2014年4月7日に「ちきゅう座」に載ったもの。そのまま。

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最近出版された岩波文庫の「政治の世界、他十篇」の解説で松本礼二という大学教授が、丸山眞男の「政治学者」へのイメージについて次のように言っている。

「すなわち政治学者は医者にして指揮者であれと。今日の学問状況を前提にすれば、率直に言って、これは過大な要求であり、本解説の執筆者自信を含めて大方の政治学者にとって、いささか迷惑である。」

 ここでは丸山以降の70年代80年代の政治学者たちの動きがまったく捨象されている。例えば松本礼二自身が参照したと言っている田口冨久治「戦後日本政治学史」の中で絶賛された高畠通敏は、晩節に天皇制下での『出世』を計ったにせよ、「市民政治」の中での政治学者の位置づけを計っていた時期がある。また松下圭一は政治に理論的にかかわることを続けていた。その後、北岡伸一や山口二郎などが政府や党の御用学者然として政治学者をやっていたことがある。

 松本礼二の言う「大方の政治学者」たちは世俗的には「現行システム」内部の受益者として生きている面があることは確かだろう。わたくしは1993年10月に高畠からFAXを送られて日本に大学院を受けに行ったが、1994年の正月に会った当初から彼の天皇制論のおかしさを議論してしまったのでひどい滞在になった。二度目にあった時、彼は立教の法学部の若い教師たちからのわたくしの評判が悪いと歩きながら言った。わたくしは以降腹を立ててしまった。評判というものがあったのかどうかは知らないが個人的に知っているのは吉岡知哉現学長くらいなものだった。松本は彼らの世代より少し上でもある。当初、高畠はわたくしの滞在費は払うと言っていたが払わないで死んでいった。

東大の政治学では岡義達の影響で「政治」概念からの「暴力」の排除が進んでいる。岡が戦後の50年代に書かれた尾形典男の雑誌「思想」に掲載された論文に対して手紙を書き、その物理的強制力を伴った政治権力論を個人的に批判したことは、尾形典男自身が後半生を賭けての自己格闘への契機となったことを述べている。もちろん、「政治」概念と現実政治との間には「暴力」を単なる社会学的事象と片付けてしまえないものがある。

同時に、岡義達の観照的政治学の態度には、政治学者自身のシステム依存性を強める傾向が明らかに見て取れる。松本礼二が、現在も続く受験体制から体制エリートとなる自分たちの性格を丸山的に「自覚」しないのはよいとしても、「大方の政治学者にとって、いささか迷惑である」と言うのは「代言」として東大卒研究者たちの極めて現状に合ったものであることはわかる。しかし、現在の日本の疑似国家主義化の中でそれは、全く反省も責任もない代言の仕方でしかない。

 岩波書店は現在では日本の権威システムを補強する能力をもち、執筆者たちへの褒章や学閥主義で押さえているが、このような片手落ちな解説を大学教授に書かせて、しかも発行してしまうのでは、編集者たちの実力に対する疑問も持ち上がるだろう。せっかく自分で支えている現行の価値システムを自分で揺るがすのでは、岩波茂雄も成仏どころの話ではなかろう。松本に言及されている神島二郎の「近代日本の精神構造」や前田康博の「思想」連載論文などは「現行システム」のおかげで売れる心配をしなくてよい岩波書店の手で文庫にされてもいいと思う。

*「政治」概念については近いうち出る思想の科学研究会のものにいくぶん整理する。ところでこの文庫を入手するのに表示価格の3倍の代金と交通費がかかった。確実に「システム」の外にいる。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0032:140407〕

 

(以下は思想の科学研究会会報に発表された。)

 

日本国憲法(1946)第二十二条、第二項。

何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

Freedom of all persons to move to a foreign country and to divest themselves of

their nationality shall be inviolate.

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 日本語には憎憎しげに他者をののしることのできる言葉が少ないとある政治学者が教えてくれたが、基本的に日本国民は普通名詞を憎憎しく発語することでフラストレーションを搔きたてることができる。歴史的には外国から蹂躙された経験の乏しさと帝国主義的侵略の歴史が隣国の名称を蔑称にしてしまう。朝鮮半島は「併合」され、日本となった歴史を持つ。けれども日本国民はかつての同胞たちを憎憎しげに外に押し出そうとしている。同胞を異国人化したのは日本国民の歴史だが、勝手に同胞化したのも日本国民だったのだ。併合時代には日本語は強制だった。同時に両国の関係は皇室からはじまって血縁的にも深まった。その事実を現代の日本人は否定したいらしい。ここにあるのは精神病理的な忘却形態だろう。だから、現代でも、多くの日本国民には他国の人々の苦悩は伝わらない。それどころか、沖縄や福島などの同胞の隣人たちの苦悩も全く伝わらない。憲法の前文は、悲しくその「日本人民 the japanise people」の現実を眺めている。

