【三 考古学的事実との対応】
7世紀には倭国と後に大和朝廷となる近畿勢力が
並立していたとする主張を、
古田氏は考古学的に証明しようと試みている。
ここでは、「前方後円墳」問題と「装飾古墳」問題を取り上げている。
本日はまず「前方後円墳」問題から。
【「前方後円墳」問題】
「前方後円墳の巨大性と地域的群立性によって、
少なくともこの古墳時代(四~六世紀)以降は、
この近畿地方こそ日本列島の中枢の地、
そのような一種の“信念”を一般はもとより学会にも生み出してきた」
(『九州王朝の歴史学』駸々堂版p131)
従来、この前方後円墳の墳型は、
近畿に生まれ、東西の他領域に伝播したもの、
そのように信じられてきた。
近年、筑紫の地に津古生掛古墳(福岡県小郡市)が“
最古期の前方後円墳”として報告された。
森浩一氏は『日本の古代文化—古墳文化の成立と発展の諸問題―』の中で、
前方後円墳の淵源は、九州の北辺中央部に存在したものと考えられる、
と述べている。(前掲書p132)
前方後円墳が最大の発達を見たのが近畿地方だが、他の地方の前方後円墳を近畿から伝播したとみなすことには根拠がない。(前掲書p134)
日本列島の古墳時代、関東や東北地方に前方後円墳が存在してもそれがいかなる経路でいずれからの伝播か、にわかには断定しえない。(前掲書p134)
【考察】
「前方後円墳の存在は大和朝廷の影響下にあった証拠」という主張は
考古学を利用して歴史認識の判断に影響を与えている
最も悪質なものの一つだと思う。
マスコミを含めた素人は、
考古学は何となく科学的な判断が可能な学問であると認識しており、
史実性が疑問視されることがある古事記や日本書紀の記述よりも
(考古学の方が)信頼がおけるような印象を持つ傾向がある。
確かに千年以上後に掘り起こされることを
予期して埋蔵されたのではないので発掘物自体にウソはない。
問題は発掘物などの地域や年代が近いというだけで、
あるいは形状などに類似点があるというだけで
記・紀などに記されていることと一致している、
と断定したように思わせる表現でマスコミに発表する考古学者の姿勢にある。
もちろん有力な学者の見解だと裏どりすることなく
「卑弥呼の館発見!」などと大見出しをつけてしまう
マスコミの姿勢にも問題があることは言うまでもない。
本日取り上げた
「全国各地にある前方後円墳は大和朝廷の許可を得て作成している。」
という主張はあたかも何らかの資料に基づいているようであるが、
全く根拠のないことであることは、
上記したように、畿内よりも古い前方後円墳が
北部九州(福岡県小郡市の津古生掛古墳)にあることを指摘するだけで
立証される程度の事なのである。