アソシエ21のニュースレター 2001年10月号、No.30 つまり20年前に掲載されたエセー。

 

論説●米墨国境のフォークロア 山端伸英

 

 ……ある民族が、ひとつの使命感と運命をもっている、という感情を、ある民族に与えるのは、みたされない欲望の自覚である。……E・ホッファー「情熱的な精神状態」第二四節。平凡社。 
 ……開発政策の分野には、政策立案者たちが、外部から送りこまれたいわゆる専門家よりも、反対に当事者である内部の人間が言いたいことにもっと注意を払っていたら、高い値段についた失敗が回避されえたであろう事例がいっぱいある。……P・バーガー「犠牲のピラミッド」第四章。紀伊国屋書店。

 ボーダレスの時代というのが、もともと国境線を戦時体制下にしか歩いたことのない日本人のはやり文句であるらしい。国境がなくなったというわけではなく、国境を突き抜けた社会になってきた。グローバル化と称して局地戦争を起こしたりする勢力の尻馬に乗りつづける島社会ではあるが、その「国家枠」の中で国籍不明の文化が生じてきた上に、若い人たちの文化的アイデンティティーも国籍に縛られなくなった。意識の中に存在しない国境。しかし、むろん、日本の若者らの何パーセントかは「世間」の風習に従って「一流大学」を目指し、「一流会社」に入り、第三世界の人間を踏みつけにするわけではある。それも国境を越えた現象である。そういった、日本の「一流意識」が、グローバル化世界の良識にさえ沿ってはいないということも国境を超えて常識になってきた、ということを本稿では、現実の後追いのかたちで触れることになる。

 現在、世界各地に日本人は出入りしている。それらの地域のひとつに米墨国境のマキラドーラ地域がある。日本におけるめぼしい家電メーカーの大半がこの地域に生産基地をおいているといって過言でない。その他自動車産業の各種部品メーカーなどこの地域における日本企業の割合は場所によってはアメリカを凌駕している。そして、アメリカ側の不況が影を落としている現状でもこの地域の生産活動に企業側が意気込みを捨てないのはアメリカ市場と、メキシコの安い労働力への魅力があるからである。
 しかし、労働力の安価に甘える時代は過ぎつつある。物価が先にグローバル化し始め、安い労賃に労働者側の生活が耐えられなくなり始めている。日本の高度成長が、「所得倍増政策」と軌を一にしていることを日本人自身が忘れては困るというものだ。それまでは日本製品の品質もダンピングに見合った代物であったこともある。

 さてメキシコの物価はここ数年安定を保ってきた。それでも最近の物価は次第にアメリカ並みの水準になってきている。書籍や新聞はアメリカよりも高い。最近、ラ・ホルナダという新聞が八ペソに値上げをした。ページ数は多いにせよ、二〇〇一年八月初旬の一ドル=九ペソというレートから見ると高価という印象をもたざるを得ない。八六年にわたくしがメキシコに着いたときには新聞は二〇米セント相当であった(同じころロサンゼルス・タイムス紙は二五セント)。
 一般家電製品の値段は日本と比べると安いが、現在の三〇代前半で八〇〇ドル相当の収入があればいいほうだという状態であるから高めである。ビデオカメラとかラップトップパソコンなどは世界どこでも同じ値がついている。生活費は一貫して上がりつづけている。
 国境地域の特色は、アメリカの安物の物価がメキシコよりもさらに安く、中古自動車が安いことから、それにまつわるいろいろな動きのあることだろう。またスペイン語の書籍など、文化財の入手がメキシコ側では難しくなってくる。メキシコ・シティの新聞を三―四倍の値段で売っていても、書籍は手に入らない。アメリカ側のガソリンはメキシコ側より安くて燃費がよい。なお、メキシコ政府は安いアメリカ中古車の侵入を阻止するため国境地帯住民にのみその購入を許し、他の地域でのアメリカ中古車の使用を禁じている。