 非国民という言葉がある。「国民」にあらず。これが憎憎しげに発語される状況がある。「日本国民」に不利益を及ぼすものは「非国民」なり、だそうである。だが、いくら小生が「非国民」でも、小生が「日本人民」であることにはかわりない。憲法二十二条の「なんびとも」という主体は、前文から始まって、ほとんどの条項がそうであるように「日本人民」であるが、憲法の文脈をはみ出す契機もある。なんびともAll  persons 、、、そこには「併合」や植民地主義の歴史が鈍く光り、未来の青年たちの息吹も感じられる。日本国公定訳文のような「国民」へのこだわりから解き放たれているのが憲法原文なのだろう。訳文には「国体」へのこだわりと「国家」の威厳保守とが共存している。(注一)

 この国体へのこだわりは戦後の復員を経た男たちの中にはいきり立つこだわりとして残った。赤紙で旅立った若い兄弟たちは体も声も返らず、国家からの戦死報告だけで始末されてしまった。小生の叔父たちの若い顔は十九歳と二十歳のもので、七人兄弟の長男であった父の苦しみはそこにあった。歴史的現実となった戦争全体へのこだわりは戦中世代の広く共有するものであった。

 コミンテルンの策謀とは全く異なった視点から、毛沢東は人民解放を企て、「国共合作」を実現した。コミンテルンの手先であった尾崎秀実は、コミンテルンの策謀を教科書的に受け取り、国民軍と日本軍との消耗戦を画策した。それだけだ。それで日本側も何人かが死んだのだ。それだけだ。それで、関東軍に加わった叔父の言葉を借りれば、中国人は「面白いほどに」死んで行ったのだ。

 小生の父はその自慢話を聞くに堪えず、いつも怒鳴り合いを演じ、しまいには家族を巻き添えにしていた。前述した叔父たちのうち二十歳前後で、どこかあどけなく若かった二人はフィリピンと東南アジアで戦死したことになっているが何ひとつ帰ってきていない。「帰らず」戦死報告だけなのだ。父に一度、フィリピン戦線にいた手塚治虫が「野豚の肉」を食わされた話を話した。仲間食いが始まっていたというのだ。その話を聞いたときの父は両耳をふさぎ憎しみに身をよじりながら怒鳴り、「何でそんな話を俺にするのだ」、そして、泣き狂った。彼には思い当たるふしがあったのだ。

 尾崎秀実は主戦派として中央公論で論陣を張っていた。表向き、彼はスパイであったのではない。権力側の戦争鼓吹者であったのだ。(注三)

 小生にとっては、その二人の、戦死したことになっている叔父たちは死んでいない。死んだ証拠もないではないか。「非国民」は他者を罵る言葉として、現在でも日本国民の中に生きている。そして、小生も叔父たちも、その現在の「国民」を「人民/ people」として見ようとする「非国民」として生きているのである。

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  (注一)合法的な非国民になるためには、日本国大使館によれば日本外務省はすでに小生の国籍をサスペンドしているので(国家権力は正しいらしい)、あとは小生がサインをしに行けばよいだけの話しである。このように、国家のほうから憲法の精神を踏みにじり続ける歴史を日本の教育体制から最高裁まで貫いているのがこの国の現在だ。

 (注二)日本という国の風物を思う心は、すなわち、カントリー次元での郷愁は、いまだに強いのだが、憲法に反して、御国(自組織)一番、自分一番の国柄は好きにはなれない。それでいて、それだからこそ、アメリカの雑誌記事でWhy Japan is Begging Trump for Help という見出しが現れるような行動態度が身についてしまったのだろう。こんな世界でエリートになる連中の人間的な底を佐川という財務省の官僚は見事に提示してくれている。https://www.politico.com/magazine/story/2018/04/17/japan-donald-trump-shinzo-abe-218001

 (注三)私信に書いたものをそのまま「日本の方へ」というタイトルで思想の科学研究会会報一八六号で発表された。小生が書いたのかもしれないが、小生には「日本の方へ」というスタンスが精神構造の中に存在しない。従って、私信にそれを書いたことは引っ込めようがないが、友情をもって、責任の持てない形で掲載されたことに抗議したい。基本的には反「出世主義」論は大学解体論とともに小生の骨と肉を形成している。また「スパイ」を裏切ったと尾崎秀樹や加藤哲郎などのエリート主義者に追及されている人たちは、父母の戦後史の一歩先を歩んでいた。思想の科学社には牧瀬菊枝編著「九津見房子の暦」がある。

 

2012年以来、日本は異常な偽善と虚偽に生かされている。

安倍しかいない、というのはリーダーシップの日本における枯渇でしかない。左翼も現状に批判を持っていても、不満を持っているわけではない。この現状で長生きを始めているにすぎない。

