一言も語られていない。ひたすら難民となって逃れ行く旅の現実を追ってゆく、いわばロードムービーである。テーマが重いだけに、映画の出来不出来をここで語るつもりはない。難民になるとはここで語られている以上に、はるかに過酷な事だという事は誰でも想像できるのだ。

 旅の途中で、仲介業者に金をむしり取られたり、人身売買の輩に捕らえられたりと、そうした現実は描かれているが決して血なまぐさい残酷な作りにはなっていない。「難民」という自身の状況も漠として理解できない幼い少年、自分を守り助けてくれた姉も死にひとりになった少年の姿に託されているのは「希望」というよりは、生き延びることへの「祈り」のようなものだろう。

 

 これを日本人の藤元明緒監督をはじめとする日本人スタッフがロヒンギャの人々の出演で撮ったという事は特筆されていいと思う。

 

 

*****

 

 ミャンマーという国は、イギリスから独立するときの経緯から、植民地時代に統治の一翼を担って親イギリスだった民族とそこから疎外されていた民族との間で内戦が始まり、それが今日まで続いているのである。

 一説に世界最長の内戦ともいわれているが、歴史的背景を想起するなら、ロヒンギャに対するジェノサイドはイスラム教徒だから、というのは「軍は仏教の守護者」というプロパガンタに過ぎないのだろう。実際、ロヒンギャだけが内戦の当事者ではないという事は知っておいてよいと思う。特に2021年のクーデター以後は仏教徒やキリスト教徒を主とする民族も民主化を求めて内戦の渦中にあり、今はそちらが内戦の主舞台となっている。

 

 そもそもミャンマーは多民族国家で、政府の公式発表ではミャンマーには135の民族が存在し、それぞれ違った言語を使っているとされる。人口の約7割を占める最大民族ビルマ族、タイ族に近い系統のシャン族、南東部に多くキリスト教徒が多いカレン族など主要8民族とそこから枝分かれした小さな民族を合わせると135という数字になるらしい。それも分類の仕方によっては150になるという話もある。

 言語をとってもシナ・チベット語族、タイ・カダイ語族、オーストロアジア語族、インド・ヨーロッパ語族と4つの語族があり、ミャンマー語(ビルマ語)が公用語にされているとはいえ、ちょっと地方に出ただけで言葉が通じないという事はザラにあるようである。

 

*****

 

 2025年6月現在で日本に在留するミャンマー人は16万人、2021年の軍事クーデター以降、日本に来るミャンマー人は急増しており、今年2026年現在の推定では18万人ほどと思われる。そのほとんどが技能実習や特定技能、留学生といった正規のビザで在留しているが、難民申請したミャンマー人も5000人前後はいると思われる。国籍別の申請者数が年によって非公表のケースがあるため正確な数字はわからない。ただ推定できる範囲の数字を前提にした時、実際に難民認定された者が100人程度というのはあまりに少ない。難民条約を批准しながら世界で最も難民認定に消極的な日本という国のこれが実態である。

 

 ミャンマーに限らず世界中で大規模な難民が発生しており、「国民国家」などという概念が崩壊しつつある現在、もはやミャンマーは南アジアの「遠い国」ではないのである。日本にもこれからあらゆる国・地域から人々がやってくる。その意味で「クルド」も「イラン」も遠い国ではない。世界のあらゆる地域が難民、移民を受け入れ、多民族化してゆく中で文化も言語も混交してゆく、私達はそんな時代の入り口に立っている。日本もその例外ではあり得ない、私はそう思う。

 「日本の美しい文化を守れ」という保守主義者のホンネをつき詰めると、「日本は鎖国すべき」といってるように聞こえる。何という時代錯誤。私はそんなことを考えている。

 

 

 

(追記)

1.2024年1月25日に名古屋高等裁判所がロヒンギャの難民申請について下した判決がある。

それによるとロヒンギャという「特定の民族に属すること自体が、難民該当性を基礎づけ得る」と判断、原告を難民認定するよう国に命令を出している。

 ただし、これはロヒンギャであることだけで自動的に難民認定するものではなく、あくまで「迫害の恐れを基礎づける強い事情になる」というもので、申請者個人の審査は残っており、いわばハードルがいくらか下がったという評価が正しいようだ。

 

2.日本で暮らすロヒンギャの人々で難民認定されたものはごく少数(民族ごとの数字は発表されてない)とされているが、実際に暮らすロヒンギャの人は数百人はいるとされている。これは、ほとんどが「人道的配慮」による在留許可と思われる。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

にほんブログ村 その他日記ブログ 雑感へ

社会・経済ランキング

 

 

 

 

 まるで真夏のように暑かった11日。午後から上野へ。葛飾北斎の「富岳三十六景」全作を見れるというので国立西洋美術館の「北斎の藍」展に行ってきた。上野公園は桜が終わり、鮮やかな新緑に包まれていた。

 

 

 

 北斎が使った「藍」色はプルシアンブルーといって、西洋の絵具なのだが、フィンセント・ファン・ゴッホは北斎の作品を見て、このプルシアンブルーに魅せられたという話が残っている。ゴッホの描く星のちりばめられた夜景や、カフェテラスの空に使われたのが、このプルシアンブルーではなかったか、私はそんなことを想像して楽しんでいる。