 国境に工業団地を設けて企業の誘致に勤めるメキシコ政府は、同時に国内の雇用不安地域の住民をこれらの国境での雇用に充当しようとする。ティフアナではシナロア州の若者たちが職を求めてやってくる。シウダ・フアレスにはドゥランゴ州、チワワ州南部から、レイノッサにはベラクルス州からそれぞれ大量の若者たちの移住が見られる。彼らは自分たちでその新天地に定着するどころか、親族や親戚を次から次へと呼び寄せては国境の住民にしている。また工業団地のプラントで働きつづけると小学校、中学校の卒業資格が与えられる機会もある。これらは政府のプラント側への条件である。

 元からその地域に住みつづけている人たちはこの二〇年の地域の変貌を整理しきれていない。いきおい、新しい住民たちへの嫌悪感も生じるが、新しい住民のほうの数が多い。そして人は人間であるから、生活を接しながら、それなりに理解し合える。メキシコの地元の人たちには理解できない人たちが来る。日本人である。彼らは、工場のある地元には住まないで、アメリカ側に宿舎や住宅を持っている。経費削減だといってメキシコ人の首切りをしながら、断じてその理不尽な生活形態を変えようとはしない。企業財政に負担をかけている。

 ある企業の財務部長でプラントの法的代表を務める人物、仮に徳永氏としておこう。その彼は、人事部長に暴言を吐いて、そのうえ首を切り、そのメキシコ人に対する非友好的な姿勢によって地元の新聞に評論された。その後の法的処置がどうなっているのかはわからないが、彼はアメリカ側に住んでおり、その反メキシコ人的態度はますます募っているようである。彼がやってきて、そして、彼が去った後には彼の横暴な態度に対するメキシコ人同士の論評がくすぶるのである。あるとき、倉庫事務所にやってきた彼は出庫責任者ミゲルに棚卸のための双眼鏡を買えと、札入れから一枚の一〇〇ドル札を取り出し、空中に放り投げた。一〇〇ドル札は半円の弧を描きながらミゲル主任の机の上に落ちた。その一〇〇ドル札の運動を、そこにいた経理の木下社員や数人のメキシコ従業員はそれぞれ違った立場と論理から、眺めていたのであろう。二秒ほどの沈黙が、机上の一〇〇ドル札をめぐって支配した。

 簡単に海外で地元社員の首を切る慣習は、財政負担に悩む日本の本社でも採用すべきであろう。人事課は、不必要な人物に向かって、君は社風に合わぬといって切ればよいのである。例えば社名に傷をつけたというのは簡単に会社側で状況的判断を下せる。もはや肩タタキや窓際社員化だけでは悠長すぎる。社員の公平を社訓に入れている会社は、これで日本社員とメキシコなどの社員との公平を図れる。それにより企業は自己の思想にも、他者にも正直になれる。そういうシステムにすれば他国でその企業の精神に殉じる他国籍社員のプライドは向上するだろう。そして本社は終身雇用に甘えた日本人社員の他国民への横暴をキャッチできる。地元社員に対して日常的に二枚舌を使いながら仕事をさせ(これが植民地主義の現実形態ではある)、日本の企業では嘘をつくのは最大の悪で、首以外にないなどと言う社員は多い。
 日本人社員を解雇する際、人権問題にからめるものがいるとすればお笑い草である。日本の論理を貫く立場の人間たちだけに人権を供する司法があるとすれば、その司法は不平等な原則の上にたっており、差別を根底においている。もはや現代企業には国境はないということを企業自身が認めて宣伝しているのである。地元の企業を最優先にした法習慣を活用すれば問題は少なく済むであろう。つまり、派遣社員をその資格のままにして経費の拡大を招くよりは、現地法人の社員にし、現地法人で処分も活用も一任すればよい。本社の命に素直でないものはその場で解雇すればよい。企業が一刻も早く本国従業員の給与及び雇用削減に成功すれば軽量化の弾みを生かしてさらに大きな可能性を導くであろう。