国民は包囲されている。民主主義の構造的劣化と動脈硬化、そして機能不全の中で何回も選挙を迎えては自民党という偽善に投票箱を明け渡している。

国民はデモやストライキにも規制を受け、資本主義勢力のみが規制緩和の中にある。

ここで、国民は少数グループを組織して、それぞれのグループで公共の場、私的な場での安倍への包囲を始めるべきだろう。

たしかに安倍や麻生はマリオネットに過ぎない。今井尚哉をはじめに包囲して裁判にかける能力はあるだろう。

軍事産業をはじめとする財界の黒幕をはじめに裁判にかけることも可能であろう。

べつに罰を加える必要はない。暴力をふるう必要もない。国民はそれぞれの風格を裁判で示す必要がある。

日本国の司法は現在、内閣に支配されている反憲法状態であるが、主権者である国民はこの現状を打破できる。

もはや、これ以上、政治の偽善を放置することは日本国民の可能性を放棄することと同じであろう。

この記事は「ちきゅう座」の交流の広場に掲載されたもの。番号が手違いで欠けていたところがあり、補足して、一部に手を加えた。

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最近、十数年ぶりに池袋駅から立教大学を歩くことがあった。そのとき断続的に脳裏に浮かんだことを書き留めておく。

1.以前、シールズSEALDSという学生たちの運動のプロセスで、立教大学が大会会場に予定されたが、大学側(吉岡知哉総長)はそれを拒否したという報道を見た。こちらは地球の反対側で、生きるために生きるのに必死であまり注意を払うことがなかった。しかし、その運動は2015年9月の安保法案強行採決で山場を迎えて下り坂になり、有名人を輩出はしたけれど、今では個々人の胸に収まっているかのようだ。そうではない、という運動が出てきてほしい。

2.立教学院は森永の勢力が強く、戦後のいくつかの森永製菓や森永乳業に関連する事件や隠れた事件に揺れている。学内には「松崎奨学金」という給付奨学金制度がある。松崎家は安倍首相の細君の家である。安倍昭惠は立教大学の修士課程を出ている。おそらくは安倍首相に推薦されただろう立教大学初の最高裁判事木澤克行氏は立教学院生え抜きの学生だった。現在、彼は立教学院の理事でもある。

3.高校を出て2年間の放浪は、日大闘争(岸信介の僚友だった古田会頭体制:38億円使途不明金)や佐藤政権の日米軍事同盟阻止に向けた羽田以後の街頭闘争の後で、個人的に厳しい執着と迷いと錯乱の日々であった。二年目には中央大学と立教がまだ授業料で手に届くところにあった。家業の写真屋はポラロイドなどの前兆に父を狂わせていた。既に彼は戦後を酔いつぶして生き、私たちはそこに育った。夜中に酔って帰る父と印画の暗室で怒鳴りあい、また話し合うのだが家は泥沼に向かい、母の日常感覚だけで私たちは生を保っていた。ウェイターや結婚式場仕入課のアルバイトで渡す金を父は何度か私の前で破いて捨てた。大学に入って「自由について」というエッセイを立教の「学生部通信」に書いている。

4.2019年の11月に15年ぶりに立教の周辺を歩く機会があった。それ以前には気を付けて歩くことはなかったが、もう、池袋の公園わきにあった餃子会館や旭屋書店はないようであった。立教の通りに入るところにある交番は健全であったが、周辺は変わっていた。古い家屋を見るといちいち止まって眺めた。

5.1992年ごろ、高畠通敏を訪ねた際、すでに立教に腰を据えていた吉岡知哉が何か話をしていた。吉岡は立教内の行政に興味を示していた。大学構想の季節だったのかもしれない。既に北岡伸一は小沢一郎と普通の国論議をふるい、御厨貴などの面々も立教をバネにしていた。高畠は三谷太一郎氏への深い敬意を持っていた。吉岡の話を聞きながら、「一号館は残さないとね」と蔦のからまる校舎の肩を持つ茶々を入れると「あんな空間を無駄にしている建物はないですよ」と高畠のほうを見たまま吐き捨てていた。一瞬、高畠はいくぶん咎めるような目でこちらに視線を投げたが黙ってこの「東京大学法学部」から来た「植民地総督」気取りの話を聞いていた。その場には社会学の栗原彬もいた。高畠は立教大学法学部は東大の植民地であるということを冗談を交えて言うこともあったが、それは彼の痛切な経験にも依っている。

