かくして空海は最澄を苛烈な言葉で拒絶するに至ったわけですが……。
さて。
空海と最澄のどちらが好きですか?
司馬遼太郎さんの『空海の風景』は、多分5~6回は読み返したと思います。
最初読んだときは、「最澄最悪」と思いました。
これははっきり覚えてる。
「密教は経典から学ぶものじゃない」とはっきり言われてるのに、なぜそこを理解しないんだろうと。
二度目に読んだときは、「空海ちょっとひどい」と思いました。
年上であり、目上でもある最澄に対して、いくら腹をたてたとはいえ、ちょっと侮蔑的すぎる扱いじゃないかと。
多分、読み返すたびに感想は違ったように思います。
人間が二人いて、お互いの気持ちがガッチリ通じ合うなんてことはあるでしょうか?
「だいたい理解できる」のが関の山じゃないかな。
うちの夫婦は結婚27年。
出会って5ヶ月で結婚してますから、出会ってから28年経ってません。
それでも、会った瞬間に「あ、私はこの人と結婚する」という確信めいたものがあった相手です。
それまで出会ってきた人たちとは、全然違いました。
お見合いじゃないんですよ?
オフ会で会っただけの相手に「この人と結婚する」と思ったんですから、よほど何か通じ合うものがあったんです。
だから、
「ほら、あのときのあれがさぁ」
でも結構通じる(笑)
それでも、私が考えてることの6割くらいしか旦那には伝わってないと思うし、旦那が考えてることの4割くらいしか、私にはわかりません。なんせ旦那はアホほどIQが高いのでね(^^ゞ
なぜ100%理解し合えないのかというと、それは
・経験
・前提
・言葉の定義
・学んできたものもろもろが違うからだと思う。
最澄と空海は、まったく話が噛み合ってなかったわけですよね。
それは、顕教と密教というまったく違う世界に生きてきたゆえで、どっちが悪いわけでもないような気がするんです。
最澄は、
「とにかく密教の経典を貸してほしい。そのためならどんなにへりくだってもいいし、バカにされてもいい」
と考えていた。
それは、経典から学ぶことしか頭にありない人間としては、とても謙虚だし、好感が持てる態度ですよね。
でも、密教は経典で学ぶものじゃない。
体感しなければ密教じゃないという前提があります。
最澄はその前提をまったく理解できてない。
しかし空海は、渡唐以前からそれを知っていた。
むしろ、そういう密教だからこそ求めたのかもしれません。
ならば、最澄の「経典を」にこだわる態度は、愚の骨頂だったかもしれない。
当初空海は、経典を貸し与えながらも、
「しかし密教を本当に修めたいのであれば、私の元にきて、修行を積んでいただかなければなりませんよ」
と説明していました(司馬さん曰く)。
誠実で、親切な態度ですよね?
しかしいつまで経っても「経典を」ばかりなのに空海はいらだち始めます。
「何度も言いますけどね~(とは言わなかっただろうけど)、密教は経典から学ぶもんじゃないんですよ!!!!!」
……でも通じない。
その後、ペーペーの弟子にしたのも、「言ってわからにゃ、行動でわからせるしかねぇな」ということだったのだと考えれば、空海の行動は理解できます。
でも最澄は理解しない。
あくまでも経典を読みたがる。
空海ブチ切れ。
なんと見事なすれ違い。
最澄が顕教に染まり切ってなければ、途中で空海の言うことを理解できたかもしれないと考えると、本当にあまりにもむなしいすれ違いな気がします。
さて。
あなたなら、最澄と空海、どちらを支持しますか?
私は……ということで、先日、観心寺で体験してきた、阿字観と写経の話しを明日に。
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