神西湖畔で一泊したのは、朝の風景が見たかったからです。
帰りは玉造温泉駅で途中下車し、玉造湯神社にお参りした後は、温泉街をぶらぶら。
玉造温泉街には、せんとくんそっくりなオオクニヌシがいます。
さて、オオクニヌシとスクナヒコナについて、語らねばなりません。
延喜式の出雲国造神賀詞には、オオナムチを三輪に、アジスキタカヒコネを葛城に、カヤナルミを飛鳥に、と、出雲出身の神々が大和に鎮まっていることが書かれて おり、日本書紀にある高天原による出雲侵略はあくまでも、創作であり、古代から、大和と出雲の関係は友好だったと考えるのが自然です。
それならば、オオクニヌシは重要な神とされていたでしょう。
ですが、いつの頃からか、オオクニヌシとスクナヒコナの零落が始まったのではないかと思います。
室町時代の徒然草には、疫病の流行や天変地異の際、鞍馬の由岐神社や京都五条の天神に、「靫」が掛けられたと記述されています。
靫は島流しの宣告。
罪人の家に掛けられるものです。
つまり疫病天変地異の罪科で、由岐神社や五條天神の神が島流しにされたと言うこと。
由岐神社、五條天神の祭神がともにオオクニヌシとスクナヒコナなのが、偶然なはずありません。
なぜ、いつ、オオクニヌシとスクナヒコナは、雛流しの雛になってしまったのか。
それがさっぱりわからない。
雛流しので有名な、和歌山の淡島神社も、オオクニヌシとスクナヒコナを祭りますが、その影響なのか。
淡島願人が伝えた縁起絵巻は、京都まで流れていったのでしょうか。
玉造湯神社の祭神もオオクニヌシとスクナヒコナ。
温泉に祀られるのも、大概この二神ですが、風土記逸文の道後温泉条にはすでにこの二神のエピソードが語られていますから、相当古い話でしょう。
素朴な温泉伝承では、傷ついた白鷺が温泉を発見したとするものが多いように思います。
白鷺を「鵠」と置き換えれば、やはり出雲と関連深い。
髭が生えても言葉が話せなかったホムチワケは鵠(白い鳥。高貴な人の魂が具現化したものと考えられた)を手に入れて出雲参拝した結果、話せるようになったというエピソードが、記紀神話にあるからです。
神話の誕生と変容は何度にもわたって起きているでしょうからなにも断言はできませんが、興味深いですね。
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