今年で43歳になりますが、これまでの人生に一貫した悩みは、自分に自信を持てないことでした。

 

結果的には、それでも思った以上の成果を上げられたり、評価してもらえたりすることもあり、そのつど喜びを感じましたが、それらに取り組んでいるときにはいつも不安がつきまとい、「これでいいのだろうか、駄目なんじゃないだろうか」と思ってばかりでした。

 

とくに、ここぞというときに頭に浮かぶ、「失敗するイメージ」というのは手強く、なにしろ成功するイメージよりもそちらの方が具体的で、鮮やかなので、それで失敗した時はもちろんのこと、上手くいった場合でも、その時点や直前には毎回冷や汗や脂汗に体を覆われる思いをし、「ああ、自信がない、自信があればなあ・・」と思うのが常でした。

 

しかしこのところ、簿記を中心とする勉強に取り組む中で、少し考えの変わったところがあります。

 

それは第一に、自信を自分で作ったり高めたりすることなどできない、ということ。

そして、そもそも自信は目的達成のために不要である、ということです。

 

後者から説明すると、それはもちろん、自信が邪魔になるということではありません。

 

自信は目標達成の邪魔にはなりませんし、むしろ自分を大いにサポートしてくれるかもしれませんが、それでも必要不可欠な条件ではないということです。

 

上記のとおり、自分ではビクビクしながら、不安にまみれてチャレンジした結果、上手くいったという経験も少なくありません。

 

むしろ過信が失敗の原因になった、という話をよく聞くぐらいですから、少なくとも「自信があれば成功する/なければ失敗する」といった単純な因果関係は認められないでしょう。

 

前者については、人によって考えの異なるところもあるかもしれませんが、なぜそう考えたかといえば、「結局、自信とは自分に対する信頼なのだ」と思ったことによります。

 

さて、ここで言う「信頼」とは何でしょうか? これも人によって様々な定義があるかと思いますが、ぼくにとってそれは、自分から能動的・積極的に行う「主体的な行為」ではありません。

 

ぼくにとってそれは、自分の意思とは関係なく、事実に基づいて客観的に類推した結果として導き出される「予測」のようなもので、非主体的な感覚に過ぎません。

 

たとえば、誰かがぼくに対して、「Aさんがあなたの悪口を言っていたよ」と教えてくれたとしましょう。

 

そして、それを聞いたぼくが「いや、Aさんがそんなことを言うはずがない」と思ったとしましょう。

 

この時、ぼくはAさんを信頼していると言えますが、ではこれは「Aさんを信頼する」という行為を積極的に行っている状況なのでしょうか?

 

ぼくはそうは思いません。ぼくはその時、「これまでのAさんの態度や行動をすべて考え合わせた結果、そんなことを言う人だとは思えない」と判断しているのであり、言い換えれば、「そう考えざるをえない」からそう考えているわけです。

 

逆に、「たしかにAさんなら、そういうことを言うかもしれないな」と思ったとしても、それもまた「疑う」という行為をわざわざしているのではなく、「そう疑わざるをえないから疑っている」というだけのことです。

 

これらに共通するのは、いずれにしても、ぼくが能動的に判断する以前に、過去のAさんの行動や、ぼくとの間に生じたあらゆる関係・経験が、「信頼するのか、それとも疑うのか」を決定しているということです。

 

もしもそれ以前に、Aさんが他人の悪口を平気で言うような人だと思わせるような行動をたびたびとっていたなら、「今回もそれをやったのだろう」と思うでしょうし、逆に、そんな行為をまったくしない人だったら、「ちょっと信じられないな」と思うでしょう。

 

喩え話が長くなりましたが、ぼくにとって「信頼」とはそのようなもので、くり返しになりますが、それはわざわざ意識的に行う行為ではありません。

 

そして、「自信」というものが「自分に対する信頼」なのだとしたら、それもまた、わざわざ「自信を持とう」とか、「自信をつけなければ」なんて思う必要はないではないか、というのが本論の主旨です。

 

もしもぼくが、自分に自信を持てるときがあるとすれば、それはそれ以前にぼくがやってきたことが、すでに決定していることなのであって、無理にそれを持とうとする必要も、その余地もないのだろうということです。

 

逆に、もしぼくが自分に自信を持てないのだとしても、それはこれまでに自分がやってきたことが足りないだけのことであって、それを変えたいのであれば、自らの信頼に足るだけの取り組みを続ければ良い、ということです。

 

もし、取り組みが足りないままであるにもかかわらず、気持ちの部分だけで無理に「信じよう」と思っても、その思いを支える客観的な根拠がないわけですから、それは不安定なままになってしまうでしょう。

 

ゆえに自信とは、そうした客観的な根拠(過去に行った事実の積み重ね)に支えられ、自然にというか、勝手にというか、避けがたく生まれてくるものであり、それ自体を自分でコントロールすることはできない(あるいは、効率が悪い)ものだと考えているところです。