シベリア強制抑留 望郷の叫び 一二四 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一二四

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 高良とみはパリのユネスコ会議に出席し(パリ行きのパスポートは取得していた)、ヘルシンキを経てモスクワの国際経済会議に出席した。ソ連はパスポートのない彼女を受け入れたのである。

 モスクワ国際経済会議での高良とみの出番は、昭和二十七年四月九日だった。着物姿で行った約四十五分間の英語のスピーチは、会場が割れんばかりの拍手を得た。その様子は、モスクワ放送で報じられた。そしてその後、グロムイコ外務次官からの連絡を受け、会うことができた。

 ここでは、抑留されている日本人捕虜の収容場所、人数、志望者の名簿の公開、墓参、現在収容されている人々との面会などについて、長時間にわたって話すことができた。

 経済会議でのスピーチの素晴らしい反響や日本の政府から批判されている国会議員であること、そして、実際に会ってみて彼女の真摯な態度に動かされたことなどからグロムイコは、ハバロフスクの収容所を訪問することを特別に許可したものと思われる。許可した上で、都合の悪いことは見せないように中央から指示したのであろう。かくして、演出された収容所の一部を高良とみに見せることになったのである。しかし、それにもかかわらず高良とみのハバロフスク収容所訪問の意義は大きい。

 野党の国会議員でもこれだけのことができた。それを可能にした主な要因は、逮捕の危険までも冒して実行した高良とみの勇気と信念と行動力である。もちろん、野党の国会議員だからこそできたということもいえよう。しかし、それにしても高良とみの行動は、日本の国会議員として、なし得ることがあることを証明したことになる。冷戦構造の中にあって、いかに政治の壁が厚く高かったとしても、なし得ることをぎりぎりまで努力しなかったことに対する政府や与党国会議員への批判は免れない。その後社会党議員団のハバロフスク収容所訪問が行われたことがあった。結局、昭和三十年に首相鳩山一郎が日ソ交渉をなし遂げて抑留者全員の帰国を実現させるわけであるが、祖国を思う同胞の苦しみを思えば、その間、政府与党はなぜもっと必死の行動をとらなかったか理解に苦しむのである。

 

つづく