 もちろん、支社長含めて日本人社員は従業員と同じ社会に住むべきであろう(これがアソシエの素直な形態)。給料も物価の安い分(という神話を逆手にとって)低くしなければ日本国内の生活水準との不公平が生じる。そして、これは従業員の勤勉さに反映してくるであろうし、会社幹部が自分らとは違う世界からきた搾取者であるという今まで凝り固まった印象を除去できるであろう。そして会社に忠誠な日本人社員も、自分らと同じ水準の給料をもらう地元国籍の社員と同じ立場に立って会社に貢献でき、仕事ができるわけである。すばらしいことではないか。これで日本企業は、むざむざと失敗に高い経費をつむことを免れ、泡沫(日本では英語で表現された)の気分から抜け出して、もう一度、あの失われたハングリーな日常を取り返すことができる。

 企業の身勝手によって、首を切られた社員は、ではどうするべきなのか。もちろん自負して余りある自己の技術をもって子を捨て妻を捨て、あるいはそれらを連れたまま新天地を求めればよい。簡単なことである。第三世界的な日常事を、あたふたと大変だ、何だかんだと慌てるから、文明の危機に至るのである。サンヨーのティフアナ支社長も、札束を切っておおっぴらに遊んでいるところまではメキシコのマフィアも顔負けの第三世界の顔役を勤めていた。でも、ちょっと横丁に隠れて愛人がどのような仲間を持っているのかまでは想像力を働かし得なかった。
 マキラドーラ・プラントを引き上げた会社はサンヨーを含めて数多い。それらが「失敗」であることを認めず、ただメキシコ人の後進性の故であるという報告書で満足している企業があるなら、そのような企業に社員はいる必要がない。ひとりで第三世界の人口密度の多い街角に小さな工場を作り、本当に人間生活に必要な技術を練り直す努力をするがよい。そうすると「不必要な技術」の存在にまで気がつくであろう。

 アメリカの不況が長期化しているので、まだ、撤退計画を棚に上げている企業では生き残りのための戦略再編とその体制作りが急がれている。安定成長へと軌道修正するにはなおさら、地元社会との共和が必要であろう。

 松下幸之助や井深・盛田の「神話」は、同時に多くの技術者の組織化の歴史に裏付けられている。しかし、それは散らばる時代に差し掛かっている。体制は組織化の中に置かれていても、経営陣の施策に技術者が口出ししないでいる時代ではなくなったこともある。
 今回の不況は転換のためのよい機会であろう。企業にいる技術者のグループが、生きる意味に立ち返って技術を自分たちのものにするための旅に出ることを勧めたい。それはもう、日本では意味をなさないかもしれない。なぜなら、それは他を凌駕するための技術ではなく、より基礎へ基礎へと遡及してゆく科学を要するからである。それをたった一人で志していたカナダの技術者が、経済的に行き詰まって苦しんでいる現場に私はいたことがある。自分のしていることに満足することができないという彼の苦しみを、私は黙って聞いていた。それを集団で共有するべきだろう。
 メキシコ政策立案者側の問題は紙幅の都合で省略する。私の聞こうとする主題は国内的には既に序奏の始まっている可能性もある。
(メキシコ在住)

以下に1973年、クーデタを機に亡命し、スペインでラテンアメリカの民主化を追っている政治学者マルコス・ロイトマン・ローゼンマンのメキシコの新聞「ラ・ホルナダ」2020年2月23日に寄稿したエッセイを翻訳した。ラテンアメリカの日常でこれを見ても、その晦渋さはぬぐえない。またサパティスタ評価も、現在のメキシコの状況との齟齬を持っている。ロイトマンの評価は、98年ころからのサパティスタ指導者の「国民国家」への傾斜についてフォローされていない。それでいながら政治学次元での従属論以降のスタンスを切り開こうとする姿勢をやはり評価せざるを得ない。なお2020年12月28日に改めて彼は「ラテンアメリカ社会科学の過去と未来」というコラムを発表している。それについても翻訳する予定でいる。

 

ラテンアメリカ社会科学の失楽園

            マルコス・ロイトマン・ローゼンマン/ 訳:山端伸英

“El paraíso perdido de las ciencias sociales latinoamericanas” por Marcos Roitman Rosenmann

La Jornada, México, 

 

