アソシエ21のニュースレター 2001年10月号、No.30 つまり20年前に掲載されたエセー。
……ある民族が、ひとつの使命感と運命をもっている、という感情を、ある民族に与えるのは、みたされない欲望の自覚である。……E・ホッファー「情熱的な精神状態」第二四節。平凡社。
……開発政策の分野には、政策立案者たちが、外部から送りこまれたいわゆる専門家よりも、反対に当事者である内部の人間が言いたいことにもっと注意を払っていたら、高い値段についた失敗が回避されえたであろう事例がいっぱいある。……P・バーガー「犠牲のピラミッド」第四章。紀伊国屋書店。
ボーダレスの時代というのが、もともと国境線を戦時体制下にしか歩いたことのない日本人のはやり文句であるらしい。国境がなくなったというわけではなく、国境を突き抜けた社会になってきた。グローバル化と称して局地戦争を起こしたりする勢力の尻馬に乗りつづける島社会ではあるが、その「国家枠」の中で国籍不明の文化が生じてきた上に、若い人たちの文化的アイデンティティーも国籍に縛られなくなった。意識の中に存在しない国境。しかし、むろん、日本の若者らの何パーセントかは「世間」の風習に従って「一流大学」を目指し、「一流会社」に入り、第三世界の人間を踏みつけにするわけではある。それも国境を越えた現象である。そういった、日本の「一流意識」が、グローバル化世界の良識にさえ沿ってはいないということも国境を超えて常識になってきた、ということを本稿では、現実の後追いのかたちで触れることになる。
現在、世界各地に日本人は出入りしている。それらの地域のひとつに米墨国境のマキラドーラ地域がある。日本におけるめぼしい家電メーカーの大半がこの地域に生産基地をおいているといって過言でない。その他自動車産業の各種部品メーカーなどこの地域における日本企業の割合は場所によってはアメリカを凌駕している。そして、アメリカ側の不況が影を落としている現状でもこの地域の生産活動に企業側が意気込みを捨てないのはアメリカ市場と、メキシコの安い労働力への魅力があるからである。
しかし、労働力の安価に甘える時代は過ぎつつある。物価が先にグローバル化し始め、安い労賃に労働者側の生活が耐えられなくなり始めている。日本の高度成長が、「所得倍増政策」と軌を一にしていることを日本人自身が忘れては困るというものだ。それまでは日本製品の品質もダンピングに見合った代物であったこともある。
さてメキシコの物価はここ数年安定を保ってきた。それでも最近の物価は次第にアメリカ並みの水準になってきている。書籍や新聞はアメリカよりも高い。最近、ラ・ホルナダという新聞が八ペソに値上げをした。ページ数は多いにせよ、二〇〇一年八月初旬の一ドル=九ペソというレートから見ると高価という印象をもたざるを得ない。八六年にわたくしがメキシコに着いたときには新聞は二〇米セント相当であった(同じころロサンゼルス・タイムス紙は二五セント)。
一般家電製品の値段は日本と比べると安いが、現在の三〇代前半で八〇〇ドル相当の収入があればいいほうだという状態であるから高めである。ビデオカメラとかラップトップパソコンなどは世界どこでも同じ値がついている。生活費は一貫して上がりつづけている。
国境地域の特色は、アメリカの安物の物価がメキシコよりもさらに安く、中古自動車が安いことから、それにまつわるいろいろな動きのあることだろう。またスペイン語の書籍など、文化財の入手がメキシコ側では難しくなってくる。メキシコ・シティの新聞を三―四倍の値段で売っていても、書籍は手に入らない。アメリカ側のガソリンはメキシコ側より安くて燃費がよい。なお、メキシコ政府は安いアメリカ中古車の侵入を阻止するため国境地帯住民にのみその購入を許し、他の地域でのアメリカ中古車の使用を禁じている。
国境に工業団地を設けて企業の誘致に勤めるメキシコ政府は、同時に国内の雇用不安地域の住民をこれらの国境での雇用に充当しようとする。ティフアナではシナロア州の若者たちが職を求めてやってくる。シウダ・フアレスにはドゥランゴ州、チワワ州南部から、レイノッサにはベラクルス州からそれぞれ大量の若者たちの移住が見られる。彼らは自分たちでその新天地に定着するどころか、親族や親戚を次から次へと呼び寄せては国境の住民にしている。また工業団地のプラントで働きつづけると小学校、中学校の卒業資格が与えられる機会もある。これらは政府のプラント側への条件である。
元からその地域に住みつづけている人たちはこの二〇年の地域の変貌を整理しきれていない。いきおい、新しい住民たちへの嫌悪感も生じるが、新しい住民のほうの数が多い。そして人は人間であるから、生活を接しながら、それなりに理解し合える。メキシコの地元の人たちには理解できない人たちが来る。日本人である。彼らは、工場のある地元には住まないで、アメリカ側に宿舎や住宅を持っている。経費削減だといってメキシコ人の首切りをしながら、断じてその理不尽な生活形態を変えようとはしない。企業財政に負担をかけている。
