ここ数日の学習内容を記録しておきます。

 

現在の目標は6月に行われる日商簿記2級ですが、このために中心的にやっているのは、ネットスクールやTACが発行している予想問題です。

 

とくに今回、軸にしているのは、ネットスクールのこちら。

 

 

今週はこのうち、第1予想の問題を2回解き、またその際に得点の低かった第3問をさらに2回解きました。

 

ちなみに得点は、1周めが130分で65点、2周めは129分で68点。どちらも第3問が10点以下で大いに足を引っ張っていました。

 

なお、この時点ではあくまで学習としての回答という前提で、120分を超えても最後まで答え切るようにしています。

 

来週は第2予想をスタートしながら、合間で第1予想の3周目を行う予定です。

 

この時には、第2予想の方は先と同様に多少の時間オーバーは許容することとし、得点は60点以上を目標に。

第1予想の方は、110分での回答、得点は合格基準点の1割増しである77点を目標に設定するつもりです。

 

 

自分にとっての予想問題と過去問の関係について、今考えていることを少し書いておきます。

 

まず、予想問題集を買うときの基準は、第一に「知名度の高い学校・出版社が出していること」ですが、あとは「必要なときに買えるかどうか」ぐらいのことで、「予想的中率」などはあまり考慮していません。

 

というのも、こうした予想問題では基本的に、第3予想〜第5予想ぐらいまで予想を出していて、試験が終われば「第3予想の第1問の4問目が当たった!」みたいになって、そりゃどこか当たるでしょう、みたいになるので・・。

 

なので、注目すべきは、「何が出るか」という話よりも「何が出ないか」という情報かなと思っています。

 

素朴に考えれば、直近1〜2回の試験に登場した論点で、なおかつ過去の出方を見てもそれほど頻繁には出てこない問題であれば、次の試験には出ないと考えるのが自然でしょうし、そういう見方については、おそらくどの学校(出版社)による本でも共通するところではないかと思います。

 

逆にというか、それに反する例外的な出題があったとしても、それは例外であるがゆえに事前に重視する必要はなく、それよりは多くの受験生が手堅く取ってくるような「出る可能性が高い」(少なくとも「低い」とは言えない)論点を知ることができれば、「予想問題」としての役割は充分果たしてくれるものと思っています。

 

また、上記程度の、過去と突き合わせて素朴に導出できる程度の分析であれば、自分でもできるのでは? という気もしなくはないですが、しかし第一に、受験生はそういった分析を行うプロではなく、それに比べて予備校等はまさにそういう分野のプロなので、自分でやるよりも信頼を置けること、第二に、受験生が貴重な時間をそういったことに使うのは純粋にもったいないと思えるので、その辺はサクッとプロによる成果物を購入してしまった方がいいなと。

 

一方、試験対策といえば過去問の必要性がよく言われますが、ぼくの場合は少なくとも今のところ、予想問題の方が中心であり、過去問はサブ的な位置づけになっています。

 

過去問を回転させることの意義については様々なところで言われていて、ぼくもそれには首肯するところですが、ただ、そもそも勉強できる時間の絶対量が限られているので、まずは予想問題を通して出題可能性の高い論点を認識し、その問題を何度か解いてもまだ時間があれば過去問へ、という順番を取っています。

 

ただし、過去問と予想問題とでは難易度や性質(雰囲気というか)がどうしても変わってくる印象があるので、過去問でしか得られないメリットもあると思いますし、その意味では、この方法は今後調整の余地が出てくるかなとも感じているところです。

今年で43歳になりますが、これまでの人生に一貫した悩みは、自分に自信を持てないことでした。

 

結果的には、それでも思った以上の成果を上げられたり、評価してもらえたりすることもあり、そのつど喜びを感じましたが、それらに取り組んでいるときにはいつも不安がつきまとい、「これでいいのだろうか、駄目なんじゃないだろうか」と思ってばかりでした。

 

とくに、ここぞというときに頭に浮かぶ、「失敗するイメージ」というのは手強く、なにしろ成功するイメージよりもそちらの方が具体的で、鮮やかなので、それで失敗した時はもちろんのこと、上手くいった場合でも、その時点や直前には毎回冷や汗や脂汗に体を覆われる思いをし、「ああ、自信がない、自信があればなあ・・」と思うのが常でした。

