最近、菅政権の任命拒否で盛り上がっている日本学術会議だが、安倍政権の安保法制成立にどれだけ貢献したのかを知りたいと思う。あるいはまったく貢献しなかったなら、その事情も知りたい。国民のためにある会議なのだろうか? 日本会議の一環なのか? 本来、国民投票で決めるべき人事ではないだろうか? あるいはこの組織は日本共産党と政府自民党の仲良しクラブなのではないだろうか? いろいろ疑問は生じるのだけど、次の一点だけは申し上げたい。幾分言葉遣いに問題があるが、SMSでの率直な意見。

 

政治参加のできない天皇の任命が拒否権なく進められるのは憲法が機能しているからかもしれませんが、自然ではありません。どこかの権威主義団体が任命権を政治権力に委ねていたのは、恐ろしき白痴行為でしょう。危険な思想の人たちが政権を担当しているのですから、それらに任命権を預けていたのは間抜けな証拠で、甘えるのもいい加減にしろと言いたいものです。

 

その天皇にも憲法第99条で憲法保持の行動を義務付けていますから、日本学術会議は、安倍法制の成立時には戦った記録があるはずで、それを国民に開示するべきでしょう。またこの際学術会議の全員の履歴も知りたいものです。政府と結託して何をやっているのでしょうか?

中には、「推薦に基づく任命」は、覊束行為であって裁量行為でないことは行政法の常識、という日本の連中もいますが、それは国際的に通用する「常識」ではありません。現にスペイン王室などは何度も議会と対立しています。またメキシコでは大学機関などの学術団体が前政権時代に巨額の寄付を受けており財界ぐるみの体制補完装置と化していたことが明らかになっています。

まあ、ここでは宇都宮健児氏の天皇の任命権には拒否権はないのに、という話を聞いて、やれ、日本にいたら、またもや共産党に騙されて一票投ずるところだったと胸をなでおろした次第、を告白しておきます。 問題は学術会議のような組織が、政府の任命を待つ機関であるという現状なのです。

 

対外的には、日本は、何と現在の悪辣無法の「首相官邸」から始まって、英文のGHQ原案憲法を日本語憲法と併載している。もちろん、英語では「国民」は憲法の主体ではなく10条に規定されているように立法過程で定められるものでしかなく、主体はあくまで「日本人民・日本人The japanese people」である。
実は、この起草段階で、日本という郷土は国家ではなくCountry societyとして新しく生まれ変わっており、焦土と田園、青い山脈から立ち上がった人民の社会としてとらえられている。それは近代主義がこだわった「国民国家」からはみ出した政治体なのである。
第九条は当初国会に提出された英語原文直訳から、現在のように国民国家的観点から理解されやすいように改訂されたものが結局は批准されている。
しかし、原・英語憲法の主体は「現在でも」投票行動を棄権や投票、あるいはムサシで行なう「国民」ではなく「日本人民」なのである。実際には「日本人民」は帝国主義体制に足をすくわれ、再度の軍事化をたくらむ保守党に巣食っていた天皇制リベラルの吉田や幣原たちによって「日本語憲法」から駆逐されている。
要するに、日本語憲法は現在でも世界に通じている英語の日本憲法を裏切っているのである。国際的な看板と違った解釈を学会も政界も振り回し、「国民」は擬似民主主義を信じ込まされている。
露骨に言えば、現在の日本語憲法は操作された憲法であり、国際的な了解の中にある英語憲法から見れば、「憲法違反」なのである。
日本の「違憲立法審査」がほとんど機能しない原本の原因がここにある。
では、日本人は何をやっているのか?