60年代に佐藤誠三郎が立教に就職したとき、何か月かして佐藤が東京大学教養学部の教師を兼任していたことが分かった。当時の立教の法学部の設計者であった尾形典男は「二股をかけているとは何事か」と東大法学部の学術委員をしていた丸山眞男を呼ぶと同時に、政治思想史を担当していた神島二郎にどういうことなのか事情を調べろと依頼した。神島が自分の研究室に佐藤を呼んで「調査」している現場を高畠は目撃し、その場から出てきた丸山眞男とかち合わせになったということを、彼は、死の寸前に立教の同窓会で作った高畠ゼミのブログに書いたことがある。その文章は何らかの圧力で消されてしまったが、高畠も東大法学部教授への機会を狙っていた一人であった。私に「岡義達氏はよく法学部教授の職を獲得できたものだ」とつぶやいたこともある。鶴見俊輔は高畠の亡くなった後、「口惜しい知性」という講演を同窓会の主催で行なっている。

6.立教の蔦のからまる校舎は、現在何と呼ばれているのか知らないが、古いまま健在である。「植民地総督」が総長を務めた期間、どのような力学が働いてその不経済な建物が保存されているのかは、これも寡聞にして知らないままである。北岡伸一氏は東大法学部教授からJAICAの理事長を勤めており、世代が逆であったならば、高畠に「出世主義」の本質を知らしめる良い材料になっていただろう。そして、吉岡知哉には「春琴抄」におけるジャン・ジャック・ルソー的な面があり、それが彼を立教に留まらせたのであろう。

7.立教にも大学闘争期の生き残りがのさばっていた。久野収氏のところにも顔を出しに行っていた二人組がいて、勉強もせんで、のさばっているという点では久野氏も高畠も同じ評価を下していた。高畠がメキシコにいる間に彼らの一人で万年大学院生をやっていた秋野晃司が法学部十年史を作るとかいうことになり、その際、自主講座を続けていた私はひどい侮辱を受けた。既に時事通信で記者をしていた安達功に「自主講座のことなど全く触れられていない」とコメントしたが彼には世代の異なった次元の挿話に過ぎないようであった。高畠が帰国した時点で、彼らのやっている嘘八百は既に印刷に付されていた。      高畠は一瞥するなり権幕を張って、そのいかさま十年史を反古にしてくれた。秋野は最近まで生活学学会の会長をしていた。日本の生活は嘘八百になっているだろう。

8.一年間、小説「黒の福音」の舞台となった会社で働き、いろいろアルバイトをしながら別の大学の大学院に通ったが、とにかく初めから借金で動いていた。院生の仲間にいろいろ助けてもらったことは忘れられない。しかし、指導教官に執拗なパワハラを受けてエレベーターの中で彼を殴った。小さいころから多様なリンチに会い続けていたので反撃できたことはうれしかった。高畠には別荘番に使ってくれたり、朝日新聞の新刊抄欄に世話をしてくれたり、心配をかけた。最後には、彼に無理を言ってメキシコに渡航した。

高畠と初対面の頃、高校時代に書いたものの一部を街頭闘争の合間に書いたと言って読んでもらった。由比忠之進の死を「無駄死」のように書いてある場所を激しく批判された。その際に、私の中学時代のリンチ体験などを話したが、容赦されなかった。由比忠之進の死から51年が経っていることを、今も肝に銘じている。

 9.在学中のある日、中学の同級生のお兄さんで東京外国語大学にいた人と立教通り近くの喫茶店で話をしたことがある。「おまえは、突っ込めと言えば突っ込んでいったからな。こんな平和なところにいて気が狂わないか?」「いや、今は女に気がくるっているよ。」

そんなことなどを思い出しながら、在学証明を事務にお願いした。応対してくれた女性は冷静で適切で確実な仕事をしてくれるタイプであった。大学という空間にあるあらゆる事象が、なぜかタイムカプセルのように感じられたのだが、それは私の大学解体論・日本の出世主義イデオロギーへのアンチテーゼと共存できる「保守」空間のように思われた。

10.プリウスで親子を轢いた事件の見分でもしようと思って池袋東口に出たが、少し歩いて完全に迷ってしまった。文芸座は、まだあるのだろうか?人に訊くことさえ、ためらわれた。山の手線は、脱毛や英会話、渡辺直美のコマーシャルに埋もれていた。もう私には、今の今からの日本の歴史意識を繰り返すような論評はできなくなっている。出来ることは、過去を振り返り、過去の時代のコンテキストに過去のいくつかの事象のコンテキストを探り続けることだろう。少なくとも、私には日本の元号は存在していないのだから。

 

(*以下は2019年8月18日、「ちきゅう座」に掲載されたもの。)