 

しかしこのところ、簿記を中心とする勉強に取り組む中で、少し考えの変わったところがあります。

 

それは第一に、自信を自分で作ったり高めたりすることなどできない、ということ。

そして、そもそも自信は目的達成のために不要である、ということです。

 

後者から説明すると、それはもちろん、自信が邪魔になるということではありません。

 

自信は目標達成の邪魔にはなりませんし、むしろ自分を大いにサポートしてくれるかもしれませんが、それでも必要不可欠な条件ではないということです。

 

上記のとおり、自分ではビクビクしながら、不安にまみれてチャレンジした結果、上手くいったという経験も少なくありません。

 

むしろ過信が失敗の原因になった、という話をよく聞くぐらいですから、少なくとも「自信があれば成功する/なければ失敗する」といった単純な因果関係は認められないでしょう。

 

前者については、人によって考えの異なるところもあるかもしれませんが、なぜそう考えたかといえば、「結局、自信とは自分に対する信頼なのだ」と思ったことによります。

 

さて、ここで言う「信頼」とは何でしょうか? これも人によって様々な定義があるかと思いますが、ぼくにとってそれは、自分から能動的・積極的に行う「主体的な行為」ではありません。

 

ぼくにとってそれは、自分の意思とは関係なく、事実に基づいて客観的に類推した結果として導き出される「予測」のようなもので、非主体的な感覚に過ぎません。

 

たとえば、誰かがぼくに対して、「Aさんがあなたの悪口を言っていたよ」と教えてくれたとしましょう。

 

そして、それを聞いたぼくが「いや、Aさんがそんなことを言うはずがない」と思ったとしましょう。

 

この時、ぼくはAさんを信頼していると言えますが、ではこれは「Aさんを信頼する」という行為を積極的に行っている状況なのでしょうか?

 

ぼくはそうは思いません。ぼくはその時、「これまでのAさんの態度や行動をすべて考え合わせた結果、そんなことを言う人だとは思えない」と判断しているのであり、言い換えれば、「そう考えざるをえない」からそう考えているわけです。

 

逆に、「たしかにAさんなら、そういうことを言うかもしれないな」と思ったとしても、それもまた「疑う」という行為をわざわざしているのではなく、「そう疑わざるをえないから疑っている」というだけのことです。

 

これらに共通するのは、いずれにしても、ぼくが能動的に判断する以前に、過去のAさんの行動や、ぼくとの間に生じたあらゆる関係・経験が、「信頼するのか、それとも疑うのか」を決定しているということです。

 

もしもそれ以前に、Aさんが他人の悪口を平気で言うような人だと思わせるような行動をたびたびとっていたなら、「今回もそれをやったのだろう」と思うでしょうし、逆に、そんな行為をまったくしない人だったら、「ちょっと信じられないな」と思うでしょう。

 

喩え話が長くなりましたが、ぼくにとって「信頼」とはそのようなもので、くり返しになりますが、それはわざわざ意識的に行う行為ではありません。

 

そして、「自信」というものが「自分に対する信頼」なのだとしたら、それもまた、わざわざ「自信を持とう」とか、「自信をつけなければ」なんて思う必要はないではないか、というのが本論の主旨です。

 

もしもぼくが、自分に自信を持てるときがあるとすれば、それはそれ以前にぼくがやってきたことが、すでに決定していることなのであって、無理にそれを持とうとする必要も、その余地もないのだろうということです。

 

逆に、もしぼくが自分に自信を持てないのだとしても、それはこれまでに自分がやってきたことが足りないだけのことであって、それを変えたいのであれば、自らの信頼に足るだけの取り組みを続ければ良い、ということです。

 

もし、取り組みが足りないままであるにもかかわらず、気持ちの部分だけで無理に「信じよう」と思っても、その思いを支える客観的な根拠がないわけですから、それは不安定なままになってしまうでしょう。

 