以下に訳すのは、1973年、チリのアジェンデ政権に対するクーデタの際、亡命を果たし、スペインで政治学者となったマルコス・ロイトマン(Marcos Roitman Rosenmann)のメキシコの新聞ラ・ホルナダへの寄稿エセーである。原題はPorque odiamos al comunismo y los comunistas (コミュニズムやコミュニストたちが憎いので : September 7, 2019. La Jornada)である。彼はもちろん、政治学者としても、市民としても左派の論客で、ラテンアメリカの民主化についての著作が多い。軍事蜂起による政権の解体を19歳で経験し、スペインへの亡命を果たした彼の文体は、ニヒルでもあり、直截でもあり、しかし、希望に満ちた生産性を示している。左翼としての彼の危機意識は、たぶん、クーデタ以降から一貫したものだろうと、ほぼ同世代の私は考える。1973年、日本では急速に失われていったあの危機意識と新たな閉塞の始まりの中に私たちもいたからである。9月の学期休み中、長野でゼミ合宿中だった私たちは、チリでの軍部クーデタをラジオで知った。教師の高畠通敏にそれを報告すると目を丸く開いて一瞬沈黙した。「そうか、無念だったろうな」。しかし、私には自分自身が費やした何年間かの街頭風景や仲間たちの喧騒が耳に重なった。高畠は、その後、「新保守の時代はいつまで続くのか」という本を90年代に出しているが未読である。訳したエセーには現在の左翼の立場が明瞭に描かれている。左翼側はこの時代に、むしろ、今までの「党」意識から自由で、しかも国際的に共通な集団倫理を確固とするべきだろう。主体性のある集団の目的への責任感覚と集団的短期目標達成確認、集団的な文書管理能力と共有化、各個人の参加責任とその意識、歴史研究による集団批判と個人の権利確認、以上に対する内部的チェック機能、これらは専門の国際標準ISOの監査員を外部機関から招いても確認させる必要があるだろう。

その意味で、今この時点で私は、同じマルコス・ロイトマンの短文エセーEl paraíso perdido de las ciencias sociales latinoamericanas (ラテンアメリカ社会科学の失楽園)の翻訳に手をかけている。メキシコは8月3日現在、大略44万人のコロナウィルス感染者、4万8千人のコロナ禍死亡者という惨状にあるが、8月に入って感染状況は、孤独を嫌う国民性にしては、むしろ治まりつつある。左派政権である現政権は、いまだ社会構造と化したネオリベラルの大波の圧力を受け続けている。それについての議論はまたあとに回しておく。翻訳に際して、日本語文章にするために、いくつかの補完を加えたがなるべく意訳を避けた。題名を上記の原題のまま示す。

 

“Porque odiamos al comunismo y los comunistas”  por Marcos Roitman Rosenmann

わたくしたちの世界は資本主義の文化価値を巡って回転している。中立的であったり距離を置いているものなどはない。わたくしたちを競争、成功の取得、富の蓄積に固執させ、それを獲得するのに手段を選ばせない。私有財産というものが骨までしみこんでいる。わたくしたちは、ウォルト・ディズニーが作り出したパーソナリティ、金塊や貨幣や豪華品の海を泳ぐスクルージ・マクダックになりたいと思っているのである。夢物語?わたくしたちの世界はコミック漫画である。個人主義者たち、欲望に走る者たち、勘定高い連中、嘘つきたちによって、わたくしたちは形作られている。それがわたくしたちを教化させ、文化的な社会形成をさせている。わたくしたちは貧しい人々を軽蔑し、嫌い、非人間化する。彼らはそれが相応なのだ。貧困は常に存在してきた、と断言される。貧困に対する戦いは、自然の摂理に反する行為である。従って、民主主義を復権させようとすることは貧困層の事案である。非政府組織の会員となって人道的な運動を援助し、連帯者となり、慈悲を行なうのはいいことだ。街路や建物に、学問芸術の保護者たち、慈善家たちや英雄たちの名前がつく。学術研究に何百万ドルも寄付する大物が、奨学金を与え、医療診断機器の資金を渡たし、彼の芸術作品は美術館で展示される。大物の達成リストの項目には際限がない、しかし、その「目的」は達成する 。 : それは、 社会の大多数者からの彼が成功者であるという認知である。