 

 

 「北斎」と聞くとついつい見に行きたくなる私なのだが、今回、北斎の「藍」に特別な興味があったわけではなく、ただ「富岳三十六景」の全作品と聞くと、これは見ないわけにはいかない、そんな気分だった。解説によると「三十六景」は実は46作品あるそうで、そのすべてが展示されていた。作品はどれも素晴らしく、あれも北斎、これも北斎といった態で、気に入ったものをあげるのも難しい。大胆な構図や力強く明確な意思を持っているかのような輪郭線、どれをとっても北斎らしいと感じいるだけで言葉もない。なので、ここはいくつか置いておくだけにしておきます。

 

(東海道品川御殿山ノ不二)

 

(甲州石班澤)

 

(凱風快晴)

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

にほんブログ村 写真ブログ 写真日記へ

写真日記ランキング

 日ごとに春めいて桜も咲き始めた。天気さえ良ければ多少の風など気にせず、河川敷や公園に出て運動したり、ベンチで本を読んだりする人を見かけるようになった。私のように1日中外で仕事をしていると、ポカポカした陽気はもうそれだけでうれしくなる。

「ああ、日向ぼっこ、、、日向ぼっこ、、、」

 

 

 声にこそ出さないが、そんなことを口の中でもぐもぐと呟いてる。呟いているうちに、例によって疑問がわいてくる。「日向ぼっこ」ってなんだ?? いや「日向」はわかる。太陽の日差しがあたって明るく暖かい場所のことだ。わからないのは「ぼっこ」。

 「ぼっこ、ぼっこ」とそれだけを呟いていると、次第に「ボッコ、ボッコ」と音だけになり、そもそもあるはずの意味が乖離してどこかに飛んで行ってしまうという、妙な感覚に襲われる。

 

 あれ?もしかして「日向ぼっこ」じゃなくて「日向ごっこ」?

 いや、まぎれもなく「日向ぼっこ」。

 

 

*****

 

「ごっこ」は遊びだ。鬼ごっこ、電車ごっこ、お医者さんごっこ。

辞書によると「ごっこ」とは…

  1 いっしょにある動作のまねをすること、特に子供の遊びについていう。
  2 交代して同じような動作をすることにいう。ばんこ。

とある。鬼ごっこでは鬼に捕まったものが交替で鬼になる。電車ごっこでは運転手や車掌、乗客の役を代わりばんこ。お医者さんごっこは大人も大好きだ。お医者さんと患者さんが代わりばんこ・・・(そういや、「ばんこ」という言葉もなんだか不思議な音だ)

 

 

*****

 

 「日向ぼっこ」という言葉は、江戸中期の『俳風柳多留』に「日向ぼこ」が登場するのが最も古い例とされている。

               日向ぼこ  禿へ雀の  糞が落ち

日向ぼこ  膝のあたりを  犬に貸し

 

『俳風柳多留』は投稿公募作品を集めたものだけに作者不明だが、面白おかしい「日向ぼっこ」の情景が目に見えるようだ。

 

 さらに、「日向ぼっこ」の語源について調べてみると、文献上は平安時代の『今昔物語集』に登場する「日うららかにて日向誇らせむ」という一節が最古のものらしく、この「日向誇り(ひなたほこり)」が「日向ぼっこ」に変化したという説が有力らしい。

 古語における「誇り」は「得意になる」「際立つ」「満足する」といった意味になるらしく、つまり 「太陽の光を存分に浴びて、それを満足そうに楽しむ」という様子から、「日向ぼこ(り)」になったと説明されている。 「ぼっこ」自体には独立した意味はなく、

 

   「日向誇り(ひなたほこり)」⇒⇒「日向ぼこ」⇒⇒「日向ぼっこ」

 

と、ひとつの単語として音だけが変化したようだ。

 

*****


 「日向ぼっこ」は言葉が古いだけに異説もある。

 もうひとつは 「日向(ひなた)」+「火(ほ)」+「子(こ)」説。 火(ほ)は 太陽の熱や火を指し、子(こ)は 親愛の情を込めた接尾語。あるいは「〜すること」という意味らしい。つまり 「お日様の熱に当たる」という行為を親しみを込めて呼んだものが、時代とともに「ぼっこ」に変化したという説。

 

 また、出典が明らかではないが、東北方言を由来とする説もある。

 これは「日向惚け在り」が音変化したものとする説。つまり「ぼっこ」は、何も考えずぼんやりすることを指す「惚ける(ほうける)」が変化したものという説。いうなれば、陽だまりの中で「ボーッとしている状態」を指しており、東北地方などの方言で「〜ぼっこ」という言葉が使われていたことが由来とされている。実感としてはこちらの説に共感する人が多いのではなかろうか。 
 
 言葉はどのようにして磨かれてゆくのだろう。すぐに答えは見えないが、長い歴史を経て、今もなお使われている「やまとことば」にはどうしても美しさを感じてしまう。
 

*****

 

(うぐいす)

 
日陰になった枝から枝へ飛び移るのだが、最後まで全身を見せてくれなかった。囀る声はよく聞くが、姿を見たのは初めて。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログ 写真日記へ

にほんブログ村 その他日記ブログ 雑感へ

備忘録・雑記ランキング