↑のつづき。



さて、大宮神社を後にして

さらに佐那河内村の旅はつづく。




佐那河内村ホームページより↓

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往古、徳島県粟国長国からなり、

佐那河内村長国に属していました。

今から1800年前、

成務天皇の御代に観間都比古色止命の孫、

韓背足尼がその長国造となり、

当時南北の連絡要地であった本村に

居を定め、祖を祀り、水田を拓き、

農業を勧めたといわれています。


大化の改新(645年)のとき、

阿波の国は7つの郡がありましたが、

本村は、その中の名方郡に属していました。

その後寛平8年(896年)、

名方郡が廃止されて名東郡と以西郡に分かれ、

以西郡に属していた1021年~1024年に

現在の佐那河内村と改称されました。


寛文4年(1664年)、

再度名東郡へと合併されます。


明治22年(1889年)名東郡から

徳島市が分離して独立、

このとき名東郡は9か町村でした。


その後合併、町制などがありますが、

昭和12年(1937年)には

加茂町、加茂名町、八万村が、

昭和42年(1967年)には

国府町(南井上村、北井上村)が

徳島市に合併されましたので、

以後、名東郡は佐那河内村のみの

一郡一村となりました。

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つまり大昔、

佐那河内村は長国に属していた。



第13代成務天皇の御代、

観間都比古色止命の9世孫、

韓背足尼がその初代長国造となり、

長国(現・徳島県の那賀川流域中心、

徳島市・佐那河内村・小松島市・

勝浦郡・那賀郡・阿南市・海部郡)

を支配したとされる。



今回は、そんな長国造の祖神

観間都比古色止命(みまつひこいろと)

にまつわる神社。


大宮八幡神社から園瀬川を渡り

北へと車で約20分。




『御間都比古神社』に辿り着いた。



拝殿。

阿波国名方郡 延喜式内社
『御間都比古(ミマツヒコ)神社』

鎮座地 徳島県名東郡佐那河内村下モノミ石
創建 不詳
祭神 観間都比古色止命(ミマツヒコイロト)

祭神は長ノ国の祖神。

しかし、
実は別の神が祀られているとも云われる。


それが、

第5代孝昭天皇である。


孝昭天皇の諱は
『観松彦香殖稲(ミマツヒコカエシネ)天皇』。

ミマツヒコの名を持つ天皇である。



横から本殿。

千木は男千木。

さもありなん。




この神社に関してかなり深堀されているのは
「御間都比古祠延喜式亦小祠と為す。
 中辺村にあり、今中峰また三木松と称す。
 即ち観松彦色止命、蓋(けだ)し、
遠孫韓脊宿弥之を祀る也」と書かれており、

また、『阿府志』には
「御間都比古神社、
 同郡佐那河内村中峰にあり、
 俗に中峰とも云う、
 三木松ノ神 神主 井開伊豫」
そして御祭神は
観松彦香殖稲天皇」とあります。
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中略
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御間都比古神社は、
孝昭天皇もしくは『いろと(同母弟)』である
武石彦奇友背命もしくは
孝昭天皇の第二皇子である
日本足彦国押人尊(孝安天皇)を祭祀している。

同社を奉祀したのは
長国造(阿波國那賀郡周辺)である
御間都比古色止命の9世孫の韓脊足尼
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御間都比古色止命の『イロト』は

同母弟(イロト)』の意味とは興味深い。


そして、祭神については
阿波志では⇒観松彦色止命
阿府志では⇒観松彦香殖稲天皇


長ノ国の祖神か
欠史八代の第5代天皇か。


どちらが祀られているにせよ
物凄い神社である。


また、
阿波古代史のバイブル
『道は阿波より始まる』その1には↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
佐那県府能(ふの)山美松(みまつ)峯が
御間都比古命の殯宮跡です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とあり、
地名のミマツが神名とリンクしている
ことが確定している。



さらに、
長ノ国の祖神御間都比古色止命は実は
事代主神の子だった。


長ノ国の王、
つまり、元のイヅモの王は
スサノオ
大国主命
事代主命
御間都比古色止命へと
継承されていった。

その血を継承した観松彦香殖稲天皇

その祭祀を継承したのが韓脊足尼


粟国の女神と長国の大王。

オオゲツヒメコトシロヌシ


それが後の天皇家のはじまりだった。


粟国長国はやがてひとつなり、
阿波国となったのである。


そして、
長(ナガ)国
大国主の時代にはこう呼ばれた。


豊葦原中国(とよあしはらのナカつくに)』❗


『道は阿波より始まる』より↓
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豊葦原中国

かつて以津毛(イツモ)の王城の地は
佐布能(さふの)国といわれた
現在の佐那河内村にありましたが、
大国主命の時代なり、
以津毛王城の地を豊葦原中国
呼ぶようになりました。

中津峰を中心とした勝占川
河口一帯がその地。

中湖(ナカノウミ)に面し、
最も早く出来た州地で須賀と総称されます。
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「ナカ」のキーワードには敏感になりましょう。


佐布能(さふの)国とは

佐那県(佐那河内村)

府能(ふの)山美松(みまつ)峯。



つまり、

この御間都比古神社周辺の地名だった。


実は大正時代、
この素晴らしい神社は、
宮内省によって奈良県に
遷されそうになったことがある

しかし、
地元の氏子さん達が猛反発した為、
「それなら大切にしろ」と注文をつけられ
その後、現在の社殿が
御間都比古命古墳跡に建てられたのだそうな。

つまり、
無理やり奈良に移動させられそうになり、
氏子さん達が守り通したのが
この御間都比古神社である。



お陰様でこの神社に参拝することが
叶いました。

感謝申し上げます。




佐那河内村、そして御間都比古神社。

素晴らしいところだった。


神山町も含め、
一度や二度来た程度では
足りなすぎる。

まだまだ物足りない。


今のワタシに神名をつけるとしたら
『物足比古(モノタリナヒコ)』である(笑)


後ろ髪を風になびかせながら、
次の神社へと向かう。


次の行く先は阿南市❗


天照大御神の生まれた場所…


つづく。


ではまた❗



おまけ。



長ノ国と言えば、もう一柱重要な神がいる。





長髄彦(ナガスネヒコ)。



妹は第0代天皇とも噂される
饒速日命の后登美夜毘売


なんとこのナガスネヒコ
 

この神の父もまた、
長ノ国の大王事代主神のようである。


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