もし、不謹慎だったらごめんなさい。
まだSNSがなく、掲示板がネット上の交流の場だったとき、神社仲間が亡くなりました。
彼の掲示板に、「友人」を名乗る人が「彼は亡くなりました。理由は不明」と書き込んだのでわかったのですが、私はそれを信じ込む気はしませんでした。
いやがらせだったら最悪だし、様子を見よう……と思っていたら、それに対するレスの形でお悔やみがズラズラと並び、ものすごく胸糞悪く感じてしまったんです。
人の生死に関することなのに、もう少し慎重になれよ……と。
あまりにも簡単に信じ込んだ人たちは、慇懃なお悔やみの言葉とは裏腹に、彼の死(死が事実だとしたら)をまったく悼んでいないように感じました。
ただ、「友人」を名乗る人はメールアドレスを入力していましたので、嘘か本当か確かめることはできます。
そこで、
「お線香をあげにいきたいから」
と、彼の家がどこにあるのかメールで聞いたんです。
もし嘘ならば、それでわかると思ったので。
そうしたら丁寧な返事が届き、彼の家の住所や電話番号、家族構成などが書かれていたので、信じざるをえませんでした。
「お線香をあげにきてくださったら、彼も喜ぶと思います」
と、お礼の言葉もあったので、今更、
「信じられなかったので試すために書いた」
とも言えず、彼の家に電話をして、お線香をあげにいきたい旨を伝えました。
すると、
「遺品の中に、お守りのたぐいがある。ご迷惑とは思うが、神社などで焚き上げていただくことはできないか」
と相談されたので、懇意の神社に聞いてみたら、
「持ってきたらいいですよ」
とのこと。
私が一旦預かることになりました。
が。
なんとなく気鬱だったんです。
亡くなった人の想いが籠ったお守り類を、私が一時保管するということに、プレッシャーを感じました。
家の中に、彼の思いを持ち込んでしまうんじゃないかという、言葉にはしづらい恐れがあった。
でも、約束してしまったものを反故にもできないし、とりあえず線香をあげにいったんです。
そして遺影を見ました。
生前に会ったことはなかったけど、なんとなく想像していた通りの、柔和そうな、少し気弱そうな顔でした。
そしてそれを見た途端、私の中の恐怖が消えたんです。
多分、故人が、私の中で「知っている人」になったからだと思います。
彼に向って、「お預かりしますね」と伝えたら、私の中でもちゃんと折り合いがついた。
知らないということは、恐怖を無駄に大きくする。
だから、怖いのなら、ちゃんと知るのが建設的だと思うのです。
それはなんでもそう。
人は怖いと逃げたくなる。
そこをちょっとだけ我慢して、10秒間だけ立ち止まり、「怖い」と思うものを観察してみる。
「本当に怖がらなくちゃいけないもの?」と、自分の恐れを疑ってみる。
それだけで、ずいぶん生きやすくなるんじゃないかな。
10秒間。
たった10秒間で、恐れが消えることも少なくない。
経験的に、そう思います。
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