ゆえに自信とは、そうした客観的な根拠(過去に行った事実の積み重ね)に支えられ、自然にというか、勝手にというか、避けがたく生まれてくるものであり、それ自体を自分でコントロールすることはできない(あるいは、効率が悪い)ものだと考えているところです。

少し時間ができたのでブログを書きます。

 

元々は、このブログでは日々の勉強記録をメインに書いていこうと思っていたのでしたが、ついつい普段のクセで、こねくり回したようなことを書いてしまいます。

 

普段のクセというのは、職業が一応編集者なので、論理的な文章とか、比喩の多用とか、そういうことに気を取られてしまうということです。

 

しかしそうなると、事前にエディタで下書きを書いたり、公開後もちまちま直したりしてしまって、どんどん時間が奪われてしまうのであまり良いことがありません。

 

(文章の完成度を上げたり、読みやすいものを作ったりする面ではもちろん良いことですが、本来の目的である学力の向上とは関係ないということ)

 

ということで、今後はなるべく、勉強をしたらその記録を日々つけるよう意識しつつ、またその方策として、事前に記事の題材など考えず、直接ブラウザの編集画面に書くこと、また公開後はあまり直しすぎない、などを心がけてみたいと思います。

 

さて、そのようにして先週から本日までの学習状況について記録してみますが、まず一番近い本日について、朝から業務が入っていて、珍しく具体的な勉強が出来ていません。

 

実際には、これから解く予定の問題を整理したり、不要な書類を運び出したり、といった掃除・整理的な学習関連作業はやりましたが、学力向上につながるものではないので、スタディプラスには記録できていない状況です。

 

これまでの経験から思うのは、長時間の勉強をできるかどうか、というのは、午前が勝負です。

朝起きてから、一旦ゆっくりする前にすぐ始める。そのスタートダッシュで時間を稼げば稼ぐほど、後がラクになり、自分で定めたノルマを達成しやすくなります。

 

これは1日のうちだけで言えることではなく、1週間分の学習時間についても言えます。

スタプラの1週間の勉強量は、月曜から日曜まででカウントされますが、この月曜でどこまで稼げるかが、目標達成の可否を左右すると思っています。

 

先週は32時間の目標を掲げましたが、最終的には29時間半ぐらいで終わりました。

その前週は14時間程度でしたから、かなり目標に近づきましたが、とはいえ達成には至らず、そしてその週で足を引っ張っていたのが、まさに月曜と火曜の学習時間で、どちらも2時間台にとどまりました。

 

水曜以降は5時間以上を確保していましたので、その月曜と火曜でせめて3時間台まで行っていれば、32時間の達成は難しくなかったでしょう。

 

ということで、結果は最初に出ている。というぐらいの気持ちでスタートダッシュを頑張りたいところです。

 

同時に、今日に関してはそれができなかったこと、また実はこの後もしばらく仕事が忙しくなり、充分な時間は取れなそうなので、それを前提としつつも、上記の教訓を生かして最低でも3時間以上は行くようにやりくりしたいと思っています。

 

具体的な学習内容については触れられませんでしたが、ちょっとした記録としてはこのぐらいが上限とも思えるので、一旦ここまでにします。

 

また時間ができ次第、新たな記事を更新したいと思います。

 

 

追記:

1本のブログ作成に時間をかけすぎない方策として、もう一つ考えていたことがありました。

それは、大体の制限時間を作っておくことです。

その時間を過ぎたら、まだネタがあっても一旦ストップして仕上げてしまう。

 

そのタイムリミットを、ひとまず15分に設定しておきたいと思います。

たまたま、この記事を書く前にストップウォッチを動かしておいたので(別件に使うつもりでスタートしていました)、今それを見たら、ジャスト15分でした。

 

ということで、ここで一旦終わりにします。

このシリーズも今回で一旦完結の予定です。

 

第1回: https://ameblo.jp/note103/entry-12365533548.html

第2回: https://ameblo.jp/note103/entry-12366151394.html

 

「なぜ、手を広げてしまうのか?」という問いに対して、ああ、こういう理由もあるかなと思ったことがもう一つあったので付記しておきます。

 

