↑のつづき。


さて、まずは最近嬉しかったことを述べさせて下さい。

①頂きものの『阿波番茶』がとても美味しかったこと。

②手に入れた『阿波青石』がとても綺麗だったこと。

③ついに手に入れた書籍『道は阿波より始まる』がとても面白かったこと。


阿波徳島は最高ですよ皆さん(笑)

『阿波青石』

書籍『道は阿波より始まる』
※表紙の不思議な文字は、阿波神代文字で
「アワ」と書いてあります。




さてさて、今回は素晴らしい書籍『道は阿波から始まる』からの引用を交えながら書いていきます。


日本の正史と言われる『古事記』は、
和銅五年(西暦712年)に
「偽を削り、真を定め、後世に伝えんと欲う」
という天皇勅命により編纂された。

当時、全国各地には異なる伝承が残り、辺境の地では誤った言い伝えなども残っていた。

天武天皇は、正しい国史を後世に残したかった。


「古事記」は正しくは、
『磯上乃古事記(イソノカミノフルコトフミ)』。


西暦600年代、聖徳太子の時代に初めて、この国の国号は『日本』となった。


ならば、それより100年以上経過した時代に編纂された日本の正史の名は、
日本之古事記』となってもおかしくない。


古代、日本列島はまだ統一国家ではなく、
それぞれの地域に国が在った。

つまり、『磯上乃古事記』は、古代日本の発祥の
地である、日本列島のたった一つの国から生まれた歴史書だと認識しなければならない。


『道は阿波から始まる』のこの主張は、
個人的にはとても納得感がある。


たった一つの国が、やがてその領地を広げていく。

日本神話そのものである。






各国の「~風土記」が編纂された時期は、
実は二回あった。

一回目は『磯上乃古事記』が編纂された翌年、
諸国にそれぞれの風土記を作るよう命じられた記録がある。

二回目は、延長三年(西暦925年)。
※ちなみに「延喜式神明帳」は924年制定。


一回目を「古風土記」、
二回目を「新風土記」と呼ぶ。


その後の935年の平将門の乱、源平合戦と、
日本は武士の争乱の時代へと突入。

それから約700年後の徳川幕府が定まるまで、
『磯上乃古事記』が研究されることは無かったのだそうな。


徳川光圀が「大日本史」編纂に着手したのは
西暦1657年のことだった。

大日本史編纂の流れで、かの有名な国学者
本居宣長が手掛けた『古事記伝』が世に出される。


この古事記伝が、現在の古事記の解釈のベースとなっている。


原書である『磯上乃古事記』と
解釈本の『古事記伝』は別物だということを理解しなくてはならない。


その両書の編纂年代の開きは1000年だ。






徳川幕府が開かれてから、戦乱の世が終わり、
改めて日本の歴史に目を向けられた時代、
不思議なことが起こる。


幕府の命令で、阿波国神山にあると言われる
『神通滝』に関する問い合わせがあり、阿波の人達が捜索の末に見つけ出した…という藩記録がある。


その後も、幕府は阿波藩に様々な注文をつけてくるようになった。


松平元康が天下を取った後、
「わが家系は鴨族」と称し、
姓を「川」と改名。
※つまり徳川家康のことです。


その後、「阿波藩は島藩に改名せよ」と命令を下した。

これが『徳島』の地名の始まりである。

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そして、1697年。


徳川光圀は、
「阿波と淡路の両国に在る
 古代天子葬之場を調査せよ」と命じる。


現在の淡路国一宮「伊弉諾神宮」も、勿論その調査リストに名を連ねていたのだそうな。




幕府が何故ここまで阿波国に目を向けるのか…


『道は阿波から始まる』の著者
岩利大閑氏は著書の中でこう述べている。


 「徳川幕府は阿波風土記を所有していた」




江戸時代後期の徳島藩士、
阿波を代表する国学者
『池辺真榛(まはり)』という人物がいた。

「古語拾遺」を考証、注釈した研究書
「古語拾遺新註」の著者である。

古語拾遺には古事記や日本書紀に漏れた貴重な事柄があり、日本国の歴史・思想を研究する上で重要な資料だと位置づけた。

古語拾遺は、平安時代(807年)、斎部広成によって編纂された書物。


斎部氏(忌部)」のルーツは、阿波徳島。



池部真榛は、藩政を非難した罪で藩邸に幽閉され赤痢のため34歳の若さで亡くなった。


しかし、その死は不可解であり、
他殺ではないか…とも言われている。




最後に、常陸国風土記の話を。


以前もちょろっと書いたが、
常陸国風土記では、
ヤマトタケルを
『ヤマトタケル天皇』と書いている。


正史では、ヤマトタケルは
第12代景行天皇の子であり、
第14代仲哀天皇の父だが、
天皇とはされていない。


間の第13代天皇は成務天皇である。



ちなみに、
風土記の中で唯一禁書となった阿波国風土記でも
ヤマトタケルは
『ヤマトタケル天皇』とされていたのだそうな。



13代天皇はもしかしたら本当は…



13』に関わる人物は、やはり隠される運命にあるのだろうか。




出雲口伝よると、古代出雲王朝の東王家は
『富(トミ)家』。




漢字の「」と「」を重ね合わせると
』という字になる。





「阿波を調査せよ」と命じたのは徳川光圀。



別名『水戸黄門』。



光圀は、常陸水戸藩主だった。




「ミト」を反対にすると、





13(トミ)』である❗







幽閉されたくないので、このへんで。


つづく。



ではまた❗



参考資料↓


 

 





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