わたくしたちは南北問題の基軸である「南」を喪失してしまった。現在の分析の多くは、従属理論という過去に向かって、わたくしたちの現実を考えるためには役に立たないのだと決裂を求めている。議論としては「ラテンアメリカ社会科学という楽園の放棄」ということになる。わたくしたちの過失は、「従属理論」を育てることを放棄したことにある。従属理論の放棄は、繰り返すが、その諸基礎条件のマルクス主義的性格に関する強い否定、またラテンアメリカへのこだわりの廃棄、そしてイデオロギー的な反革命を想定させた。確かに、従属理論は、すべての従属理論諸派に言えるのだが、ラテンアメリカにおける社会構造と権力への最後の統括的普遍的展望であった。同時に、実際のところ、一つの反資本主義的選択肢を、社会科学を取り込みながら政治活動と連携させることを実現した。一九六九年に、ルイ・マウロ・マリー二は、SIGLO XXI(21世紀出版)から出版されたエッセイ:「従属と革命」に示唆的なタイトルを与え、他方、一九七二年、テオトニオ・ドス・サントスは、彼の著作にさらに独特の表題を付けている:「社会主義かファシズムか:従属の新たな特質とラテンアメリカ的ジレンマ」。これらはほとんど、一九七三年九月にチリのサルバドール・アジェンデ人民政府を転覆させたクーデタの予感とも見える。従属理論はその後、代行者と言えるものを持っていない。

ネオリベラリズム版軍事独裁、弾圧、社会科学系学部の閉鎖といった現実がラテンアメリカ批判思想の彷徨を助長した。「冷戦」のさなかに用意されたクーデタ以降、左翼知識人の一部は、回復のすべを知ることがなかった。その後の新たな世代は、流行や、プログラム化された陳腐さを伴う「ジャンク」思考にふさわしい使い捨て理論に引きずり回されてきた。従属論研究の放棄は、ノスタルジーに姿を変えた空白を残した。その空白はいまだ埋められていない。その場所には、ひとつの分断化した知が残っている。何人かにとっては、それは思想のひとつの危機として扱われ、他の者にとっては、変革の欠落として扱われている。それにもかかわらず、それは、ブルジョア的、閉鎖的、疎外的な社会科学の場合がそうであるように、わたくしたちの社会科学を生み出す際の強迫観念化した複数のオプションの融合なのである。このダイナミズムにおいて、主だった大国間で作られた西欧的知の諸カテゴリーから発する不正なキラメキを持ったナニモノをも研究するべきではない。それがヨーロッパであろうが米国であろうが。アカデミズムの何らかの墓穴の中でひとつのクボミを占めるに至ったとしてもそれは無意味というものだ。すべての「Post」は歓迎される。あたかもマルクス思想、言語、社会調査の技術、統計学、理論などが文化的理性の一部ではなかったか、あるいは文化的西欧的理性に帰せられたかのように、それらの「ポスト」から、良かれ悪かれ、わたくしたちは世界について考え、世界の変革を求めている。知を解放するための唯一の選択肢として、自分自身を自国語に定着させることはナンセンスというものだ。そのベースは、ラテンアメリカの社会科学の発展における過去の牧歌的なバージョンに身を隠すことを容易にするノスタルジーだろう。西欧の諸カテゴリーから世界について考えることから解放されて、知と知識とが急き立ててあふれ出ていたところの物語であろう。その後、カオスと闇がやって来た。それが災禍の始まりと言える。その時点から、すべてがうまく行かなくなっていった。果樹園であると約束されていたものは、ひとつの荒地に終わってしまった。社会科学の危機に話が及ぶまでに、ラテンアメリカの批判的思考の統一が失われていくに従って、そのオアシスまで枯れてしまいつつある砂漠になってしまった。

 