通常、論点に対する理解を深めたり、得点力を上げたりするためには、テキストを精読したり、問題を解いたりする必要があるわけですが、これを行うためには貴重な時間と労力を投資する必要があり、またその過程では避けがたく痛みというか、苦しみをともなうことになると思います。

 

これはスポーツのトレーニングや楽器の練習でも同様に言えることだと思います。


もちろん、そうしたトレーニングの最中にも、ある種の楽しみや喜びを見出せることもあることは確かですが、とはいえやはり、それは娯楽や休息とは明らかに異なる行為であり、痛みのたぐいを避けることはできないだろうと思われます。

 

一方、「新しい教材を買う」という行為は、お金の支出をともなう行為なので、上記のような「痛み」にどこか似ている気がします。

 

これはあくまで、自分自身がそうしているときを振り返って思うことですが、もしかすると、ぼくは勉強が本来的に持っている「痛み」や「苦しみ」を味わうことの代替行為として、教材にお金を出し、「これだけの痛みを味わったのだから、得点力も上がるだろう」みたいなことを無意識レベルで考えているのではないか、と思いました。

 

これを複式簿記風に表現してみると、たとえば通常の学習が以下のようだとすると、

(学力)10ポイント / (勉強)1時間

※勉強に1時間費やすと、学力が10ポイント上がる

新しい教材を購入しているときは、以下のような心境かなと。

(学力)10ポイント / (現金)1,000円

※1,000円の教材を購入すると、学力が10ポイント上がる

まあ何というか、「カネで解決」みたいな感じでしょうか。

 

たしかに、手元の現金を得るためにも大変な思いをして働いたりしているわけなので、めぐりめぐって、こうした行為も「努力と引き換えに学力を上げている」と言えなくもないかもしれませんが、とはいえやはり、「錯覚」であることにも変わりはないでしょう。

 

なにしろ、その後者で借方に挙がっている「学力」について、教材を購入しているぼくの実感としてはそこを「学力」としたいわけですが、実際に入手できたのは「教材」に過ぎないわけなので・・。

 

仕訳を修正すると、こんな感じでしょうか。

(学力)10ポイント / (現金)1,000円 ※希望

(教材)1冊 / (学力)10ポイント ※修正

(教材)1冊 / (現金)1,000円 ※現実

ついつい、「お金」という大事な資産と引き換えに、「学力」という新たな資産を手に入れられそうな錯覚に陥ってしまうわけですが、実際には、お金で買えるのは物質としての「教材」であって、行為としての「勉強」は買えません。

 

これについて考えているときに、ふと思い浮かべたイメージがあって、それは「どこか遠くへ行こうと思って車を買ったけど、まだ免許を持ってなかった」というものでした。

 

どこかへ行くために車はたしかに有用ですが、実際にどこかへ行くためには、その車を運転する人が必要なわけですね。

 

それと同様に、教材はたしかに学力を上げるために必要なわけですが、実際に学力を上げるためには、それを使って勉強する時間や労力が不可欠なのだよな・・と。

 

 

さて、「なぜ、手を広げてしまうのか?」といった理由に関する考察は以上です。

 

ここからは、つい手を広げたくなってしまう行為について、「こういう行為に似ているなあ」と思ったことがいくつかあったので、それをメモしておきたいと思います。

 

まず「似てるなあ」と思ったのはビュッフェ形式の食事ですね。

ついつい、あれもこれもと皿に取ってしまって、食べきれない。あるいは、無理に食べる。みたいな。

 

あとは、登山でもハイキングでもいいのですが、どこかに行って、帰ってくるまでの道のりについても似た感じを覚えました。

たとえば、3時間後までに帰ってこなければいけないとしたら、引き返す時間も考慮すると、最大でも1時間半後には引き返さなければいけないわけですが、それを忘れて2時間ぐらい「行き」の道を進んでしまうと、帰ってくる頃にはタイムリミットを過ぎています。

 

あるいは、これはもうほとんど喩え話ではなく、そのまま同じような話ですが、読む時間もないのにどんどん本を買ってしまうとか。

 

