このシリーズも今回で一旦完結の予定です。
第1回: https://ameblo.jp/note103/entry-12365533548.html
第2回: https://ameblo.jp/note103/entry-12366151394.html
「なぜ、手を広げてしまうのか?」という問いに対して、ああ、こういう理由もあるかなと思ったことがもう一つあったので付記しておきます。
通常、論点に対する理解を深めたり、得点力を上げたりするためには、テキストを精読したり、問題を解いたりする必要があるわけですが、これを行うためには貴重な時間と労力を投資する必要があり、またその過程では避けがたく痛みというか、苦しみをともなうことになると思います。
これはスポーツのトレーニングや楽器の練習でも同様に言えることだと思います。
もちろん、そうしたトレーニングの最中にも、ある種の楽しみや喜びを見出せることもあることは確かですが、とはいえやはり、それは娯楽や休息とは明らかに異なる行為であり、痛みのたぐいを避けることはできないだろうと思われます。
一方、「新しい教材を買う」という行為は、お金の支出をともなう行為なので、上記のような「痛み」にどこか似ている気がします。
これはあくまで、自分自身がそうしているときを振り返って思うことですが、もしかすると、ぼくは勉強が本来的に持っている「痛み」や「苦しみ」を味わうことの代替行為として、教材にお金を出し、「これだけの痛みを味わったのだから、得点力も上がるだろう」みたいなことを無意識レベルで考えているのではないか、と思いました。
これを複式簿記風に表現してみると、たとえば通常の学習が以下のようだとすると、
(学力)10ポイント / (勉強)1時間
※勉強に1時間費やすと、学力が10ポイント上がる
新しい教材を購入しているときは、以下のような心境かなと。
(学力)10ポイント / (現金)1,000円
※1,000円の教材を購入すると、学力が10ポイント上がる
まあ何というか、「カネで解決」みたいな感じでしょうか。
たしかに、手元の現金を得るためにも大変な思いをして働いたりしているわけなので、めぐりめぐって、こうした行為も「努力と引き換えに学力を上げている」と言えなくもないかもしれませんが、とはいえやはり、「錯覚」であることにも変わりはないでしょう。
なにしろ、その後者で借方に挙がっている「学力」について、教材を購入しているぼくの実感としてはそこを「学力」としたいわけですが、実際に入手できたのは「教材」に過ぎないわけなので・・。
仕訳を修正すると、こんな感じでしょうか。
(学力)10ポイント / (現金)1,000円 ※希望
(教材)1冊 / (学力)10ポイント ※修正
↓
(教材)1冊 / (現金)1,000円 ※現実
ついつい、「お金」という大事な資産と引き換えに、「学力」という新たな資産を手に入れられそうな錯覚に陥ってしまうわけですが、実際には、お金で買えるのは物質としての「教材」であって、行為としての「勉強」は買えません。
これについて考えているときに、ふと思い浮かべたイメージがあって、それは「どこか遠くへ行こうと思って車を買ったけど、まだ免許を持ってなかった」というものでした。
どこかへ行くために車はたしかに有用ですが、実際にどこかへ行くためには、その車を運転する人が必要なわけですね。
それと同様に、教材はたしかに学力を上げるために必要なわけですが、実際に学力を上げるためには、それを使って勉強する時間や労力が不可欠なのだよな・・と。
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さて、「なぜ、手を広げてしまうのか?」といった理由に関する考察は以上です。
ここからは、つい手を広げたくなってしまう行為について、「こういう行為に似ているなあ」と思ったことがいくつかあったので、それをメモしておきたいと思います。
まず「似てるなあ」と思ったのはビュッフェ形式の食事ですね。
ついつい、あれもこれもと皿に取ってしまって、食べきれない。あるいは、無理に食べる。みたいな。
あとは、登山でもハイキングでもいいのですが、どこかに行って、帰ってくるまでの道のりについても似た感じを覚えました。
たとえば、3時間後までに帰ってこなければいけないとしたら、引き返す時間も考慮すると、最大でも1時間半後には引き返さなければいけないわけですが、それを忘れて2時間ぐらい「行き」の道を進んでしまうと、帰ってくる頃にはタイムリミットを過ぎています。
あるいは、これはもうほとんど喩え話ではなく、そのまま同じような話ですが、読む時間もないのにどんどん本を買ってしまうとか。
こうして考えてみると、「手を広げてしまう」というのはもう、ほとんど人間の本能のようなもので、やってしまう方が自然というか、そうしないようにする方が不自然という気もしてきます。
しかし同時に、本当に自然なままやりたいように生きていたら、勉強なんていつまでもしないわけなので、不自然であろうと、目的達成のために効率的な学習方法をつねに考え続ける必要があるのでしょう。
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最後にもう一つ、「手を広げてしまう」ことから連想したイメージがあったので、それを書いて終わりたいと思います。
どんどん手を広げてしまう、というのは、ホースのクチをどんどん大きくしていくことに似ていると感じます。
ホースのクチが大きければ、大量の水を一気に放出することができますが、実際には、大量の水を放出するには大量の水も必要なわけで、もしも水の量が限られているなら、その水を勢いよく出すためには、むしろクチを小さくしなければなりません。
勉強法のセオリーとして、「手を広げてはいけない」と言われるのは、ようはこのホースのクチを小さくしろ、ということなのではないかと思っているところです。