サパティスタの提起したものはメキシコの歴史に根を持つに至っていないのだろうか? サパティスタのラテンアメリカ解放思想にもたらしたものは、その国内植民地主義、尊厳ある憤り、サパティスタ集団によるカラコレス共同生活圏、アナログ資本主義からデジタル資本主義への諸変革を解釈できる言語などを経過する経験からの総括の帰結なのである。それは、民主主義、闘争や抵抗の形態を再考する必要性を理論的議論の机上に乗せる可能性を持っている。尊厳、社会正義、権力のような諸概念への議論を開始できるだろう。その1994年の宣言文は抱合性を持っている。それは理想論でも先住民のヴィジョンでもない。ラカンドンのアントニオ老人と雄弁な黄金虫ドゥリートの物語は, 人種差別、困窮、集団的記憶、政治活動の倫理的感覚を説明する上で生き生きとしている。サパティスタの提起したものは孤立したものではない。彼らの基本的主張は、ベネズエラ、ボリビアまたエクアドルの立憲プロセスを再考するのに参照された。「より良い生活空間」、Sumak Kawsay (ケチャ語、El Buen vivir ) 、自然権あるいはマルチ・エスニック国家と多元的民族国家の連結、これらは国内植民地主義の決裂の要素である。その思想は、現代政治学の発展への際立った貢献として承認されるべきだ。これは、去勢されたヴィジョンや方向を失ったノスタルジーを破るひとつの手段だ。すべての過去が良かったわけではない。今日、ラテンアメリカ思想は、沸騰点にある。創造し提起する、同様に探求し、それ自身を締め付け制止する諸ビジョンを破壊する。族長的資本主義への開かれた批判の文脈で、女性運動の拡大としてのチリやコロンビアの抗議運動を見るまでもないだろう。楽園は、決して存在しなかったのだ。同時に、ラテンアメリカ社会思想の失われたエデンの探求から退く必要もないのだ。

 

ラテンアメリカにおける社会科学の過去と未来

               マルコス・ロイトマン・ローゼンマン(訳:山端伸英)

 

この文章は2020年12月26日にメキシコの新聞ラ・ホルナダに発表されたものである。前回、同著者の「ラテンアメリカ社会科学の失楽園」を訳したが、それとは趣を変えて学界向けで、”ラテンアメリカ社会科学”に対する儀礼的スタイルをとっている。現状に対する挑戦的な筆法はとらず、ラテンアメリカの共通議題に対するラテンアメリカ地域の国際的な連携作業と世代交換の意義に議論の焦点がある。FLACSOの日本語訳はアジア経済研究所で使っている研究機関名「ラテンアメリカ社会科学部」を採用した。「ラテンアメリカ社会科学大学院」とも訳せる。CELAという略呼称をもつ機関はいくつか存在するが、ここではメキシコ国立自治大学の政治学・社会学に設けられた機関を指す。

 

Pasado y Futuro de las ciencias sociales en América Latina,  por Marcos Roitman Resenmann, ( La Jornada , Mexico,  26 de diciembre de 2020.)

 

省察することには意義がある。ある時期以来、ラテンアメリカ社会思想における世代交代の問題が提起されてきた。50年代および60年代に特徴づけられた大きな問題意識は、ラテンアメリカ地域からの社会科学の形成における方向転換の起点でもあった。その時代の研究の計画およびプログラムにおける制度化は、ラテンアメリカ社会科学部(FLACSO)の創設に便宜を与えた。1957年に、ラテンアメリカ社会科学部は創設を見た。その存在は、ラテンアメリカ地域が全体的にまとまって研究活動をすることを可能にした。サンティアゴ・デ・チリ市のFLACSO本部では、ラテンアメリカ全域の、学部を終了した青年たちに対する募集制度を運営している。この研究機関で、この地域の社会学、政治学、あるいは国際関係学の発展において後年、際立った地位を占めるであろう社会科学者たちの最初の世代が育っている。社会学と政治学の課程の初期の修了者の中では次の名前を挙げることができる。オルランディナ・デ・オリベイラ、アニーバル・キハーノ、ウンベルト・ムニョス、ホセ・ミゲル・インスルサ、テレスィータ・デ・バルビエリ、もしくはエデルベルト・トーレス・リバス(Orlandina de Oliveira, Aníbal Quijano, Humberto Muñoz, José Miguel Insulza, Teresita de Barbieri o Edelberto Torres Rivas)など、名前を挙げるべきリストは長くなる。教師の中では、アラン・トゥレーヌ、ジノ・ジェルマーニ、フロレスタン・フェルナンデス、ジョアン・ガルセス、ヴィクトル・ウルキディ、エンソ・ファレット、レネ・サバレタ・メルカド、そして、ロドルフォ・スタベンアーヘンたち(Alain Touraine, Gino Germani, Florestán Fernández, Joan Garcés, Víctor Urquidi, Enzo Faletto, René Zabaleta Mercado y Rodolfo Stavenhagen)が際立っている。1957年から1973年までに卒業した同期生たちはフラクソ・クラスィカ(Flacso clásica / ラテンアメリカ社会科学部古参)と呼ばれるグループを形成している。議論内容の豊かさを持っており、1973年9月11日のチリのクーデタが、ひとつのディアスポラ、研究計画やプログラムの変革、それから新たな諸拠点をもたらした。