ある企業の財務部長でプラントの法的代表を務める人物、仮に徳永氏としておこう。その彼は、人事部長に暴言を吐いて、そのうえ首を切り、そのメキシコ人に対する非友好的な姿勢によって地元の新聞に評論された。その後の法的処置がどうなっているのかはわからないが、彼はアメリカ側に住んでおり、その反メキシコ人的態度はますます募っているようである。彼がやってきて、そして、彼が去った後には彼の横暴な態度に対するメキシコ人同士の論評がくすぶるのである。あるとき、倉庫事務所にやってきた彼は出庫責任者ミゲルに棚卸のための双眼鏡を買えと、札入れから一枚の一〇〇ドル札を取り出し、空中に放り投げた。一〇〇ドル札は半円の弧を描きながらミゲル主任の机の上に落ちた。その一〇〇ドル札の運動を、そこにいた経理の木下社員や数人のメキシコ従業員はそれぞれ違った立場と論理から、眺めていたのであろう。二秒ほどの沈黙が、机上の一〇〇ドル札をめぐって支配した。
簡単に海外で地元社員の首を切る慣習は、財政負担に悩む日本の本社でも採用すべきであろう。人事課は、不必要な人物に向かって、君は社風に合わぬといって切ればよいのである。例えば社名に傷をつけたというのは簡単に会社側で状況的判断を下せる。もはや肩タタキや窓際社員化だけでは悠長すぎる。社員の公平を社訓に入れている会社は、これで日本社員とメキシコなどの社員との公平を図れる。それにより企業は自己の思想にも、他者にも正直になれる。そういうシステムにすれば他国でその企業の精神に殉じる他国籍社員のプライドは向上するだろう。そして本社は終身雇用に甘えた日本人社員の他国民への横暴をキャッチできる。地元社員に対して日常的に二枚舌を使いながら仕事をさせ(これが植民地主義の現実形態ではある)、日本の企業では嘘をつくのは最大の悪で、首以外にないなどと言う社員は多い。
日本人社員を解雇する際、人権問題にからめるものがいるとすればお笑い草である。日本の論理を貫く立場の人間たちだけに人権を供する司法があるとすれば、その司法は不平等な原則の上にたっており、差別を根底においている。もはや現代企業には国境はないということを企業自身が認めて宣伝しているのである。地元の企業を最優先にした法習慣を活用すれば問題は少なく済むであろう。つまり、派遣社員をその資格のままにして経費の拡大を招くよりは、現地法人の社員にし、現地法人で処分も活用も一任すればよい。本社の命に素直でないものはその場で解雇すればよい。企業が一刻も早く本国従業員の給与及び雇用削減に成功すれば軽量化の弾みを生かしてさらに大きな可能性を導くであろう。
もちろん、支社長含めて日本人社員は従業員と同じ社会に住むべきであろう(これがアソシエの素直な形態)。給料も物価の安い分(という神話を逆手にとって)低くしなければ日本国内の生活水準との不公平が生じる。そして、これは従業員の勤勉さに反映してくるであろうし、会社幹部が自分らとは違う世界からきた搾取者であるという今まで凝り固まった印象を除去できるであろう。そして会社に忠誠な日本人社員も、自分らと同じ水準の給料をもらう地元国籍の社員と同じ立場に立って会社に貢献でき、仕事ができるわけである。すばらしいことではないか。これで日本企業は、むざむざと失敗に高い経費をつむことを免れ、泡沫(日本では英語で表現された)の気分から抜け出して、もう一度、あの失われたハングリーな日常を取り返すことができる。
企業の身勝手によって、首を切られた社員は、ではどうするべきなのか。もちろん自負して余りある自己の技術をもって子を捨て妻を捨て、あるいはそれらを連れたまま新天地を求めればよい。簡単なことである。第三世界的な日常事を、あたふたと大変だ、何だかんだと慌てるから、文明の危機に至るのである。サンヨーのティフアナ支社長も、札束を切っておおっぴらに遊んでいるところまではメキシコのマフィアも顔負けの第三世界の顔役を勤めていた。でも、ちょっと横丁に隠れて愛人がどのような仲間を持っているのかまでは想像力を働かし得なかった。
マキラドーラ・プラントを引き上げた会社はサンヨーを含めて数多い。それらが「失敗」であることを認めず、ただメキシコ人の後進性の故であるという報告書で満足している企業があるなら、そのような企業に社員はいる必要がない。ひとりで第三世界の人口密度の多い街角に小さな工場を作り、本当に人間生活に必要な技術を練り直す努力をするがよい。そうすると「不必要な技術」の存在にまで気がつくであろう。
アメリカの不況が長期化しているので、まだ、撤退計画を棚に上げている企業では生き残りのための戦略再編とその体制作りが急がれている。安定成長へと軌道修正するにはなおさら、地元社会との共和が必要であろう。
松下幸之助や井深・盛田の「神話」は、同時に多くの技術者の組織化の歴史に裏付けられている。しかし、それは散らばる時代に差し掛かっている。体制は組織化の中に置かれていても、経営陣の施策に技術者が口出ししないでいる時代ではなくなったこともある。
今回の不況は転換のためのよい機会であろう。企業にいる技術者のグループが、生きる意味に立ち返って技術を自分たちのものにするための旅に出ることを勧めたい。それはもう、日本では意味をなさないかもしれない。なぜなら、それは他を凌駕するための技術ではなく、より基礎へ基礎へと遡及してゆく科学を要するからである。それをたった一人で志していたカナダの技術者が、経済的に行き詰まって苦しんでいる現場に私はいたことがある。自分のしていることに満足することができないという彼の苦しみを、私は黙って聞いていた。それを集団で共有するべきだろう。
メキシコ政策立案者側の問題は紙幅の都合で省略する。私の聞こうとする主題は国内的には既に序奏の始まっている可能性もある。
(メキシコ在住)