この記事は「ちきゅう座」の交流の広場に掲載されたもの。番号が手違いで欠けていたところがあり、補足して、一部に手を加えた。

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最近、十数年ぶりに池袋駅から立教大学を歩くことがあった。そのとき断続的に脳裏に浮かんだことを書き留めておく。

1.以前、シールズSEALDSという学生たちの運動のプロセスで、立教大学が大会会場に予定されたが、大学側(吉岡知哉総長)はそれを拒否したという報道を見た。こちらは地球の反対側で、生きるために生きるのに必死であまり注意を払うことがなかった。しかし、その運動は2015年9月の安保法案強行採決で山場を迎えて下り坂になり、有名人を輩出はしたけれど、今では個々人の胸に収まっているかのようだ。そうではない、という運動が出てきてほしい。

2.立教学院は森永の勢力が強く、戦後のいくつかの森永製菓や森永乳業に関連する事件や隠れた事件に揺れている。学内には「松崎奨学金」という給付奨学金制度がある。松崎家は安倍首相の細君の家である。安倍昭惠は立教大学の修士課程を出ている。おそらくは安倍首相に推薦されただろう立教大学初の最高裁判事木澤克行氏は立教学院生え抜きの学生だった。現在、彼は立教学院の理事でもある。

3.高校を出て2年間の放浪は、日大闘争(岸信介の僚友だった古田会頭体制:38億円使途不明金)や佐藤政権の日米軍事同盟阻止に向けた羽田以後の街頭闘争の後で、個人的に厳しい執着と迷いと錯乱の日々であった。二年目には中央大学と立教がまだ授業料で手に届くところにあった。家業の写真屋はポラロイドなどの前兆に父を狂わせていた。既に彼は戦後を酔いつぶして生き、私たちはそこに育った。夜中に酔って帰る父と印画の暗室で怒鳴りあい、また話し合うのだが家は泥沼に向かい、母の日常感覚だけで私たちは生を保っていた。ウェイターや結婚式場仕入課のアルバイトで渡す金を父は何度か私の前で破いて捨てた。大学に入って「自由について」というエッセイを立教の「学生部通信」に書いている。

4.2019年の11月に15年ぶりに立教の周辺を歩く機会があった。それ以前には気を付けて歩くことはなかったが、もう、池袋の公園わきにあった餃子会館や旭屋書店はないようであった。立教の通りに入るところにある交番は健全であったが、周辺は変わっていた。古い家屋を見るといちいち止まって眺めた。

5.1992年ごろ、高畠通敏を訪ねた際、すでに立教に腰を据えていた吉岡知哉が何か話をしていた。吉岡は立教内の行政に興味を示していた。大学構想の季節だったのかもしれない。既に北岡伸一は小沢一郎と普通の国論議をふるい、御厨貴などの面々も立教をバネにしていた。高畠は三谷太一郎氏への深い敬意を持っていた。吉岡の話を聞きながら、「一号館は残さないとね」と蔦のからまる校舎の肩を持つ茶々を入れると「あんな空間を無駄にしている建物はないですよ」と高畠のほうを見たまま吐き捨てていた。一瞬、高畠はいくぶん咎めるような目でこちらに視線を投げたが黙ってこの「東京大学法学部」から来た「植民地総督」気取りの話を聞いていた。その場には社会学の栗原彬もいた。高畠は立教大学法学部は東大の植民地であるということを冗談を交えて言うこともあったが、それは彼の痛切な経験にも依っている。

60年代に佐藤誠三郎が立教に就職したとき、何か月かして佐藤が東京大学教養学部の教師を兼任していたことが分かった。当時の立教の法学部の設計者であった尾形典男は「二股をかけているとは何事か」と東大法学部の学術委員をしていた丸山眞男を呼ぶと同時に、政治思想史を担当していた神島二郎にどういうことなのか事情を調べろと依頼した。神島が自分の研究室に佐藤を呼んで「調査」している現場を高畠は目撃し、その場から出てきた丸山眞男とかち合わせになったということを、彼は、死の寸前に立教の同窓会で作った高畠ゼミのブログに書いたことがある。その文章は何らかの圧力で消されてしまったが、高畠も東大法学部教授への機会を狙っていた一人であった。私に「岡義達氏はよく法学部教授の職を獲得できたものだ」とつぶやいたこともある。鶴見俊輔は高畠の亡くなった後、「口惜しい知性」という講演を同窓会の主催で行なっている。

6.立教の蔦のからまる校舎は、現在何と呼ばれているのか知らないが、古いまま健在である。「植民地総督」が総長を務めた期間、どのような力学が働いてその不経済な建物が保存されているのかは、これも寡聞にして知らないままである。北岡伸一氏は東大法学部教授からJAICAの理事長を勤めており、世代が逆であったならば、高畠に「出世主義」の本質を知らしめる良い材料になっていただろう。そして、吉岡知哉には「春琴抄」におけるジャン・ジャック・ルソー的な面があり、それが彼を立教に留まらせたのであろう。

7.立教にも大学闘争期の生き残りがのさばっていた。久野収氏のところにも顔を出しに行っていた二人組がいて、勉強もせんで、のさばっているという点では久野氏も高畠も同じ評価を下していた。高畠がメキシコにいる間に彼らの一人で万年大学院生をやっていた秋野晃司が法学部十年史を作るとかいうことになり、その際、自主講座を続けていた私はひどい侮辱を受けた。既に時事通信で記者をしていた安達功に「自主講座のことなど全く触れられていない」とコメントしたが彼には世代の異なった次元の挿話に過ぎないようであった。高畠が帰国した時点で、彼らのやっている嘘八百は既に印刷に付されていた。      高畠は一瞥するなり権幕を張って、そのいかさま十年史を反古にしてくれた。秋野は最近まで生活学学会の会長をしていた。日本の生活は嘘八百になっているだろう。

8.一年間、小説「黒の福音」の舞台となった会社で働き、いろいろアルバイトをしながら別の大学の大学院に通ったが、とにかく初めから借金で動いていた。院生の仲間にいろいろ助けてもらったことは忘れられない。しかし、指導教官に執拗なパワハラを受けてエレベーターの中で彼を殴った。小さいころから多様なリンチに会い続けていたので反撃できたことはうれしかった。高畠には別荘番に使ってくれたり、朝日新聞の新刊抄欄に世話をしてくれたり、心配をかけた。最後には、彼に無理を言ってメキシコに渡航した。

