【雄略記の「天語歌」】

雄略記には三首の天語歌が載る。

長谷の百枝の下で豊楽の宴をしている時に、

伊勢国三重から来た采女が

天皇の大杯に槻の葉が落ちて浮かんだことを気が付かずに

献上しようとしたので、

雄略天皇はその采女を切り殺そうとした。

その時に、

采女が次の歌を献上したことからこの三首の天語歌は始まる。

【1 三重采女の歌】

纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日がける宮 

竹の根の 根垂る宮 木の根の 根蔓ふ宮 八百土よし 

い築きの宮 真木さく 檜の御門 新甞屋に 

生ひ立てる 百足る が枝は 

上枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は 鄙を覆へり 

上枝の 枝の末葉は 中つ枝に 落ち触らばへ 

中つ枝の 枝の末葉は 下枝に 落ち触らばへ 

下枝の 枝の末葉は 

あり布の 三重の子が 指挙せる 瑞玉盞に 浮きし脂 落ちなづさひ 

水こをろこをろに 是しも あやに恐し 

高光る 日の御子 

事の 語言も 是をば

【2 皇后の歌】

倭の この高市に 小高る 市の高処 新甞屋に 

生ひ立てる 葉広 五百箇真椿 

其が葉の 広がりいまし その花の 照りいます 

高光る 日の御子に  献らせ 

事の 語言も 是をば

【3 天皇の歌】

ももしきの 大宮人は 鶉鳥 領巾取り懸けて 

鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 うずすまり居て 

今日もかも 酒みづくらし 

高光る 日の宮人 

事の 語言も 是をば

【考察】

ここに上げられている三種の歌は、

「許登能 加多理碁登母 許袁婆(事の 語言も 是をば)」

で結ばれているので、天語歌と呼ばれている。

雄略天皇が主催する「長谷の百枝槻の下で豊楽の宴」で

「伊勢国三重から来た采女が」用意した瑞玉盞に

槻の葉が落ちて浮かんでいるのを見た天皇が激怒して、

気が付かずにいる采女を切ろうとした時に、

采女が状況を上手に歌いこんだ歌をたてまつったことによって

罪を免れたという説話となっている。

天皇の宮の檜の門の前にそびえたつ大槻には

上枝・中枝・下枝三重になっていて、

上枝から中枝、中枝から下枝、下枝から三重の葉が

三重の子が差し出した瑞玉盞に浮かんでしまったのです、

と絶妙なレトリックで歌を即製した。

三重の采女が即製した歌を受けてそばにいた皇后が、

この新甞屋には葉が広く五百個もの花をつける椿の花に

光が反射して照らして天皇が光り輝いている、

と歌い上げる。

最後は天皇みずから、

新甞祭りの宴にいる大宮人(天皇自身のこと)は

鶉のように白い布を肩から掛けて

鶺鴒のように尾を振りながら人々と交歓し

庭雀のように集まり談笑して、今日も酒宴を楽しんでいる、

とすっかり機嫌を直している。

古事記は三首の歌を「天語歌」と紹介し、

三重采女には多くのご褒美が与えられたことを記している。

この出来事が史実であったかどうかを詮索することが

はたしてどんな意味があるのか、

古代においてこのような歌遊びが行われていたことを

素直に理解することが大切であり、

このような風習が時を経て文字を扱うようになると

万葉歌などを成立させる助走となったであろうことは

容易に理解できるだろう。

三歌とも最後が「事の 語言も 是をば」で結ばれているので、

約束事の中での歌遊びが行われている。

古事記編纂時点でのレトリックなのかもしれないが・・・。