シベリア強制抑留 望郷の叫び 一二三
※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。
終戦のとき、四十九歳であった高良とみが、ハバロフスクの強制収容所で被収容者と出会うまでの軌跡を戦後の動乱の社会を背景にして、ごく大雑把に見ることにする。
昭和二十年八月六日広島に、次いで九日長崎に原爆が投下された。そして、八月八被、ソ連は日ソ中立条約を無視して満州に侵入。このような流れの中で、日本はポツダム宣言の受諾を決定し、八月十五日天皇のラジオ放送で戦闘は停止された。
さて、満州を守る関東軍は終戦に近づく頃は、その主要な部分は、南方の備えに回され、形だけのものになっていた。ほとんど戦う力もない状態のところへ、ソ連軍は、怒濤のような勢いで攻め込み、日本軍は武装解除され、約六十万人の兵士は、シベリアを中心としたソ連各地の収容所に連れ去られていった。祖国日本へ向けて、各地から兵士の引き揚げが始まる頃、日本とは逆方向への強制的な連行が始まり、その先には、新たな、より過酷な「戦い」が待ち受けていたのである。ソ連への強制抑留は、昭和二十年八月から始まった。
このころ、日本国内では歴史上かつてない大きな変化があった。
昭和二十一年に日本国憲法が公布され、その下で行われた参議院選で、高良とみ初当選したとき、彼女は五十一歳だった。戦後、初めての婦人参政権が認められたことの成果であり、男女平等の大きな前進として、日本の歴史の上でまさに、画期的なことであった。
高良とみの動きが注目を集めるのは、国交のないソ連に日本人として初めて、ましてや国会議員として初めて、鉄のカーテンをくぐって入ったからである。米ソ対立の冷戦下その勇気ある大胆な行動は、日本ばかりでなくアメリカをも脅かす世界的なニュースとなった。
出発は、昭和二十七年三月であるが、高良とみは旅券法違反で逮捕されることを覚悟して出国した。これは、アメリカとの間の関係に神経を使う、時の吉田政権が高良とみのソ連訪問に強く反対して、ソ連へのパスポートの発行を認めなかったからである。
前年の昭和二十六年、ソ連などを除いて、アメリカを中心とした国々との間で平和条約を結び、その発効が昭和二十七年四月であり。高良とみの出発は、その直前の三月ということで、首相吉田茂はアメリカとの外交関係に影響することを恐れていたのである。
つづく