高畠と初対面の頃、高校時代に書いたものの一部を街頭闘争の合間に書いたと言って読んでもらった。由比忠之進の死を「無駄死」のように書いてある場所を激しく批判された。その際に、私の中学時代のリンチ体験などを話したが、容赦されなかった。由比忠之進の死から51年が経っていることを、今も肝に銘じている。

 9.在学中のある日、中学の同級生のお兄さんで東京外国語大学にいた人と立教通り近くの喫茶店で話をしたことがある。「おまえは、突っ込めと言えば突っ込んでいったからな。こんな平和なところにいて気が狂わないか?」「いや、今は女に気がくるっているよ。」

そんなことなどを思い出しながら、在学証明を事務にお願いした。応対してくれた女性は冷静で適切で確実な仕事をしてくれるタイプであった。大学という空間にあるあらゆる事象が、なぜかタイムカプセルのように感じられたのだが、それは私の大学解体論・日本の出世主義イデオロギーへのアンチテーゼと共存できる「保守」空間のように思われた。

10.プリウスで親子を轢いた事件の見分でもしようと思って池袋東口に出たが、少し歩いて完全に迷ってしまった。文芸座は、まだあるのだろうか?人に訊くことさえ、ためらわれた。山の手線は、脱毛や英会話、渡辺直美のコマーシャルに埋もれていた。もう私には、今の今からの日本の歴史意識を繰り返すような論評はできなくなっている。出来ることは、過去を振り返り、過去の時代のコンテキストに過去のいくつかの事象のコンテキストを探り続けることだろう。少なくとも、私には日本の元号は存在していないのだから。

 

(*以下は2019年8月18日、「ちきゅう座」に掲載されたもの。)

A)
二〇一二年十二月のメキシコの日本大使館での海外選挙にあたって私は投票権を拒否され、館員に外に連れ出され『国籍離脱届』へのサインを迫られた。それについて二〇一三年四月、『ちきゅう座』に『国籍と無国籍』という短文を書いた。それから六年以上たっている。しかし、そこに書いた事態は、全く進展していない。六年前、次のように書いた。
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小生は通算二七年メキシコに本拠を置いている。とはいえメキシコから北米への移住を考えたり何度かスペインに出かけて仕事を探したりしている。
現大統領がメキシコ州知事のころサン・サルバドル・アテンコの農民運動を弾圧しているのだが、その際に取材に当たっていたチリその他の取材陣を連邦政府は国外追放している。メキシコ憲法では外国人が政治に関与することを禁じているので、小生が政治学の講義をするたびに、ヒネた学生から突っつかれることもあったが、一度大学当局から脅され、日本大使館にも相談したが相手にしてくれず、館員を怒鳴りながら、一方では追放止めの行為としてメキシコ国籍をとった(二〇〇七年)。大使館は十か月くらい経ってから重い腰を上げたが、逆に大学側から「大学はそんな人権侵害はしない」と煙に巻かれて帰ってきた。これが警視庁所属の領事であるのだから小生並みに「国籍」を軽んじていると言えば言えよう。
ところが、しばらく経って日本大使館は国外投票の会場で小生の投票権を拒絶し、その場で「国籍離脱届」に強制的にサインさせようとした。小生は、あの時点でまったく腰抜けだった大使館側が、小生一人を相手にしてはかなり居丈高なのに驚いた。
なるほど国籍をとってからは政治的発言をとやかく言われないのでそれだけ楽だが、公務員などの職には就けない。十年以上、国を離れると私財を含めてすべて権利を失う。要するに完全な国籍ではない。
それを理由に小生自身の「民族意識」の元のほうから「国籍離脱」を迫られるとは、大きなお世話というか、親切きわまるというか、人権意識が田中義一内閣(前世紀初頭)なみというべきか。
・・・・・・・・・
国籍離脱というのは憲法第二二条第2項で保障された日本人民の権利であるが、まさか大使館のほうから《国籍離脱届》にサインせよと脅迫を受ける手合いのものとは思わなかった。ここから大使館と私のバイアスは、権力的に脅迫するものと、権利であるべきものを強制されるものとの関係になってしまった。当時の駐墨大使は目賀田周一郎という男。脅迫の当事者は男女の若い職員だった。この一件のあとで、私は今に至るまで《国籍離脱》と《国籍離脱届》について何度も反芻して考えることになった。その際、御親切に《国籍離脱届》のフォーマットそのものを渡してくれたので自宅で何度もそれを眺め返していた。当時、私はサカテカス州で働いており、その後、サカテカスから月一回の週末を除くと帰ることはなかった。その間、日本大使館の所在地は、レフォルマ通り395番から同じ通りの243番のビル9階に変わっていた。
2016年3月、ビルの上のほうに大使館は移転していたが、その応接場所の形状というのがだんだん刑務所の面接室に似たようなものになっていた。入口で携帯電話や荷物を保管しなければならず、大使館員の勝手な言いがかりを録音することはできなくなった。また接客窓口では、何か物を渡したり引き取ったりするときには窓口の下に小箱があってそこに入れて譲渡するのである。領事部のある9階全体の雰囲気がちょっとした刑務所の面会室であり、出てくる官僚風情は機械的な笑顔でてきぱきとしている。最近の日本の官僚がどのような研修を受けて窓口にいるのかは知らないが、『ヤジ』という名の大使館員は私が以前相談した大野裕領事のことを「ああ、あの警察の人ね。」で片付けていた。