A)
二〇一二年十二月のメキシコの日本大使館での海外選挙にあたって私は投票権を拒否され、館員に外に連れ出され『国籍離脱届』へのサインを迫られた。それについて二〇一三年四月、『ちきゅう座』に『国籍と無国籍』という短文を書いた。それから六年以上たっている。しかし、そこに書いた事態は、全く進展していない。六年前、次のように書いた。
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小生は通算二七年メキシコに本拠を置いている。とはいえメキシコから北米への移住を考えたり何度かスペインに出かけて仕事を探したりしている。
現大統領がメキシコ州知事のころサン・サルバドル・アテンコの農民運動を弾圧しているのだが、その際に取材に当たっていたチリその他の取材陣を連邦政府は国外追放している。メキシコ憲法では外国人が政治に関与することを禁じているので、小生が政治学の講義をするたびに、ヒネた学生から突っつかれることもあったが、一度大学当局から脅され、日本大使館にも相談したが相手にしてくれず、館員を怒鳴りながら、一方では追放止めの行為としてメキシコ国籍をとった(二〇〇七年)。大使館は十か月くらい経ってから重い腰を上げたが、逆に大学側から「大学はそんな人権侵害はしない」と煙に巻かれて帰ってきた。これが警視庁所属の領事であるのだから小生並みに「国籍」を軽んじていると言えば言えよう。
ところが、しばらく経って日本大使館は国外投票の会場で小生の投票権を拒絶し、その場で「国籍離脱届」に強制的にサインさせようとした。小生は、あの時点でまったく腰抜けだった大使館側が、小生一人を相手にしてはかなり居丈高なのに驚いた。
なるほど国籍をとってからは政治的発言をとやかく言われないのでそれだけ楽だが、公務員などの職には就けない。十年以上、国を離れると私財を含めてすべて権利を失う。要するに完全な国籍ではない。
それを理由に小生自身の「民族意識」の元のほうから「国籍離脱」を迫られるとは、大きなお世話というか、親切きわまるというか、人権意識が田中義一内閣(前世紀初頭)なみというべきか。
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国籍離脱というのは憲法第二二条第2項で保障された日本人民の権利であるが、まさか大使館のほうから《国籍離脱届》にサインせよと脅迫を受ける手合いのものとは思わなかった。ここから大使館と私のバイアスは、権力的に脅迫するものと、権利であるべきものを強制されるものとの関係になってしまった。当時の駐墨大使は目賀田周一郎という男。脅迫の当事者は男女の若い職員だった。この一件のあとで、私は今に至るまで《国籍離脱》と《国籍離脱届》について何度も反芻して考えることになった。その際、御親切に《国籍離脱届》のフォーマットそのものを渡してくれたので自宅で何度もそれを眺め返していた。当時、私はサカテカス州で働いており、その後、サカテカスから月一回の週末を除くと帰ることはなかった。その間、日本大使館の所在地は、レフォルマ通り395番から同じ通りの243番のビル9階に変わっていた。
2016年3月、ビルの上のほうに大使館は移転していたが、その応接場所の形状というのがだんだん刑務所の面接室に似たようなものになっていた。入口で携帯電話や荷物を保管しなければならず、大使館員の勝手な言いがかりを録音することはできなくなった。また接客窓口では、何か物を渡したり引き取ったりするときには窓口の下に小箱があってそこに入れて譲渡するのである。領事部のある9階全体の雰囲気がちょっとした刑務所の面会室であり、出てくる官僚風情は機械的な笑顔でてきぱきとしている。最近の日本の官僚がどのような研修を受けて窓口にいるのかは知らないが、『ヤジ』という名の大使館員は私が以前相談した大野裕領事のことを「ああ、あの警察の人ね。」で片付けていた。

その後、彼『ヤジ』氏は、私のメキシコ外務省での国籍取得証明の認証印付コピーを誇らし気にかざしながら、ほら、ここにあんたがメキシコ国籍を取った証拠があるんだと、こちらに『国籍離脱証明』へのサインを強要し始めた。メキシコではこの認証印付き国籍取得証明は本人か本人の出身国の捜査関係の申請にしか発給されない。これを首を取ったかのようにガラス越しにかざしている『ヤジ』氏は涎を流しながら『あんたの国籍は既にサスペンドされているんだ。今すぐ国籍離脱届にサインしなさい』と命令してきた。話は深刻さの度合いを深めたのだが、こちらも少し前に痛めたひざが痛くていらだってきた。しかし、当時の山田彰駐墨大使の指南どおりに動いている忠僕に過ぎないにせよ、彼の顔は私人を見縊る官僚の笑顔をつき通していた。公人格の立場で彼は話し、こちらは私人としてメキシコ憲法第33条で脅迫された今までの経過を説明しているが、当初三回ほど大野裕領事とのやり取りを含め経過の責任を組織としてまったくとろうとしないまま公人格で、相手の過去の行きさつの説明内容に対して「わたしは知りません」を繰り返すのは卑怯だろうと思った。この大使館窓口内部の「わたし」は、自分では御存知ないのにサインは強制する、このような官僚つくりを外務省がしているとしたら亡国ものだろう。畜生国家ではあるまいし過去に自国市民を篭絡した記録の《文書管理》くらいはあるだろう。個々の案件に対する軽蔑は既に大使館は習慣として持っていて、その点の文書管理感覚は最近の日本企業や日本の官僚社会に共有されているが、そのような下地があるためだろう、彼は最後まで人を見縊っていた。