他方、大多数の学位修得者たちは博士号を獲得するためにラテンアメリカ地域から他の地域に移住した。フランス、イタリア、ドイツ、イギリス、カナダ、あるいはアメリカ合衆国が好意的な受入国だった。それらの国の大学はチリ、メキシコ、ブラジル、エクアドル、アルゼンチン、あるいは中米地域の学生たちを受け入れていた。ルイ・マウロ・マリーニ、テオトニオ・ドス・サントス、バニア・バンビーラ、スージー・カストール、ヘラルド・ピエール・チャールス、ダニエル・カマチョ、ジョン・サクセ‐フェルナンデス、アグスティン・クエバ、ホセ・アリコ、リカルド・ラゴス、ボリーバル・エチェベリア、オクタビオ・イアンニ、またパブロ・ゴンザレス・カサノバ(Ruy Mauro Marini, Theotonio dos Santos, Bania Bambirra, Suzy Castor, Gerard Pierre Charles, Daniel Camacho, John Saxe-Fernández, Agustín Cueva, José Arico, Ricardo Lagos, Bolívar Echeverría, Octavio Ianni o Pablo González Casanova)などの面々が、ソルボンヌ、ミラノ、フロレンシア、ハーバード、ケンブリッジ、オクスフォードなどで博士号を獲得している。それにより、彼らは政治学や社会学の新しい学部での行政職や教授職に就いている。

キューバ革命を契機に、ラテンアメリカ諸社会の性格、前衛の役割、社会的諸構造や権力に関する記述、従属理論、開発社会学、国内植民地主義、あるいは帝国主義の性格などの議論が持ち上がる。このフレームは、カルメン・ミロ(Carmen Miró)の指導の下、CELADE(国連機関、現在、ラテンアメリカ・カリブ地域経済コミッティーCEPALの人口統計関連部会)において展開された人口進化の諸研究で補完された。

経済思想の分野では、CEPALの緊急要請で、ラウル・プレビッシュ(Raúl Prebisch)の指揮のもと、1949年には、かなりの未発表部分の進展があったと推測された。実り豊かな時代であった。すべてが実践に向かっていた。ラテンアメリカのひとつの論争がマルクス主義諸理論を再創造していた。フランクフルト学派の紹介が行なわれていたし、また、マックス・ウェーバーの理解社会学に関する論争も行なわれていた。アドルノ、マルクーゼ、フロム、パーソンズ、レイモン・アロンたちの著作を読むことは、ラテンアメリカの古典講読とともに、義務付けられていた。マンハイム、パーソンズ、マルクス、またケインズを読むことは不可欠と見なされていた。