その後、彼『ヤジ』氏は、私のメキシコ外務省での国籍取得証明の認証印付コピーを誇らし気にかざしながら、ほら、ここにあんたがメキシコ国籍を取った証拠があるんだと、こちらに『国籍離脱証明』へのサインを強要し始めた。メキシコではこの認証印付き国籍取得証明は本人か本人の出身国の捜査関係の申請にしか発給されない。これを首を取ったかのようにガラス越しにかざしている『ヤジ』氏は涎を流しながら『あんたの国籍は既にサスペンドされているんだ。今すぐ国籍離脱届にサインしなさい』と命令してきた。話は深刻さの度合いを深めたのだが、こちらも少し前に痛めたひざが痛くていらだってきた。しかし、当時の山田彰駐墨大使の指南どおりに動いている忠僕に過ぎないにせよ、彼の顔は私人を見縊る官僚の笑顔をつき通していた。公人格の立場で彼は話し、こちらは私人としてメキシコ憲法第33条で脅迫された今までの経過を説明しているが、当初三回ほど大野裕領事とのやり取りを含め経過の責任を組織としてまったくとろうとしないまま公人格で、相手の過去の行きさつの説明内容に対して「わたしは知りません」を繰り返すのは卑怯だろうと思った。この大使館窓口内部の「わたし」は、自分では御存知ないのにサインは強制する、このような官僚つくりを外務省がしているとしたら亡国ものだろう。畜生国家ではあるまいし過去に自国市民を篭絡した記録の《文書管理》くらいはあるだろう。個々の案件に対する軽蔑は既に大使館は習慣として持っていて、その点の文書管理感覚は最近の日本企業や日本の官僚社会に共有されているが、そのような下地があるためだろう、彼は最後まで人を見縊っていた。

ことの深刻さを私人に預けたまま、自分たちの責任は国家組織のカーテン内部のことのように言うのはおかしいとは、大野裕にもざっくばらんに話したところだ。なぜなら、彼はメールでは「自己責任」めいた表現で当初『自分で解決しろ』というような返事を送ってきた。その時点では私は職場を追われてしまっているので解決もヘッタクレもない。森下という公使に国外追放の脅迫を受けているから相談に乗ってくれという旨のメールを送ったら大野氏の応対があった。その時点で「安全を期して国籍を取らざるを得なく手続きに入ろうとしている」と私は大野氏に報告している。

