前回の話の続きです。
https://ameblo.jp/note103/entry-12365533548.html
もしかすると、「手を広げる」の定義をきちんとしておいた方がいいのかな、とも思いつつありますが、ひとまず細かいことは脇へ置いておきまして・・。
前回は「なぜ手を広げてしまうのか?」という問いに対し、考えられる理由をいろいろと挙げてみましたが、触れそびれたトピックがいくつかあったので、その辺りを補足しておきたいと思います。
まず前回書いていなかったこととして、「出題範囲をすべて網羅しなければ不安になってしまう」ということがけっこう大きいかなと思っています。
たとえば、いくつか過去問を解いていくうちに、自分の苦手な論点がわかってくるわけですが、でも手元の教材ではその論点に関する説明がほとんど載ってない、とか。
あるいは、得手不得手にかかわらず、どんなマイナーな論点でも全部押さえておかないと気がすまない、とか。
たとえば10冊の教材を買ったとしても、べつにその全冊の全ページを読むつもりではなくて、それぞれの教材で抜けた論点(あるいは説明の薄い論点)を、別の教材で埋めたい、というような。
1冊ですべてをカバーするのではなく、複数の教材で全体をカバーできればいい、そのためにたくさん買っておく、というような。
そしてじつのところ、こうした理由による教材の買い込みは、そんなに悪いことではないのではないか、とも思います。
結局、いろいろ手を出すことの問題というのは、回転数を減らしてしまう点にあるわけなので、参照先を盤石にする目的でたくさん買う、というのであれば(購入した教材を全部消化する前提ではなく)、まあいいのかなと。
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もう一つ、これも「つい手を広げてしまう」理由の一つとして大きいかなと思うのは、「以前に間違えた問題に再会したくない」というものです。
新しい教材を買い込んでしまうというのは、たしかに「新しい知識を取り込みたい」ということでもあるとは思いますが、じつは同時に、「既存の教材から離れたい、もう以前にやったそれを見たくない」という気持ちのあらわれであるようにも思えます。
それは前回も少し書いた、「退屈したくない」ということでもあると思いますが、個人的に身に覚えがあるのは、「以前に間違えた問題にまた遭遇して、その問題に間違えた馬鹿な自分を目の前に突きつけられることに耐えられない」という感覚です。
間違えたことを認めたくないというか、一刻も早く忘れたいというか・・そうやってそこから逃げる過程として、「新しい問題(教材)」をどんどん求めてしまう、ということがあるのかな、と。
わかりづらい教科書の解説を読んだ後に、「もっと他の教科書の説明も読んでみたい」と思うのはけっして悪いことではないと思いますが、練習問題などに間違えるのは、普通は問題(作問)のせいではなく、自分のせいですから、それを避けるために新たな(初見の)問題に出会っていくというのでは解決になっていません。
いずれにしても、「なぜ手を広げたくなるのか?」という原因の大元を探っていかないことには、ただ対症療法的に「やってはいけない」とその行為を禁止するだけになってしまって、精神的にも窮屈なので、「なぜやってはいけないのか? どういう問題があるのか?」といった根本を考えながら、効率的に対処していきたいと考えています。