このコンテキストにおいて、CEPALは1962年にILPESを創設した。ラテンアメリカ経済社会計画研究所(Instituto Latinoamericano de Planificación Económica y Social, 現在のラテンアメリカ・カリブ経済社会計画研究所、/訳者)である。その目的は、公共行政のためのフレーム形成を助成することである。その所長には、ひとりの共和国人、すなわちスペイン亡命者で、その働きがFLACSOにおいて生産的であったホセ・メディナ・エチャバリーア(José Medina Echavarría)が就いた。スペインでは、彼はオルテガ・イ・ガセット(Ortega y Gasset)と伴に働いた。カール・マンハイムの「イデオロギーとユートピア」、マックス・ウェーバーの「経済と社会」などの翻訳者でもある。彼の「ラテンアメリカにおける経済発展の社会的考察」という文章は開発社会学の論争を提起している。ILPESはひとつの思想タンクに姿を変えた。その内部には、経済学者や社会科学者の多様な世代が存在している。セルソ・フルタード、ペドロ・ブスコヴィック、アルド・フェレール、オスヴァルド・スンケル、アニーバル・ピント、ガルシア・ドゥアクーニャ、ミゲル・ヴィオンチェック、マックス・ノルフ、マルコス・カプラン、エンリケ・オテイサ、エリオ・ハグァリベ、またリカルド・ファンジベル(Celso Furtado, Pedro Vuskovic, Aldo Ferrer, Osvaldo Sunkel, Aníbal Pinto, García D’Acuña, Miguel Wionczek, Max Nolff, Marcos Kaplan, Enrique Oteiza, Helio Jaguaribe o Ricardo Fajnzyber)などである。ダニエル・コスィオ・ヴィジェーガス(Daniel Cosío Villegas:メキシコ大学院大学の創設者) により創刊され、その後、FCE(文化及び経済学基金)によって編集されている雑誌「季刊経済学」は諸論争の舞台となった。その雑誌をめくれば、ラテンアメリカの社会経済学思想の偉大な諸論争のすべてが閲覧できる。

 

本年(2020年)COVID-19パンデミックの最中、私はWEBINAR(WEBによる会議やセミナー)に招待され、学生として出席した。その経験は実り豊かなものだった。メキシコ国立自治大学のCELA(ラテンアメリカ研究センター:政治学・社会学部)60周年において、ナジャル・ロペス・カステジャーノス所長(Nayar Lopéz Castellanos)にコーディネイトされた国際的集まりには、かくして、若い世代の参加もあり、そこでの作業や仕事ぶりは開催中も拡大していた。また、ラテンアメリカ社会科学会議(CLACSO)のいくつかの作業グループのWEBINARに参加する好機も得た。そこでの諸報告を興味深く味わった。ラテンアメリカ思想に対するコンセプトの厳格さと知識。私はそれらの議論で学んだし、勇気づけられるのを感じた。私たちはオプティミズムのために十分である以上の動機を持っている。ラテンアメリカの批判思想は(現在)人材を得ており、非常に健康な状態にある。われわれ60歳代で、しばしばペシミズムに見舞われるものたちは、一歩前進し、バトンタッチを可能にし、ラテンアメリカ社会科学者たちの新たな振興を助成しなければなるまい。この作業は素晴らしいものとなろう。

 

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この訳文を、訳者をあるとき懸命に援助してくださった故カルロス・レヴィ・バスケス教授、元UNAMアラゴン校学長に捧げる。Esta traducción la dedico al Prof. Carlos Levy Vázquez (1951-2013), exdirector de FES Aragón, UNAM, por su apoyo y amistad .

 

なんとなく今回のオリンピックは、オリンピックの問題だけでなく、日本の自民党政治の本性を世界に暴き出すきっかけになるように思う。

この50年の驕慢は、世界からの「恥を知れ」という視線の下で単なる驕慢に誇示する自民や野党勢力を政治的に無能化するだろう。大企業の技術革新は掛け声だけのバカ騒ぎで停滞を続けるだろう。日本は急速に無知蒙昧な連中の喚き声の国になってしまうだろう。

島国としての日本では国家からの自由は社会形成の問題を伴ってきた。それが日本の社会主義を偏狭なものにしてきたのではないか。人々は国境を超えることもできるのだ。制度的には現憲法の第22条がそれを保証しているが、「故国」あるいはカントリーCOUNTRYの意味での文化的所属感を国家が強制的に剥奪することは許されない。

 

日本人民は世界形成を旨とする「古事記」の理念を歴史的に負っており、そこには国境や国籍の思想は存在しない。

 

すなわち、日本の本質的な人民思想は郷村の大地感覚と漁村の海の広がりとともに生育したものであり、それは支配の論理(縮み感覚や孤島感覚)を跳ね返す論理を形成してきた。