SNSのMIXIの『メキシコ永住組』コミュニティでは二〇〇〇年代はじめ頃「二重国籍」についての議論もよく行われていたのだが、何かのきっかけで、そのような言論の自由は閉ざされた。 「二重国籍」がなぜ嘗てそのコミュニティで議論され、そして消されてしまったかは、それなりに重要な歴史だろう。それを問い詰めないで、たぶん脅しを受けて逃げてしまった人々がいるのだが、そのような臆病風を利用して日系社会が成り立っているとしたらかわいそうな連中ではある。
B)
それから二年以上たった二〇一八年五月中ごろに、考えに考えた挙句、『国籍離脱届』へのサインを行ないに行った。たとえ、大使館による脅迫という機会であるにせよ、現在の、特に二〇一七年一〇月の参議院選挙の体たらくと、安倍内閣という無法者支配と人民の人権をも踏みにじる畜生国家化の中で、この際、正直に、素直に、大使館の意向に沿うと同時に、『ヤジ』氏の所謂、国籍をサスペンドされている非国民日本人としてのアイデンティティを確立しようというのがこちらの趣旨であった。その日のことは次のようにMIXIの『メキシコ永住組』の大使館窓口にてというコラムに記録してある。
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大使館に「国籍離脱届」へのサインをしに出かけたら「国籍喪失届」を差し出された。
1. 法務大臣宛の「国籍離脱届」にサインせよと二〇一二年末の海外選挙から再三、強制されていて、その理由は日本の国籍法に違反しているということ。外国で生活している日本の市民は、そこまで国内法で非難を受け続けなくてはならないのだろうか。
2. 実際には、何人かの長期在住者の中には日本から受勲されている人もいるが彼らの大半は重国籍者である。不公平な法制運用があるのではないか。実際、国籍を取得しないと自由に活動できない面がある。重国籍者を非難できないが、扱いの不公平が歴然として存在している。
3. 法務大臣宛の「国籍離脱届」を数年間突きつけておいて、いきなり大使・総領事宛の「国籍喪失届」なるものに変更した経過と趣意が見えない。いままで間違っていたというのが窓口の弁解だが、数年間、間違っていたというのもおかしな言い方ではないだろうか。国内の外国人増加に伴う重国籍合法化の前段階の法状況をも読み取れるにせよ、納得の行く説明をもらっていない。
4. 憲法には「国籍喪失」の定義がない。「国籍喪失」の意図を書く欄に「志望による他国籍の取得」も含んでいるが、意図して喪失する「処女喪失」の用語法なのであろうか。その言語的な意図もわからないが、大使館・公務員側から市民に対する権威主義的な弄びや狼藉を「喪失」の語彙から感受することもできる。市民側からすれば、この「喪失」は主体のかかった判断の外にあるのである。
5. 大使館側のいう「外務省はお前の国籍をサスペンドした」という事項に対する法的根拠がこの3年間小生の疑問として頭にこびりついている。確かに国内法では違反であるが、海外でさまざまな問題に巻き込まれ、やむをえない国内の国籍法違反になることは「能動的に生きる場合」は有りえるのではないか? 実際、小生は「外国人の癖にわれわれのルールに介入するのか!」とボス教師に怒鳴られたこともあるが「外国人にはその権利はないのでしょうか?」と聞いたら、アジア人に対する悪態をついて逃げていった。
件の外務省のやり方をじっくり検討する材料に憲法前文があるのだが、日本人が他国社会との「協働」を生きるうえで、なぜ国内法の国籍法で海外に生きる日本人の意味を限定したいのだろうか。日本人ではある。しかし、われわれは海外でいつも日本日本と言っていられないのである。重国籍が国内的には違法である現状を踏まえても、海外でのわれわれの努力を踏みにじるために、海外で生きるわれわれの足かせに国内法を振り回すのはおかしいのではないか。
外務省から一方的に日本国籍を「サスペンド」されたとすると、これは確実に憲法第二二条の意志的行動とは異なっている。その時、小生は国籍を喪失したのである。ではなぜ、わざわざ「喪失届」にサインしなければならないのであろうか。非意志的にサスペンドされ、喪失しているわけであって既に「喪失」という既成事実があるのではないか。市民側が各自の意思に反して、重国籍を取っていたにせよ、それを取りしまる日本国家が各国家のテリトリーを無視して国内法を海外の自国市民に適用するのは越権なのではないだろうか。件の『ヤジ』氏から「お前は法律違反をしているんだぞ」と窓口で言われたが、そうならないようにこちらから大使館に国外追放の脅迫を相談に行った事実を忘れるべきではなかろう。
6. この間、日本における国会議員の中にも何人かの重国籍者がいると指摘され、その国内における違法性が指弾されていた。日本国民は憲法前文の国境観をどのように体得しているのだろうか。違憲立法審査システムの日本国家における脆弱性を誰も痛感しなかったに違いない。そして、この場合、なぜ「国籍喪失」のコンセプトが適用されなかったのであろうか。国内にいるうえに国会議員という要職についているではないか。
7. 二〇一二年から、執拗な形で大使館の若い大使館員から他者への尊重の気配もない強権的な態度で「国籍離脱届」へのサインを強要されてきた。彼らが市民に対して取る態度を大使館や外務省の現状から学んできたのは痛いほどわかる。この18日に高畑とかいう女性館員は初めて小生に説明らしき説明をしてくれた。他の連中は常に違反や再入国についての脅迫を行なってきた。このような組織教育を日本国民は許し続けるつもりなのだろうか??
8. 支払済み保険について大使館は「知らない」そうである。彼らが排除し、足蹴りし、いじめ続けている市民に対して、全くの犬畜生扱いをしているのは、これをもっても明らかだろう。これも現在の日本国民の生活意識の一部なのであろうか? 自民党の政治家という動物たちの意識には違いないだろうが。
9. このような調子であるから、大使館や外務省に、果たして他国、海外地元の民衆に対する理解があるかどうかは大きな疑問であろう。憲法前文は全く彼らの心情に生きていないのではないか? 他国民との協調を見ることなく、日本人を地元民から分け隔て、日本日本の日本節ではみっともないだけではないか?
10. メキシコは帰化人の重国籍を禁じているが、メキシコ生まれのメキシコ人は多国籍が許されている。その不公平をカバーするために元の国籍放棄の手続きの証拠を帰化したわれわれには強要していない。しかし繰り返すが、日本大使館は、小生に「国籍離脱届」にサインを強要する際、メキシコへの小生の「国籍取得証明書」のコピーを何度も見せている。メキシコ外務省のスタンスは重国籍が表ざたになったら非合法だという態度を示すが、実質的に「帰化」のコンセプトが日本とは異なっている。大使館が他国の証明書を振りかざすこと自体、これは実質的には日本大使館側の一市民に対する勝手な介入であるとも言える。アメリカも自国では重国籍を禁じているが、小生の知っているほとんどのアメリカからのメキシコへの帰化者は重国籍のままである。小生はメキシコ国籍取得後は日本に行く気を失っている。法務省宛の「国籍離脱届」にサインさせていただきたい。
この結果、小生の子供たちは日本人になるためには極めて厳しい努力を重ねなければならなくなるのである。そのような子供たちの前に日本国家は頑固に仁王立ちしている。それはそれでこれからの問題だろう。小生は現在の日本国内の「国民」には戦後の日本の根幹が失われているという判断をしているに過ぎない。 また日本に住む機会があれば、そのまま日本市民として復帰するつもりでもある。たとえばヤジ大使館員に小生の国籍はサスペンドされたと言われたが、これで、「国籍喪失届」を行なう以前に、小生の日本国籍はなくなったと判断するのは普通ではなかろうか。国籍法第十一条は帝国主義的にも、そうニホンジンを規定しているのだ。
実際、「国籍喪失届」というのは屋上屋を架すに等しいとも、判断できる。外務省に聞きたい。
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この『非国民日本人』のスタンスについては『国籍離脱届』へのサインの背景として思想の科学研究会会報188号,2018年8月6日発行文に「非国民エピソード」という一文を書いた。また軍事部品の入札業者も関与している二重国籍要求裁判が日本で起こされている。以下に引用する。
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*外国籍取得したら日本国籍喪失」は違憲 8人提訴へ*
2018年02月25日 05:25 朝日新聞デジタル
日本人として生まれても、外国籍を取ると日本国籍を失うとする国籍法の規定は憲法違反だとして、欧州在住の元日本国籍保持者ら8人が国籍回復などを求める訴訟を来月、東京地裁に起こす。弁護団によると、この規定の無効を求める訴訟は初めてという。
弁護団によると、原告はスイスやフランスなどに住む8人。すでに外国籍を得た6人は日本国籍を失っていないことの確認などを、残り2人は将来の外国籍取得後の国籍維持の確認を求めている。
原告側が争点とするのは「日本国民は、自己の志望によつて外国の国籍を取得したときは、日本の国籍を失う」とした国籍法11条1項の有効性だ。
原告側は、この条項が、「兵役義務」の観点などから重国籍を認めなかった旧憲法下の国籍法から、そのまま今の国籍法に受け継がれていると主張。年月とともに明治以来の「国籍単一」の理想と、グローバル化の現実の隔たりが進んだ、としている。
現憲法13条の「国民の幸福追求権」や22条2項が保障する「国籍離脱の自由」に基づき、「国民は日本国籍を離脱するか自由に決めることができ、外国籍を取っても、日本国籍を持つ権利が保障されている」として、条項が無効だと訴えている。
国籍法では、重国籍となった場合、22歳までか取得後2年以内の国籍選択が義務づけられているが、申告制で罰則規定もない。
日本国籍を持つ人が外国で働いたり住んだりする際、外国籍を取る例はよくある。原告団代表の実業家で、バーゼル日本人会会長の野川等さん(74)は、経営する会社がスイスの防衛分野の公共入札に参画するため、スイス国籍が必要だったという。原告の1人は「正直に重国籍状態を申告した人だけが日本国籍を失う」と話す。
原告側は、国籍法11条1項が無効と認められた場合、重国籍の人が日本国籍を選択した後も、外国籍の取得が禁じられるわけではないので、両方の国籍を維持する道が開けると考えている。
弁護団の仲晃生弁護士は「原告らは、日本への愛着や日本で暮らす家族とのつながりなどから、外国籍取得後も日本国籍を持つことを望んでいる」とし、日本国民が生活や活躍の場を日本内外に広げる時代に、日本国籍が奪われるのはおかしいと話す。
重国籍を巡っては、台湾人の父と日本人の母の間に生まれた参院議員の蓮舫氏が2016年、「台湾籍が残っているのではないか」と批判を浴び、台湾籍離脱の立証を求められたことがあった。
*重国籍認める国も*
外務省によると、2016年10月時点で海外に永住する在留邦人の数は約46万8千人に上る。このうち、重国籍状態にある人の数はよく分かっていない。
海外に長年住む邦人家庭では、事業や就職などで現地国籍の取得が必要になることも多い。国際結婚も一般的になり、重国籍状態で生まれる子どもも増えた。
欧米では重国籍を認めている国もあり、海外在留邦人の間では「重国籍者は日本に出入国する際だけ日本のパスポートを使い、居住する国では就労などのために現地国籍を使うことが多い」(原告の1人)という。実際、インターネット上ではこうしたパスポートの使い分けについての情報交換が盛んだ。
法務省によると、12~16年に外国籍を選択するなどして国籍を喪失した人は、年約700~1千人程度で、重国籍状態を申告しない人は多いとみられている。(ジュネーブ=松尾一郎)
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国際私法の上では『国籍離脱』と『国籍喪失』は、国家に対する権利と、国家からの行使という概念上の大きな差異を持つ法手続きであり、私は大使館から手渡しされた時点まで日本という国に、しかも法務大臣宛に『国籍離脱届』というフォーマットがあることを知らなかった。それはそれでいい経験であったことはいうを待たない。その脅迫が数年続けられたことに対しては脅迫罪の嫌疑で目賀田周一郎と山田彰の両元大使に対する裁断を外務省に問い質したい。私は、当初から物々しく脅迫の形をとらずに、法的説明能力を前例の解説を含めて発揮してくれていれば問題はなかったと見ている。また国家からの行使である『国籍喪失届』が大使館宛であることも非常に興味深い。これを数年間、間違えていましたという解説は完全に海外在住者を犬畜生並みに侮っているのであって、われわれの『時間』を愚弄するものだろう。週を改めて現在の領事である清水一良氏の説明を再度聞く所存である。
また『二重国籍』一般については私も本来、否定的な立場であり(週刊『金曜日』541号、2005年1月21日)、メキシコ憲法第33条の適用をメキシコ国立自治大学の有力者(私のいたプランテルの現学長。最近彼に学士証明がないことが発覚しているが、彼によって私は2007年以降、そのプランテルでの教職をはずされている《Correo Ilstrado, La Jornada, 12 de febrero, 2007》。また彼自身がスペイン国籍の二重国籍者なのも最近知った。)によって脅迫されることがなければメキシコにおける『外国人』を通したかもしれない。これも、今となっては運命に感謝している。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8910:190818〕