ことの深刻さを私人に預けたまま、自分たちの責任は国家組織のカーテン内部のことのように言うのはおかしいとは、大野裕にもざっくばらんに話したところだ。なぜなら、彼はメールでは「自己責任」めいた表現で当初『自分で解決しろ』というような返事を送ってきた。その時点では私は職場を追われてしまっているので解決もヘッタクレもない。森下という公使に国外追放の脅迫を受けているから相談に乗ってくれという旨のメールを送ったら大野氏の応対があった。その時点で「安全を期して国籍を取らざるを得なく手続きに入ろうとしている」と私は大野氏に報告している。

SNSのMIXIの『メキシコ永住組』コミュニティでは二〇〇〇年代はじめ頃「二重国籍」についての議論もよく行われていたのだが、何かのきっかけで、そのような言論の自由は閉ざされた。 「二重国籍」がなぜ嘗てそのコミュニティで議論され、そして消されてしまったかは、それなりに重要な歴史だろう。それを問い詰めないで、たぶん脅しを受けて逃げてしまった人々がいるのだが、そのような臆病風を利用して日系社会が成り立っているとしたらかわいそうな連中ではある。
B)
それから二年以上たった二〇一八年五月中ごろに、考えに考えた挙句、『国籍離脱届』へのサインを行ないに行った。たとえ、大使館による脅迫という機会であるにせよ、現在の、特に二〇一七年一〇月の参議院選挙の体たらくと、安倍内閣という無法者支配と人民の人権をも踏みにじる畜生国家化の中で、この際、正直に、素直に、大使館の意向に沿うと同時に、『ヤジ』氏の所謂、国籍をサスペンドされている非国民日本人としてのアイデンティティを確立しようというのがこちらの趣旨であった。その日のことは次のようにMIXIの『メキシコ永住組』の大使館窓口にてというコラムに記録してある。
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大使館に「国籍離脱届」へのサインをしに出かけたら「国籍喪失届」を差し出された。
1. 法務大臣宛の「国籍離脱届」にサインせよと二〇一二年末の海外選挙から再三、強制されていて、その理由は日本の国籍法に違反しているということ。外国で生活している日本の市民は、そこまで国内法で非難を受け続けなくてはならないのだろうか。
2. 実際には、何人かの長期在住者の中には日本から受勲されている人もいるが彼らの大半は重国籍者である。不公平な法制運用があるのではないか。実際、国籍を取得しないと自由に活動できない面がある。重国籍者を非難できないが、扱いの不公平が歴然として存在している。
3. 法務大臣宛の「国籍離脱届」を数年間突きつけておいて、いきなり大使・総領事宛の「国籍喪失届」なるものに変更した経過と趣意が見えない。いままで間違っていたというのが窓口の弁解だが、数年間、間違っていたというのもおかしな言い方ではないだろうか。国内の外国人増加に伴う重国籍合法化の前段階の法状況をも読み取れるにせよ、納得の行く説明をもらっていない。
4. 憲法には「国籍喪失」の定義がない。「国籍喪失」の意図を書く欄に「志望による他国籍の取得」も含んでいるが、意図して喪失する「処女喪失」の用語法なのであろうか。その言語的な意図もわからないが、大使館・公務員側から市民に対する権威主義的な弄びや狼藉を「喪失」の語彙から感受することもできる。市民側からすれば、この「喪失」は主体のかかった判断の外にあるのである。
5. 大使館側のいう「外務省はお前の国籍をサスペンドした」という事項に対する法的根拠がこの3年間小生の疑問として頭にこびりついている。確かに国内法では違反であるが、海外でさまざまな問題に巻き込まれ、やむをえない国内の国籍法違反になることは「能動的に生きる場合」は有りえるのではないか? 実際、小生は「外国人の癖にわれわれのルールに介入するのか!」とボス教師に怒鳴られたこともあるが「外国人にはその権利はないのでしょうか?」と聞いたら、アジア人に対する悪態をついて逃げていった。
件の外務省のやり方をじっくり検討する材料に憲法前文があるのだが、日本人が他国社会との「協働」を生きるうえで、なぜ国内法の国籍法で海外に生きる日本人の意味を限定したいのだろうか。日本人ではある。しかし、われわれは海外でいつも日本日本と言っていられないのである。重国籍が国内的には違法である現状を踏まえても、海外でのわれわれの努力を踏みにじるために、海外で生きるわれわれの足かせに国内法を振り回すのはおかしいのではないか。