大物たちの富の起源についてわたくしたちは自問することはない。運が良いのだということにしてしまう。彼らは夢想家たちであり、ゼロからはじめ、好機を失わなかった連中なのだ。 わたくしたちすべてがロックフェラーに、アマンシオ・オルテガに、カルロス・スリムに、ビル・ゲイツになることができる。起業家になるということが問題であり、その後、成功はやってくる。誰かが搾取的社会関係についてはどうか?と訊いてくるかもしれない。答えは単純だ。搾取など存在しないのだ。この断言は、わたくしたちの精神に激しく刻印される。懸命に働き、節約し、好機を逃さず絶好の地点にいることをもってして充分なのだ。そして、高級車を、ヨットを、自家用飛行機を、家事サービスを、王族クラスの複数の豪邸を、つまりは商品世界のもたらすすべてのものを欲さないわけにはいかない。それが物であろうが人であろうがである。王様の肉体を生きることは正当なことであり、それを望まないのは偽善である。所有し、それを他者に見せないのは愚かなことで、むしろ誇示するべきなのだ。わたくしたちの遺骨が崇拝され行列で訪問される墓所を建てることと同様に、金字で書かれた名前をもって歴史に残ることは、存在の永遠性を買収することなのだ。

 

貧困と挫折は、市場へのひとつの不適切性とわたくしたちは考える。そのうえ、社会学と生物学は社会生物学を形成するのに便宜的な婚姻関係にまとまった。もっとも抜け目のない者が勝ちを収める世界において、利他的な対立遺伝子を抑制できる利己的な遺伝子たち。それは複数の遺伝子の中にあって、そのDNAを変質させる可能性はない。人間が、他の人間に対するオオカミであるという略奪的ホッブス主義思想がのさばる。しかし、オオカミの群れは、社会的な類が協力し合うように、個を排出することがない。社会的分業を維持する。そうでなければ消滅してしまうだろう。だから相互に相争うような社会的な類は存在しない。というのは、ダーウィンが言ったとされる大きな嘘である。

 

政治的な意味を持たないものなどは存在しない。芸術、文学、映画、言語、流行、美学、性、家庭、飢餓、嗜好、情緒、愛や憎しみの諸様式に至るまで政治とかかわっている。しかし、反コミュニズムを助成するための基本は、恐怖心を作り出すことなのだ。わたくしたちは生まれて以来、民主主義者、社会主義者、マルクス主義者、決定的にはコミュニストと、異なった仮面で現れるコミュニズムを敵として認知するように頭に刻み込まれ、教化される。コミュニストたちは、学校に、職場に浸透しており、さらには友人として現れる。しかし、彼らは目的を持っている。わたくしたちをロボット化し、わたくしたちの所有物を奪い、奴隷化する。家庭や、私的所有やカトリックのモラルを溶解してしまうイデオロギーである。コミュニストたちにとって、わたくしたちはひとつの数なのだ。それだから、コミュニズムはナチズムとホロコーストに同一化される。すべての恐怖がコミュニズムに一括される。

 

反コミュニストであることが問題なのではない。それはコミュニズムを憎むための教育システムからの帰結なのである。ソーシャル・コミュニケーションの諸メディアにおいて、文学、映画、アニメ動画において、わたくしたちは尋ねることができる。誰が今ある文明を救うのか? 何のスパイたちが人殺しのライセンスを持っているのか? 悪の根源は、社会正義、平等、尊厳などへの欲求を装ったコミュニズムであり、それは地球を攻撃するとき標的として常にホワイトハウスやアメリカ合衆国を選ぶエイリアンでさえあるのである。彼らにとって未知の場所などは存在しない。そのGPSはGOOGLE MAPに繋がっているのである。

 

コミュニストたちは冷酷で、マニピュレイターで、無感覚で苦しみもしない。反コミュニストであることは考えることを必要とされない、何年にも渡って執拗に学んできたことを実行に移せばいいだけだ。

それに反して、民主主義者、コミュニスト、社会主義者、あるいはマルクス主義者であることは、考えること、時流に逆らって泳ぐことが必要とされる。それは意識の行為、批判的自省の行為である。これこそ正に、この現在社会が追い詰め、犯罪化している行為である。本質を知ろうとせずに生きることは生きて涅槃を獲得することである。肯定的であれ。明日には百万長者になるだろう。ものごとの自然の秩序に疑問を抱くなかれ。大地は平面であり、資本主義は正当かつ公正である。偽りの偶像に魅了されるべきではない。トランプ、ブラジルのボルソナロ、アルゼンチンのマクリ、チリのピニェーラ、チリ・クーデタのピノチェット、鉄の女・サッチャー、アルゼンチン軍政のビデラ、ニカラグアの独裁者ソモサ、その他その他はいい人たちだ。みんな共通して反コミュニストであるではないか。「魂を捧げよ! もし一票を頼まれたら、票も捧げよ!」

 

La Jornada, Mexico,  September 7, 2019.