  • 2019年 8月 18日
以下の文章は『フランシスコ・トレドのいないメキシコ』という題で日刊ベリタに発表されたもの。いくつか字句の間違いを訂正して、ここに再掲載する。
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メキシコ時間で九月五日午後九時ごろ、フランシスコ・トレドFrancisco Toledoが亡くなった。フランシスコ・トレドはこの半世紀を代表するメキシコの、そして世界の画家であった。メキシコ市の国立美術院INBA(Instituto Nacional de Bellas Artes)を卒業し、昆虫や動物の説話的形象を追及しアメリカ人のファンを獲得、一九五九年、テキサスで展示会を開催し、そのころ作家ヘンリー・ミラーの圧倒的絶賛と支援を得たと言われる。

 他方、生地であるテワンテペック地峡、フチタンJuchitan 市の砂糖精製工場の紛争から始まる政争に早くから加担しCOCEI(テワンテペック地峡労農学生同盟)の中心メンバーのひとりとなり、あるときは政治指導に、あるときは財政支援に奔走している。一九八一年、COCEIはメキシコ革命後、初めて市町村次元で与党の制度的革命党PRIに選挙で勝利した。その勝利は一九七八年誘拐され行方不明となったヴィクトル・ヨドVictor Yodoなどの優秀な指導者たちの犠牲の上に立っていた。与党側ロペス・ポルティジョ政権は選挙後、さまざまな非合法的な攻撃を仕掛け一九八三年にはCOCEI指導部はすべてメキシコ市やティファナなどの北部に潜伏した。そのときの逃亡資金はフランシスコ・トレドが工面したと言われている。

 その後、トレドは美術評論家として駆け出しだったマカリオ・マトゥスMacario Matusを館長とするフチタン文化会館CASA DE CULTURAを設立するのに貢献し、活動は中央に移した。画廊の要望にはビザンチン風にせよ、ポルノ風にせよ、全面的に従うが、異様な集中力と多産性によって画廊側の期待に応えつつ、しかし芸術性をおろそかにすることはなかった。私は彼が彼の娘に宛てた手紙をある小さな画廊で発見したが、そこには緑樹の怪物が彼自身のその日の営みを語る童話の形をとった愛のエピソードがあった。

 今年に入って五月ごろから体調の悪化を訴えていたらしいが、一部のもの以外には知らせていなかった。肺癌であった。一九四〇年七月一七日生まれの七九歳である。現在まで週刊誌「プロセソ"Proceso"」に素描とエッセイを連載中で、九月一日に発行された「プロセソ」にはEl Tetereteと題されたエッセイが載っている。水上を歩いたイエス・キリストのように、しかしこのトカゲは水上を、いささかせっかちに歩くのである。

 非政府系メディアの存続を強く熱望し、左派系新聞「ウノ・マス・ウノ」の内紛以後、外に出たカルロス・パイヤンCarlos Payanを助け、左派系市民のための新聞「ラ・ホルナダ"La Jornada"」の創立に精神面・資金面の援助を、ルフィーノ・タマヨRufino Tamayoと二人で惜しみなく行なった。非政府系であることはユニヴァーサルであることであり、「ラ・ホルナダ」は欧米のさまざまな知識人とつながった。国内の魅力ある左派知識人(カルロス・モンシバイス、エレナ・ポニアトウスカ、その他多数)を始め、小説「G」で有名なジョン・バージャーや歴史学者ウォーラーシュタインも有力な寄稿者であったし、チリから亡命しスペインに帰化した政治学者マルコス・ロイトマン、言語学者ノーム・チョムスキーも寄稿を続けている。