外務省から一方的に日本国籍を「サスペンド」されたとすると、これは確実に憲法第二二条の意志的行動とは異なっている。その時、小生は国籍を喪失したのである。ではなぜ、わざわざ「喪失届」にサインしなければならないのであろうか。非意志的にサスペンドされ、喪失しているわけであって既に「喪失」という既成事実があるのではないか。市民側が各自の意思に反して、重国籍を取っていたにせよ、それを取りしまる日本国家が各国家のテリトリーを無視して国内法を海外の自国市民に適用するのは越権なのではないだろうか。件の『ヤジ』氏から「お前は法律違反をしているんだぞ」と窓口で言われたが、そうならないようにこちらから大使館に国外追放の脅迫を相談に行った事実を忘れるべきではなかろう。
6. この間、日本における国会議員の中にも何人かの重国籍者がいると指摘され、その国内における違法性が指弾されていた。日本国民は憲法前文の国境観をどのように体得しているのだろうか。違憲立法審査システムの日本国家における脆弱性を誰も痛感しなかったに違いない。そして、この場合、なぜ「国籍喪失」のコンセプトが適用されなかったのであろうか。国内にいるうえに国会議員という要職についているではないか。
7. 二〇一二年から、執拗な形で大使館の若い大使館員から他者への尊重の気配もない強権的な態度で「国籍離脱届」へのサインを強要されてきた。彼らが市民に対して取る態度を大使館や外務省の現状から学んできたのは痛いほどわかる。この18日に高畑とかいう女性館員は初めて小生に説明らしき説明をしてくれた。他の連中は常に違反や再入国についての脅迫を行なってきた。このような組織教育を日本国民は許し続けるつもりなのだろうか??
8. 支払済み保険について大使館は「知らない」そうである。彼らが排除し、足蹴りし、いじめ続けている市民に対して、全くの犬畜生扱いをしているのは、これをもっても明らかだろう。これも現在の日本国民の生活意識の一部なのであろうか? 自民党の政治家という動物たちの意識には違いないだろうが。
9. このような調子であるから、大使館や外務省に、果たして他国、海外地元の民衆に対する理解があるかどうかは大きな疑問であろう。憲法前文は全く彼らの心情に生きていないのではないか? 他国民との協調を見ることなく、日本人を地元民から分け隔て、日本日本の日本節ではみっともないだけではないか?
10. メキシコは帰化人の重国籍を禁じているが、メキシコ生まれのメキシコ人は多国籍が許されている。その不公平をカバーするために元の国籍放棄の手続きの証拠を帰化したわれわれには強要していない。しかし繰り返すが、日本大使館は、小生に「国籍離脱届」にサインを強要する際、メキシコへの小生の「国籍取得証明書」のコピーを何度も見せている。メキシコ外務省のスタンスは重国籍が表ざたになったら非合法だという態度を示すが、実質的に「帰化」のコンセプトが日本とは異なっている。大使館が他国の証明書を振りかざすこと自体、これは実質的には日本大使館側の一市民に対する勝手な介入であるとも言える。アメリカも自国では重国籍を禁じているが、小生の知っているほとんどのアメリカからのメキシコへの帰化者は重国籍のままである。小生はメキシコ国籍取得後は日本に行く気を失っている。法務省宛の「国籍離脱届」にサインさせていただきたい。
この結果、小生の子供たちは日本人になるためには極めて厳しい努力を重ねなければならなくなるのである。そのような子供たちの前に日本国家は頑固に仁王立ちしている。それはそれでこれからの問題だろう。小生は現在の日本国内の「国民」には戦後の日本の根幹が失われているという判断をしているに過ぎない。 また日本に住む機会があれば、そのまま日本市民として復帰するつもりでもある。たとえばヤジ大使館員に小生の国籍はサスペンドされたと言われたが、これで、「国籍喪失届」を行なう以前に、小生の日本国籍はなくなったと判断するのは普通ではなかろうか。国籍法第十一条は帝国主義的にも、そうニホンジンを規定しているのだ。
実際、「国籍喪失届」というのは屋上屋を架すに等しいとも、判断できる。外務省に聞きたい。
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この『非国民日本人』のスタンスについては『国籍離脱届』へのサインの背景として思想の科学研究会会報188号,2018年8月6日発行文に「非国民エピソード」という一文を書いた。また軍事部品の入札業者も関与している二重国籍要求裁判が日本で起こされている。以下に引用する。
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*外国籍取得したら日本国籍喪失」は違憲 8人提訴へ*
2018年02月25日 05:25 朝日新聞デジタル
日本人として生まれても、外国籍を取ると日本国籍を失うとする国籍法の規定は憲法違反だとして、欧州在住の元日本国籍保持者ら8人が国籍回復などを求める訴訟を来月、東京地裁に起こす。弁護団によると、この規定の無効を求める訴訟は初めてという。