この小文は2014年4月10日に「ちきゅう座」に掲載。「ちきゅう座」への初めての寄稿だった。

 

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小生は通算27年メキシコに本拠を置いている。とはいえメキシコから北米への移住を考えたり何度かスペインに出かけて仕事を探したりしている。
現大統領がメキシコ州知事のころサン・サルバドル・アテンコの農民運動を弾圧しているのだが、その際に取材に当たっていたチリその他の取材陣を連邦政府は国外追放している。メキシコ憲法では外国人が政治に関与することを禁じているので、小生が政治学の講義をするたびに、ヒネた学生から突っつかれることもあったが、一度大学当局から脅され、日本大使館にも相談したが相手にしてくれず、館員を怒鳴りながら、一方では追放止めの行為としてメキシコ国籍をとった。大使館は10か月くらい経ってから重い腰を上げたが、逆に大学側から「大学はそんな人権侵害はしない」と煙に巻かれて帰ってきた。これが警視庁所属の領事であるのだから小生並みに「国籍」を軽んじているといえばいえよう。
ところが、しばらく経って日本大使館は国外投票の会場で小生の投票権を拒絶し、その場で「国籍離脱届」に強制的にサインさせようとした。小生は、あの時点でまったく腰抜けだった大使館側が、小生一人を相手にしてはかなり居丈高なのに驚いた。
なるほど国籍をとってからは政治的発言をとやかく言われないのでそれだけ楽だが、公務員などの職には就けない。10年以上、国を離れると私財を含めてすべて権利を失う。要するに完全な国籍ではない。
それを理由に僕自身の「民族意識」の元のほうから「国籍離脱」を迫られるとは、大きなお世話というか、親切きわまるというか、人権意識が田中義一内閣(前世紀初頭)なみというべきか。。


 


 

2014年3月18日「ちきゅう座」 そのまま掲載。

<山端伸英>

戦後の実務思想にかなりの影響を与え、一時は山口昌男などのライターを輩出した「思想の科学」はこの2,3年、一つの過度期を自ら実践し実演している。

社会法人団体から最近、自由な形の非法人思想集団となり、若い人たちを中心に再生を模索している最中だと言える。

会長などの人選で、いまだに戦後的な価値観やネポティズムへの傾向が感じられるが、「思想の科学」という戦後の一つの象徴が脱皮にもがく姿の一環としてこれを見ることもできる。

過去の遺産の共有を計りながら、現在時点での展望と批判を試みることも、新しい会員たちの仕事の一つになるだろう。一般に読書量が少ないままに実務家気取りのライターになれば上坂冬子たちの二の舞を踏むことは明らかだろう。

かといって、最近のように東大系ヘーゲル学者などの講義を企画しているのは丸山眞男などがいたころの官制アカデミズムへの接近の傾向を含むものかもしれない。実際、大学院系の連中の参加が増えている。

「思想の科学」の運動で大切な点は竹内好のように戦中戦後の継続の局面に激しい批判を持っていた人が、意外に70年以降から参加の頻度を増していることである。

実際、僕が「思想の科学」を物理的に知った時には大野力と森山次朗とかいうのが二つ顔を張っていて「思想の科学」とは昭和30年型の「実務学協会」みたいなもんじゃないかと思ったほどであった。

中核となる問題意識を組織する鶴見俊輔的人間がまだ誕生していない。テーマについては二番煎じを繰り返す恐れもある。

以前のように大学の外にある生活者の学問だなどと気を吐く前に、戦後の産業組織との連帯を生きた大学を解体して、市民性の原理を極めればいいのである。だから暴力論やテロの研究も非常に大切だ、、、と遠くからつぶやいている。
(思想の科学研究会会員)