 他方、社会運動家としても非常にアクティブであり、前政権時代に起きたゲレーロ州での学生四三人の市長警察軍がらみ集団殺人事件への告発、オアハカ州でのコンベンション・センター建設反対運動、原住民言語の保護育成運動などの先頭を切っていた。最近は遺伝子組み換え作物、特にとうもろこしの遺伝子組み換え生産に対する反対運動を指導していた。

 現在のAMLO政権の勝利の現在(二〇一九年九月)までの歩みに彼は満足の意を表している。また彼の数多い子供の中からナタリア・トレドNatalia Toledoを閣僚の一人(文化省副長官)に持っている。ナタリアは今月十一日にメキシコ国立自治大学アカトラン校で私の司会で講演する予定であったが今日、それをキャンセルしてきた。メディアはまだ、TOLEDOの死とその遺産とその喪失について語っている。
メキシコ人の夢を実現した男、メキシコのこの半世紀の文化活動に活を与え続けた男が、息を引き取った。フランシスコ・トレドのいないメキシコ、に今、私たちは生き残っている。


 


 

1)デブリ回収について

 

毎日新聞デジタル版の2019年8月8日に、福島第一原発のデブリ回収計画についての報道があった。生活資金不足で予約購読者になれず全文は読めないのだが、書き出しは次のようである。

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東京電力福島第1原発の廃炉作業を支援する原子力損害賠償・廃炉等支援機構は8日、2019年版の廃炉戦略プランの概要を発表した。炉心溶融(メルトダウン)した1~3号機で核燃料が溶けて構造物と混じり合った燃料デブリの取り出しについて、「初号機を2号機とするのが適切」と明記した。これを踏まえ政府・東電は今年度中に、廃炉に向けた工程表を「21年に2号機からデブリ取り出しを始める」と改定する。

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これについて即刻、物理学者の入口紀男氏に問い合わせをすると次のような返信を受けた。

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溶け落ちたデブリがどこにどうちらばっているかがわかっていません。取り出し方法もわかっていません。小さな塊でも、外に取り出すのは放射線が高すぎで誰も近づけないでしょう。微粉末の状態に削り取って水の中に懸濁した状態で少しずつ外に取り出すことなら可能でしょう(スリーマイル島原発は炉心貫通しませんでしたが、圧力容器に水を満たして、15メートルの遠隔ドリルでこれをやって数年かかりました)。福島第一では、なんとかそれに近いことができても、何十年、何百年かかるか分かりません。それも見える範囲しか取り出せないでしょう。ハイテクは使えず、ローテク、それも前近代的なローテクしか使えないでしょう。

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この貴重な即答だけでデブリ回収が、汚染拡散などの危険を伴う非常な冒険であることはうかがえたのだが、そのあと8月12日に改めてFACEBOOK上に次の一文が入口氏自身によって掲載された。それを紹介する。

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2号機の圧力容器に残ったデブリ回収も困難を極める     (入口紀男氏)
   
 福島第一原子力発電所では、2号機は 102トンの核燃料が溶け落ちています。地震と津波は突然襲ってきたのでその半量が未使用であったと推定されます。その未使用の 51トンの核燃料にはウラン235が 2トン含まれていると考えられます。広島原爆は 800グラムのウラン235が爆発しましたので、溶け落ちたデブリはこれから再臨界して広島原爆 2,500個分の熱と放射能を放出する可能性が残っています(めったに起こりませんが、アフリカ・ガボン共和国のオクロの天然原子炉は自然界のウラン鉱石が地下水中で再臨界したものであり、条件がそろえば起こり得ることです)。また、デブリには使用済みの核燃料も溶け合っていて、広島原爆 2,500個分の放射能をすでにもっています。
 したがって、一刻も早く取り出して安全な場所に安全な方法で保管しなければなりませんが、現在のところ取り出す方法がありません。デブリは、ロボットなどのハイテク技術では集積回路(IC)も高い放射線で壊れるので、使えないことが分かっています。ローテク、それも遠隔ドリルや遠隔ペンチなどの前近代的な道具しか使えそうにありません。
 2号機は、燃料デブリは圧力容器の底部に多く残っており、格納容器の底に漏れ落ちている量は少ないと考えられています。
 米国スリーマイル島原発では、炉心貫通は起こらず、圧力容器は無事でした(それは米国民への神さまからの贈り物と考えられています)。スリーマイル島では 138トンの核燃料のうち 62トンがメルトダウン(溶融)し、そのうち 20トンが圧力容器の底にたまりました。そこで、先ず圧力容器に水を満たしました。デブリはすべて水中にありましたので圧力容器の上部に穴をあけてそこから遠隔カメラでのぞき込むことができました。15メートルの遠隔ペンチでデブリのかけらを少しずつ切り取りました。小容器を圧力容器の水の中に沈めて、遠隔ペンチで切り取ったデブリのかけらをその小容器の中に入れ、(中性子を遮断するため)水に沈めた状態で小容器のまま取り出しました。圧力容器の底にたまったデブリ 20トンは、水に沈めた状態で遠隔ドリルを用いて少しずつ削り、微細な粉末の懸濁液として 10年かけて取り出しました。
 福島第一原子力発電所では、圧力容器の底に残ったデブリを取り出すには、1~3号機ともメルトスルー(炉心貫通)しており、圧力容器に水を満たすことができないので、遠隔ドリルや遠隔ペンチを上から挿入することが困難です。水を満たした小容器を送り込むことも困難です。圧力容器の底からデブリのかけらを格納容器の底に落とすと、水の中で底にたまっているデブリと接触し、そこで一瞬にして連鎖反応を引き起こす恐れもあるでしょう。

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2)石棺建設の可能性

 

