鉄砲鍛冶屋敷を目的に、堺をウロウロしてきました。
資料館として開放されたとニュースで見て、気になってたんです。
仁徳天皇陵の造営に鉄製品が使われており、堺と鉄の関わりは、少なくとも古墳時代までは遡れます。
鉄砲は種子島に伝来したと歴史の授業で習いましたが、具体的にどう伝来したのかまでは教わりません。
実は種子島の島主であった種子島時堯がその製造法込二千両で買い取ったのだそうです。
ただし、伝説では、製造法を知るために、時堯は娘を差し出したともされます。
彼はただ、狩猟生活を便利にしたいと考えただけだったようですが、それは島津藩を経由して将軍のもとへ。
将軍家は滋賀の國友鍛冶にこれを再現させ、全国に広まりました。
広まったのは生活を楽にするためではなく、戦に使うため。
権力者たちが欲したため、その技術は日本中に広がりました。
堺は関ヶ原で東軍を援護したため、江戸時代には幕府の直轄領とされ、生活を安堵されたとか。
堺の鍛冶らにとって鉄砲は、ただ生活を便利にするものだった、と、言えるでしょうね。
それにしても豪華で統一感のある屋敷です。
好物の縁側も、いい感じ。
鉄砲鍛冶屋敷の裏には清学院と呼ばれる建物があり、三館共通券を購入したので訪れたのですが、ここもまた面白かった。
江戸時代後期から明治初期の修験系寺子屋「清光堂」があった場所なのですが、ここで学んだ人物がクローズアップされてます。
河⼝慧海。
彼は幼いころから仏道に目覚め、15歳にして色・酒などを一生やらないと誓い、当時鎖国状態にあったチベットに侵入します。
彼はチベット人にまぎれてチベット人として過ごしますが、あるとき日本人とばれかけて逃げたと。
どうです?
どえらい豪傑だと思いません?
再度チベットを訪れたときは、完璧にチベット人になりすまし、ダライ・ラマの主治医に推薦されるまでになったとか。
しかし、
「そんなもんになることになったら絶対身元調査される。日本人やとバレるがな」
と辞退。
スケールが違うわぁ~~!!
覚えたわよ。
河⼝慧海。
しかし、清学院はさほど見るものもなく。
最後のチケットは、山口家住宅の入館券でした。
ここだけすこ~し離れてるんですね。
でも、私はここが一番好きでした。
庄屋の家だったらしく、とんでもなく広々としてる。
なにより、簾戸がすごく良い。
縁側も広い。
藺草の匂いがまた素晴らしい!
古民家好きにはおすすめ。
超推しです。
堺はそのむかし、「堺県」であり、自治都市でした。
侮れない~……。
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