【梅原猛の弟子による正統争いか】
週刊ポスト誌上に井沢元彦と呉座勇一の論争が掲載されている(2019年3/15号、3/29号、4/5号)。
井沢はデビュー小説『猿丸幻視行』が梅原猛の『水底の歌 柿本人麿論』に触発されたものであるという。
呉座は梅原が設立に尽力した「国際日本文化センター」に現在も勤務している。
両氏とも先日他界した梅原を敬愛しているので、梅原猛の弟子による正統争いなのかもしれない。
【二つの論点】
2人の間に潜在すると思われるしがらみはのぞいて、論点となったことは以下のことである。
一つは、「安土宗論八百長説について」
二つ目は、「古代日本の首都移転と持統の宗教改革」
【「安土宗論八百長説について」】
一つ目の「安土宗論八百長説について」は、天正7年(1579)織田信長の命令で安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗(日蓮宗)の宗教討論のこと。
学会の通説では、織田信長が法華宗を弾圧するために意図的に浄土宗を勝利させたことになっている(八百長説)が、井沢は浄土宗の僧侶である林彦明の論文を紹介して八百長説を否定した。
つまり井沢は信長の介入を否定した。
それに対して呉座は「ただでさえ他宗に対して攻撃的な法華宗が安土宗論に勝てばどんなことになるか容易に予想がつく。それでも井沢氏は、信長が全くの無為無策、出たとこ勝負で、法華宗有利とみられる宗論にかかわったと主張するのだろうか。」と通説を擁護している。
【「古代日本の首都移転と持統の宗教改革」】
二つ目の「古代日本の首都移転と持統の宗教改革」では井沢は以下のように主張している。
奈良時代以降の日本は実質的に政権のあった場所の名称で次代を区分している(奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸)。
「しかし、飛鳥時代というのは大和朝廷という明確な政権があったにもかかわらず、その所在地は大和国飛鳥だけで無く、摂津国や近江国にもあった。つまりこの“飛鳥時代”とは事実上”首都移転時代”だったのだ。しかもその首都移転は原則として天皇一代ごとに行われていたのである。」
さらに、井沢は天皇一代ごとに首都移転を繰り返した理由として、「死をケガレとする神道の進行に基づく行為」とし、首都移転を効率が悪いと考えた持統が「一部仏教の考え方を取り入れ遺体を火葬にすることによってケガレは除去されたと考えるように命じた。」
その結果中国式の都である藤原京を作り首都が固定の方向に向かった、と持統の仏教化政策と首都固定化を関連づけて主張した。
これに対して呉座は、「史料的根拠が全くないので論評の必要は無いと考える。」と切り捨てている。
井沢は藤原京を建設した持統が歴代天皇で初めて火葬にされたことと結びつけて考えたのであるが、その論法に対して呉座は学問的ではないとしたのである。
【書紀の首都(宮)移転記述は近畿に政権がなかったということ】
二つ目の問題である歴代天皇が一代ごとに首都移転を繰り返したことに関しては、支配領域が西日本全体に及ぶ地域に達していたとするならば、首都を飛鳥から河内に移したり近江に移したりすることは現実的ではないと思う。
なぜならば首都を移転するということは政権を担う権力構造が移転することであり、天皇の代毎に宮を変えて政権を維持することなど実際問題不可能であろう。
このことからも宮の移転を繰り返している間は、いいかえれば天武が朱鳥元年に飛鳥浄御原を宣言するまでは近畿に政権はなかったし、日本書紀に記された飛鳥岡本宮(舒明)、飛鳥板蓋宮(皇極)、飛鳥川原宮・飛鳥後岡本宮(斉明)については首都とは全く関係のない豪族の住まいだったということになる。
(孝徳の難波京と天智の近江京については別の機会に述べることにする。)
井沢が述べているように、「飛鳥時代というのは大和朝廷という明確な政権があった」というのは、日本書紀に記されているだけのことであり、それだけで大和朝廷の全国支配が歴史的事実とするのはいかがなものだろうか。