デブリ回収の発表以前から、私的に入口氏とやり取りしており、それは続いているのだが、ソビエト連邦が、国家を犠牲にしてまでもチュルノブイリ原発を囲い込む石棺建設を行なったことに絡めて、ヨーロッパの研究団体の専門家が100兆円をかけて石棺建設を行なう以外ないという言明をしていることの内容にも入口氏との話題は及んでいる。しかし、それはまさしく人的犠牲の値段なのである。ソビエト連邦がそれだけの費用を投入したかどうかは定かではないが、少なくとも地球大の危機を防ごうとし、それは半ば成功している。日本の政府はそれさえも払おうとはしないだろうというのが入口氏の、あるいは小生の見通しのない見通しなのである。しかも、既に知られているように、チェルノブイリの英雄たちの大半は、放射線被爆の知識もなく英雄として命をささげた人たちであった。

福島から発生する現時点までの汚染は過度的な汚染に過ぎなく、無謀なデブリ回収などでさらに汚染は拡大する可能性すらある。実際、現状の汚染状況に対する外国側の関心も次のTHE NATIONの記事に見られるように高まりつつある。https://www.thenation.com/article/is-fukushima-safe-for-the-olympic-games/?fbclid=IwAR2fqvOv8qElw7lt_ITNW-MEjLSAcur4DGnEmgNg6hI-jIQjfaNqdGUo_8Q

いま国内では福島、福島と言われて済んでいるが、実際の国内の汚染状況は、国内の日本人が考えている以上に深刻なのではないか。いま、実にまさしく、日本人自身が誇る日本人の英知と技術を結集して、日本の国土を守ることを正面にすえて生きるべき現在という時間が存在しているのではないだろうか。 いまどき、ここでナショナリズムの問題を開陳するよりも、日本という国が存在しているその島々の姿を、その歴史を、無為のままに棒に振ってしまうのが日本の知性だったとは思いたくないものだ。しかも、海洋汚染を含めて、日本が国際社会に果たすべき責任は日増しに拡大し続けていると言える。

 

日本では、この件の議論が統制されているような状況が見えるが、出版社『緑風出版』は『東京五輪のもたらす危険』(東京五輪の危険を訴える市民の会編)と題する本をこの9月11日という象徴的な日に出版する予定でいる。現在の日本における人間的な営みを感じる。

 

 

 

 

*本稿は『ちきゅう座』2019年9月2日の掲載された文章。誤記などを訂正し、わかりやすい表現に変えた。

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1)二重国籍者

 

最近の日本の成人概念について調べていないままに書くのだが、既に選挙権が18歳にして取れるようになっているようだから18歳が成人なのだろう。以前はメキシコ国内で生まれた日本人の子供は20歳で成人した両年以内に国籍選択をして日本大使館に届出をしなければならなかった。メキシコは属地制を取っており、国内で生まれた子供は自動的にメキシコ国籍者となる。メキシコで生まれた以上、メキシコ人であるわけで、その場合はメキシコの国内法では多重国籍であることは問題ない。

メキシコの日系社会は、第二次大戦中にメキシコ市に強制集中させられており、それから代を重ねていても、メキシコ政府への複雑な感情がいまも強く根付いている。しかし、最近の青年世代はほとんど『メキシコ』への屈折した感情を卒業している。日本に関連しない以上、日本との国籍関係は遠くの懸案であるに過ぎない。大使館に婚姻や子息の誕生を報告しない日本人在住者は私を含めて多数派になっている。お互いに忘れ果てている日本の家族や友人に結婚や子息誕生を報告してもヒロヒト型の「あ・そう」でしかない。在住者同士でも永住者とそうでない連中との間では隔たりがあるので、私などはメキシコ人になりきって生活している。彼らは大げさなほどに『人生の節目』を祝ってくれる。ときどき人種差別を受けるが『人種差別だ』と言えば良い。

私がメキシコ国籍を取った経過は『国籍と無国籍』という「ちきゅう座」への投稿に書いたとおりで、2007年に手続きし、それは当時の領事だった大野裕氏に伝えた。それ以前に日本人の何人かにお人よしにも窮状を説明したことがあるが、なかには日本は二重国籍を認めているのよと教えてくれる人もいた。その後、勲章を受章した田中道子コレヒオ・デ・メヒコ教授もその一人だが、当時の私は『いや、認めていないよ』と返答している。そうすると、みんな困ったような顔をしていた。メキシコ国立自治大学の二飛び上級の上司から国外追放条項で脅迫されたときは、数日考えてすぐ国籍を取る手続きに入った。この条項は基本的には大統領権限なのだが、官憲側の悪用が常態化している。90年代始めに日系の食品配送をしていた『土佐屋』の亭主が早朝、パジャマのまま官憲に国外追放されたという話も聞いていた。本人を知っていたが、それ以後、会っていない。

国籍は20年の在住期間と推薦者のおかげで簡単に取れた。推薦者はFELIDA MEDINAという舞台装飾家、国立美術院から金メダルも受賞している佐野碩の弟子につながる人物で、現在でもしばしば彼女の生家で週末を送ったりしている(Google参照)。

そのあと、2012年の12月まで未必の故意の二重国籍者だったわけだ。他の二重国籍者たちとのスタンスの違いには気がついていなかった。その年の始めごろ大使館でメキシコ国籍者の求人をしていたのだが、それにも大野氏に伝えたことが頼りとなっていて簡単に応募した。その後、大使館からは何の連絡もなく、12月の海外投票の際に二人の館員の前に連れ出されたわけである。この二重国籍発覚の経緯だけは、私のお人よし以外にないのだが、在住国の国籍取得に至るプロセスは、元の国籍が違うにせよ、共有するケースが多い。

90年代の終わりごろ、差額ベッド代などの解消のための日本滞在から帰墨して、私立大学の国際公法を非常勤で受け持った頃、あるユダヤ家系の女学生にメキシコ憲法第33条の国外追放条項で執拗な脅迫を受けていた。そのときも国籍取得を考えたが、食うに食えない状況が続いていたので教職を離れて、現地採用サラリーマンをはじめた。日本に滞在した頃は、金を稼ぐことに集中し、金の支払いを迫る亡父との対応で、日本の政情などを知る余裕さえなかった。帰墨して初めて当時の日本について勉強し始めたといってよい。その頃から始まった「アソシェ21」の運動には大きな期待を抱いた。