弁護団によると、原告はスイスやフランスなどに住む8人。すでに外国籍を得た6人は日本国籍を失っていないことの確認などを、残り2人は将来の外国籍取得後の国籍維持の確認を求めている。
原告側が争点とするのは「日本国民は、自己の志望によつて外国の国籍を取得したときは、日本の国籍を失う」とした国籍法11条1項の有効性だ。
原告側は、この条項が、「兵役義務」の観点などから重国籍を認めなかった旧憲法下の国籍法から、そのまま今の国籍法に受け継がれていると主張。年月とともに明治以来の「国籍単一」の理想と、グローバル化の現実の隔たりが進んだ、としている。
現憲法13条の「国民の幸福追求権」や22条2項が保障する「国籍離脱の自由」に基づき、「国民は日本国籍を離脱するか自由に決めることができ、外国籍を取っても、日本国籍を持つ権利が保障されている」として、条項が無効だと訴えている。
国籍法では、重国籍となった場合、22歳までか取得後2年以内の国籍選択が義務づけられているが、申告制で罰則規定もない。
日本国籍を持つ人が外国で働いたり住んだりする際、外国籍を取る例はよくある。原告団代表の実業家で、バーゼル日本人会会長の野川等さん(74)は、経営する会社がスイスの防衛分野の公共入札に参画するため、スイス国籍が必要だったという。原告の1人は「正直に重国籍状態を申告した人だけが日本国籍を失う」と話す。
原告側は、国籍法11条1項が無効と認められた場合、重国籍の人が日本国籍を選択した後も、外国籍の取得が禁じられるわけではないので、両方の国籍を維持する道が開けると考えている。
弁護団の仲晃生弁護士は「原告らは、日本への愛着や日本で暮らす家族とのつながりなどから、外国籍取得後も日本国籍を持つことを望んでいる」とし、日本国民が生活や活躍の場を日本内外に広げる時代に、日本国籍が奪われるのはおかしいと話す。
重国籍を巡っては、台湾人の父と日本人の母の間に生まれた参院議員の蓮舫氏が2016年、「台湾籍が残っているのではないか」と批判を浴び、台湾籍離脱の立証を求められたことがあった。
*重国籍認める国も*
外務省によると、2016年10月時点で海外に永住する在留邦人の数は約46万8千人に上る。このうち、重国籍状態にある人の数はよく分かっていない。
海外に長年住む邦人家庭では、事業や就職などで現地国籍の取得が必要になることも多い。国際結婚も一般的になり、重国籍状態で生まれる子どもも増えた。
欧米では重国籍を認めている国もあり、海外在留邦人の間では「重国籍者は日本に出入国する際だけ日本のパスポートを使い、居住する国では就労などのために現地国籍を使うことが多い」(原告の1人)という。実際、インターネット上ではこうしたパスポートの使い分けについての情報交換が盛んだ。
法務省によると、12~16年に外国籍を選択するなどして国籍を喪失した人は、年約700~1千人程度で、重国籍状態を申告しない人は多いとみられている。(ジュネーブ=松尾一郎)
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国際私法の上では『国籍離脱』と『国籍喪失』は、国家に対する権利と、国家からの行使という概念上の大きな差異を持つ法手続きであり、私は大使館から手渡しされた時点まで日本という国に、しかも法務大臣宛に『国籍離脱届』というフォーマットがあることを知らなかった。それはそれでいい経験であったことはいうを待たない。その脅迫が数年続けられたことに対しては脅迫罪の嫌疑で目賀田周一郎と山田彰の両元大使に対する裁断を外務省に問い質したい。私は、当初から物々しく脅迫の形をとらずに、法的説明能力を前例の解説を含めて発揮してくれていれば問題はなかったと見ている。また国家からの行使である『国籍喪失届』が大使館宛であることも非常に興味深い。これを数年間、間違えていましたという解説は完全に海外在住者を犬畜生並みに侮っているのであって、われわれの『時間』を愚弄するものだろう。週を改めて現在の領事である清水一良氏の説明を再度聞く所存である。
また『二重国籍』一般については私も本来、否定的な立場であり(週刊『金曜日』541号、2005年1月21日)、メキシコ憲法第33条の適用をメキシコ国立自治大学の有力者(私のいたプランテルの現学長。最近彼に学士証明がないことが発覚しているが、彼によって私は2007年以降、そのプランテルでの教職をはずされている《Correo Ilstrado, La Jornada, 12 de febrero, 2007》。また彼自身がスペイン国籍の二重国籍者なのも最近知った。)によって脅迫されることがなければメキシコにおける『外国人』を通したかもしれない。これも、今となっては運命に感謝している。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8910:190818〕

  • 2019年 8月 18日