こうして考えてみると、「手を広げてしまう」というのはもう、ほとんど人間の本能のようなもので、やってしまう方が自然というか、そうしないようにする方が不自然という気もしてきます。

 

しかし同時に、本当に自然なままやりたいように生きていたら、勉強なんていつまでもしないわけなので、不自然であろうと、目的達成のために効率的な学習方法をつねに考え続ける必要があるのでしょう。

 

 

最後にもう一つ、「手を広げてしまう」ことから連想したイメージがあったので、それを書いて終わりたいと思います。

 

どんどん手を広げてしまう、というのは、ホースのクチをどんどん大きくしていくことに似ていると感じます。

 

ホースのクチが大きければ、大量の水を一気に放出することができますが、実際には、大量の水を放出するには大量の水も必要なわけで、もしも水の量が限られているなら、その水を勢いよく出すためには、むしろクチを小さくしなければなりません。

 

勉強法のセオリーとして、「手を広げてはいけない」と言われるのは、ようはこのホースのクチを小さくしろ、ということなのではないかと思っているところです。

前回の話の続きです。

https://ameblo.jp/note103/entry-12365533548.html

もしかすると、「手を広げる」の定義をきちんとしておいた方がいいのかな、とも思いつつありますが、ひとまず細かいことは脇へ置いておきまして・・。

前回は「なぜ手を広げてしまうのか?」という問いに対し、考えられる理由をいろいろと挙げてみましたが、触れそびれたトピックがいくつかあったので、その辺りを補足しておきたいと思います。

まず前回書いていなかったこととして、「出題範囲をすべて網羅しなければ不安になってしまう」ということがけっこう大きいかなと思っています。

たとえば、いくつか過去問を解いていくうちに、自分の苦手な論点がわかってくるわけですが、でも手元の教材ではその論点に関する説明がほとんど載ってない、とか。

あるいは、得手不得手にかかわらず、どんなマイナーな論点でも全部押さえておかないと気がすまない、とか。

たとえば10冊の教材を買ったとしても、べつにその全冊の全ページを読むつもりではなくて、それぞれの教材で抜けた論点(あるいは説明の薄い論点)を、別の教材で埋めたい、というような。
1冊ですべてをカバーするのではなく、複数の教材で全体をカバーできればいい、そのためにたくさん買っておく、というような。

そしてじつのところ、こうした理由による教材の買い込みは、そんなに悪いことではないのではないか、とも思います。

結局、いろいろ手を出すことの問題というのは、回転数を減らしてしまう点にあるわけなので、参照先を盤石にする目的でたくさん買う、というのであれば(購入した教材を全部消化する前提ではなく)、まあいいのかなと。



もう一つ、これも「つい手を広げてしまう」理由の一つとして大きいかなと思うのは、「以前に間違えた問題に再会したくない」というものです。

新しい教材を買い込んでしまうというのは、たしかに「新しい知識を取り込みたい」ということでもあるとは思いますが、じつは同時に、「既存の教材から離れたい、もう以前にやったそれを見たくない」という気持ちのあらわれであるようにも思えます。

それは前回も少し書いた、「退屈したくない」ということでもあると思いますが、個人的に身に覚えがあるのは、「以前に間違えた問題にまた遭遇して、その問題に間違えた馬鹿な自分を目の前に突きつけられることに耐えられない」という感覚です。

間違えたことを認めたくないというか、一刻も早く忘れたいというか・・そうやってそこから逃げる過程として、「新しい問題(教材)」をどんどん求めてしまう、ということがあるのかな、と。

わかりづらい教科書の解説を読んだ後に、「もっと他の教科書の説明も読んでみたい」と思うのはけっして悪いことではないと思いますが、練習問題などに間違えるのは、普通は問題(作問)のせいではなく、自分のせいですから、それを避けるために新たな(初見の)問題に出会っていくというのでは解決になっていません。

いずれにしても、「なぜ手を広げたくなるのか?」という原因の大元を探っていかないことには、ただ対症療法的に「やってはいけない」とその行為を禁止するだけになってしまって、精神的にも窮屈なので、「なぜやってはいけないのか? どういう問題があるのか?」といった根本を考えながら、効率的に対処していきたいと考えています。