死の川を越えて 第224回
※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。
「実は、この中村実平さん、最近の世相を非常に心配しています。最近の手紙では、草津の療養所についても油断すると大変なことが起きると心配してくれています。また、本妙寺ではこれから先、何が起こるか分からないと大きな不安を訴えているのです」
「先生、今日は何か特別の用ですか」
「いや呼び立てて済みません。若い君と語り合いたくなったのです。何もないが一杯やりましょう。実はここに、熊本の地酒があります。昔は若者も哲也で天下国家を論じたものです」
水野はそう言って、机の下から取り出した杯に酒を注いで勧めた。
「九州帝大の学生になった気分です」
「ありがとう。先ほど申した通り、大学はキャンパスと限りません。湯の川は素晴らしい生きた大学なのです。それが分かったことが世を捨てたつもりの私が得た最大の収穫です。さあ、一献。ぐっと」
「先生は、肥後もっこすとおっしゃいました」
「はは、つむじ曲がりの意地っ張りです。土佐はいごっそうです。上州は何ですか」
「特に思いつきません。歴史が貧しいということですか。俺たちは薄っぺらなのでしょうか」
「はは、ひがむな若者よ。適切な言葉がないだけです。この辺り、下には熱い溶岩があります。君らはそれに育てられた。浅間、白根、榛名、皆生きていますよ。君の心にも溶岩があるはずです。まあ、一献」
「はい、一献。今度は俺が注ぎます。ところで先生、天明の大噴火の時、上州は熊本藩に助けられたそうです。熊本は恩人です。先生は恩人の子孫です」
「は、は。よく言ってくれました。熊本も日の国です。お互い、火の国の縁。もっこすは、この火に鍛えられたもの。君ももっこすですよ。さあ一献」
「先生、待ってください。少し早すぎます」
つづく
死の川を越えて 第223回
※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。
「俺は、韓国の反日運動を思い出しましたよ」
「そうでしょうな。あのような大集会はこれから難しくなるでしょう。戦争が近づいている大変な時にお前たちは何だという世論が起きますからな。そういう中で、ぎりぎり、どうやってこの湯の川を守っていくか、私たちの人権を守るための闘いをどう続けるか、これが問題なのです」
「日本は地獄に向かっているのでしょうか」
「正直、私には分かりません。人間、謙虚さを失うと正しくものは見えなくなりますね。この湯の川にいると、それがよく分かる気がします。生生塾で、私の教え子が関東軍の中にいて、満州国の建国を身近に見た話をしました。覚えていますか。九州大学の時の生徒です。最近、彼から手紙が来ました」
そう言って水野は、封書を手に取った。
「彼は、摂政薄儀を近くで見て寂しそうだ、それと比べて日本の官僚は傲慢だ、と書いています。彼が見ているのは、操り人形なのですよ。満州国の建国、中国への侵略は、謙虚さを忘れた日本人の姿ではありませんか」
「万場老人も同じことを言っています。そういう国の方向は、俺たちにどう関わるのですか」
「じわりじわりですよ。万場先生が言っておられるように、戦いに向かうには内を固めなければならないというのでハンセン病患者を取り上げ、学生に話したことがあります。人権の授業の教材でした。学生と一緒に本妙寺の集落に入って調べました。その時、知り合いになれた人がいます。立派な人物で、中村実平さんといって、集落の指導者でした。その後、私が発病したこともあって、この人とは一層親しくなりましてな、今も緊密な関係です。実は私が湯の川に来たのはこの人の勧めでした」
「本妙寺にそのような集落があるのですか」
正助は初めて聞く水野法学士の話に驚くばかりであった。
つづく
「旭山動物園職員の事件の衝撃。野性動物の命の輝きを思う。入園者はどう変化するか」
◇人の命を軽視する事件が多発している。日本人の倫理観、人権意識がおかしくなっていることと関係するのかと考えさせられる。そんな情況の中で旭山動物園の職員が逮捕された。妻の遺体焼却、損壊容疑の文字が躍る。またかという思いが湧く。第一に気に掛かるのは旭山動物園の倫理的特色である。
朝日山動物園は1967年、日本最北の動物園として設立された。この動物園のテーマは「伝えるのは命」である。野性動物の命の輝きを展示する「行動展示」を具体化しようとするものだ。それは動物の自然な行動を引き出そうとする点に特色がある。動物が本来持つ能力や行動を引き出そうとするのがその「行動展示」の目的である。円柱水槽を泳ぐアザラシ、空を飛ぶようなペンギン、迫力ある猛獣の姿など、命の躍動を間近に感じられる試みが最大の特徴である。しかし、野性動物本来の命の輝きを展示することは容易ではない。「命の輝き」を実現するには人間がつくった箱庭のような環境では所詮無理なことである。野性動物の命の輝きは動物愛護をベースにするものでなければならない。「命の輝き」は自由を拘束しては実現不可能である。理想的な野性動物の命の輝きは日本のような狭い国土では無理に近い。アフリカの広大な原野で野性動物が自由に走り回る姿こそ命の輝きである。
旭山動物園は、命の輝きを、無理を承知で精一杯実現しようと試みているものである。職員・鈴木達也容疑者の今回の逮捕事件は低い次元で命の輝きを砕いて泥にまみれさせるものである。いかにも情けない。旭山動物園の職員として先ず求められるのはその創立の精神である。妻の遺体を焼却炉に運び燃やして遺棄した。容疑者は殺害までほのめかしているという。道警が焼却炉を調べたところ遺体の一部が見つかった。焼却炉は死んだ動物の焼却のために使われていた。犯人は人間の遺体を死んだ動物と同じように扱っていたことになる。旭川市によれば、動物園は5月1日まで営業を延期したという。旭川動物園の一日の入園者数は、夏季の土日祝日には1万人を超える日が多く、ゴールデンウィークなどには3万人に達することもあるという。今回の衝撃の事件によって入園者はどう変化するか興味が持たれる。また、入園者は動物を見ながら、それぞれ今回の事件について思いを巡らすに違いない。それぞれ人間としての倫理観について複雑な心理に駆られるのではなかろうか。(読者に感謝)