現地採用サラリーマンとして、特に気に入った職種はISO国際標準の認証作業であった。これについては当時『アイシン精機』の現地プラントにいた山田雅哲氏に感謝したい(彼は現在メキシコでプラント設営および会計コンサルタントをしている)。会社そのものには保険料の未払いがあったりでひどい目にあっている。けれどもISOには非常に学んだ。そして、最も大きな収穫は『工場プラントを歩く作法』を教わったことであろう。これについてのレポートをいつか書いておきたいが、基本的には他の国際標準関係と類似のレポートになるだろう。(ただ個人的には二〇一五年版以降のISOの動きには疑問を持っている。)現地採用のサラリーマンを日本国籍のまま行なっているとほぼ完全な奴隷状態になることを痛感して、ここでも国籍取得を考えた。実際、本社社長の娘婿である現地法人社長にひどい扱いを食った時点で退社した(2006年)。

この間、日本の左翼運動の低迷が『アソシェ21』の事務局にいた漆原さんから伝わってきた。『連合』という単語も彼との会話から遠い響きとして伝わってきた。そのとき、初めて、第三世界にいることの人間的責務が体の何処からか伝わり始めた。大学に戻り、教授試験のプロセスで国外追放条項での脅迫を受けたことを私はむしろ、第三世界への洗礼ではないかと思うほどの危機感で受け止めた。

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2)国籍離脱思想

 

2012年の12月にサインを迫られた『国籍離脱届』についての日本国内法上の知識は、その時点では皆無であった。現在では、国内にいる困窮した日本人民に『国籍離脱届』を出すように薦めている。沖縄などでは5人単位で『国籍離脱届』の法務省への提出運動を開始するべきだとさえ思っている。国内でどのような目に会うかはやってみないとわからないが、沖縄ならば、独立の第一歩であろう。

しかし、2018年の5月ごろに『国籍離脱届』にサインしに行ったとき、係員の女性から『国籍離脱届は間違いでした』と言われた。その際は即座に日本に原爆を10個くらい落としてやりたい気持になって金正恩に電話をかけようと思ったが携帯電話は大使館入口で取り上げられていた。この間、2012年から2018年まで、そして今日まで『日本人として』考えてきたことがある。それは個人的な『脱出の歴史』でもあり、生きるための『生への意志』の整理でもある。学術的にだれかれの名前を権威を張って乱用もしたくない。誰かを担ぐのは神も許すまい。しかし、私は人類の終盤に当たってなぜ日本語を使っているのかも考えざるを得なかった。

日本のばかばかしすぎる『出世主義』への否定は、既に鶴見俊輔が高畠通敏を批判した『口惜しい知性』という講演で表明されているが、鶴見はその背後にある高度成長プロセスの日本という国家の驕慢化には禁欲している。高畠が立教大学に在職中の最後に専任講師や助手に採用した連中(北岡伸一、吉岡知哉、御厨貴、五百旗頭親子、五十嵐暁郎など)は、彼自身が危惧を表明していた『新保守主義』の先頭に立っていた。それは高畠通敏が久野収や鶴見俊輔の前で見せていた単なるスタンスの違いだけではなかった。私は彼と彼の別宅で一年一緒に暮らしたこともあるが、日本に滞在したある日、どこまでがあなたの判断なのかと聞くと非常に狼狽していた。1994年に帰国した際、彼との関係は崩壊した。

『出世主義の否定』という意味での過去の『大学解体論』も日本近世の学問形態や塾などの形で復元できるのではないかと考え始めたし、集団や単身でのかかわりも日本のシステムとは独立に考え発想されなければなるまいと考えた(学問の立場からは当たり前の話だが)。他方では、左翼の先輩たちの子育てなどで、日本のシステムの中での発想に落ち着くことが多いのも私たちの見てきたことだ。国籍は離脱しないと本質的な人民論も左翼理論も始まらないのだ。・・・・

と、考えていたのを『間違いでした』と大使館の窓口で否定されたわけだ。清水一良現領事の説明によると、自分での意志や他国の国籍を取る前、あるいは大使館が国籍取得を知る前になら『国籍離脱』は成り立つが、大使館が他国籍の取得を確認した後では『国籍喪失届』になるらしい。この清水領事の説明の是非を外務省、法務省に問いただしたい。『国籍離脱届』にも『国籍喪失届』にも『取得した国籍』欄がある。しかし、憲法を読む限り日本領土にとどまっていても『離脱』の行使は可能ではないか。しかも、どうも大使館あるいは外務省側の手続き上、その薄汚い脅迫行動を含めて、憲法の保障している『権利』の取り上げが行なわれているような印象も受ける。

結果としては似たようなものだが、憲法第22条における権利としての『国籍離脱』と、以上に鎖国的な日本の国籍法による『国籍喪失』とでは国籍処理手続き上のどのような相違があるのかよくわからない。私は現在、現状を重視して、意識としての『離脱』を大使館に学ばせていただいたという認識を持っている。『日本人』としての私の自意識は、現在、自分への教育文化過程や日本への郷土愛として残っている。しかし、それは現在の日本とは全く違うものである。現在のような日本社会の破綻は、私にとって、あの一九六四年のオリンピックで、円谷選手が泣きめそをかきながらスタジアムに入ってきたときから始まるのかもしれない。

『国籍離脱届』が事務的に無理ならば、民間武装論者でありながら非暴力主義の私は『国籍喪失届』にサインするだろう。それを国家による《国籍剥奪》と理解できる。そして、私に『国籍離脱思想』を植え付け、育て始めたのは大使館側の脅迫である。今後は、この思想をもっと展開してゆきたい。他国籍を持っている私にとっては自分の「日本人」は疎外されつくしている。ある意味では私の日本人としてのアイデンティティは他者に負っている。この分裂を生きることは国外追放の後、最期までドイツ語を書き続けたマルクスへの接近を伴っている。本稿では、前に書いた『駐メキシコ大使館の脅迫に学ぶ』の背景と今後の展開に配慮した。