以下に訳すのは、1973年、チリのアジェンデ政権に対するクーデタの際、亡命を果たし、スペインで政治学者となったマルコス・ロイトマン(Marcos Roitman Rosenmann)のメキシコの新聞ラ・ホルナダへの寄稿エセーである。原題はPorque odiamos al comunismo y los comunistas (コミュニズムやコミュニストたちが憎いので : September 7, 2019. La Jornada)である。彼はもちろん、政治学者としても、市民としても左派の論客で、ラテンアメリカの民主化についての著作が多い。軍事蜂起による政権の解体を19歳で経験し、スペインへの亡命を果たした彼の文体は、ニヒルでもあり、直截でもあり、しかし、希望に満ちた生産性を示している。左翼としての彼の危機意識は、たぶん、クーデタ以降から一貫したものだろうと、ほぼ同世代の私は考える。1973年、日本では急速に失われていったあの危機意識と新たな閉塞の始まりの中に私たちもいたからである。9月の学期休み中、長野でゼミ合宿中だった私たちは、チリでの軍部クーデタをラジオで知った。教師の高畠通敏にそれを報告すると目を丸く開いて一瞬沈黙した。「そうか、無念だったろうな」。しかし、私には自分自身が費やした何年間かの街頭風景や仲間たちの喧騒が耳に重なった。高畠は、その後、「新保守の時代はいつまで続くのか」という本を90年代に出しているが未読である。訳したエセーには現在の左翼の立場が明瞭に描かれている。左翼側はこの時代に、むしろ、今までの「党」意識から自由で、しかも国際的に共通な集団倫理を確固とするべきだろう。主体性のある集団の目的への責任感覚と集団的短期目標達成確認、集団的な文書管理能力と共有化、各個人の参加責任とその意識、歴史研究による集団批判と個人の権利確認、以上に対する内部的チェック機能、これらは専門の国際標準ISOの監査員を外部機関から招いても確認させる必要があるだろう。

その意味で、今この時点で私は、同じマルコス・ロイトマンの短文エセーEl paraíso perdido de las ciencias sociales latinoamericanas (ラテンアメリカ社会科学の失楽園)の翻訳に手をかけている。メキシコは8月3日現在、大略44万人のコロナウィルス感染者、4万8千人のコロナ禍死亡者という惨状にあるが、8月に入って感染状況は、孤独を嫌う国民性にしては、むしろ治まりつつある。左派政権である現政権は、いまだ社会構造と化したネオリベラルの大波の圧力を受け続けている。それについての議論はまたあとに回しておく。翻訳に際して、日本語文章にするために、いくつかの補完を加えたがなるべく意訳を避けた。題名を上記の原題のまま示す。

 

“Porque odiamos al comunismo y los comunistas”  por Marcos Roitman Rosenmann

わたくしたちの世界は資本主義の文化価値を巡って回転している。中立的であったり距離を置いているものなどはない。わたくしたちを競争、成功の取得、富の蓄積に固執させ、それを獲得するのに手段を選ばせない。私有財産というものが骨までしみこんでいる。わたくしたちは、ウォルト・ディズニーが作り出したパーソナリティ、金塊や貨幣や豪華品の海を泳ぐスクルージ・マクダックになりたいと思っているのである。夢物語?わたくしたちの世界はコミック漫画である。個人主義者たち、欲望に走る者たち、勘定高い連中、嘘つきたちによって、わたくしたちは形作られている。それがわたくしたちを教化させ、文化的な社会形成をさせている。わたくしたちは貧しい人々を軽蔑し、嫌い、非人間化する。彼らはそれが相応なのだ。貧困は常に存在してきた、と断言される。貧困に対する戦いは、自然の摂理に反する行為である。従って、民主主義を復権させようとすることは貧困層の事案である。非政府組織の会員となって人道的な運動を援助し、連帯者となり、慈悲を行なうのはいいことだ。街路や建物に、学問芸術の保護者たち、慈善家たちや英雄たちの名前がつく。学術研究に何百万ドルも寄付する大物が、奨学金を与え、医療診断機器の資金を渡たし、彼の芸術作品は美術館で展示される。大物の達成リストの項目には際限がない、しかし、その「目的」は達成する 。 : それは、 社会の大多数者からの彼が成功者であるという認知である。

大物たちの富の起源についてわたくしたちは自問することはない。運が良いのだということにしてしまう。彼らは夢想家たちであり、ゼロからはじめ、好機を失わなかった連中なのだ。 わたくしたちすべてがロックフェラーに、アマンシオ・オルテガに、カルロス・スリムに、ビル・ゲイツになることができる。起業家になるということが問題であり、その後、成功はやってくる。誰かが搾取的社会関係についてはどうか?と訊いてくるかもしれない。答えは単純だ。搾取など存在しないのだ。この断言は、わたくしたちの精神に激しく刻印される。懸命に働き、節約し、好機を逃さず絶好の地点にいることをもってして充分なのだ。そして、高級車を、ヨットを、自家用飛行機を、家事サービスを、王族クラスの複数の豪邸を、つまりは商品世界のもたらすすべてのものを欲さないわけにはいかない。それが物であろうが人であろうがである。王様の肉体を生きることは正当なことであり、それを望まないのは偽善である。所有し、それを他者に見せないのは愚かなことで、むしろ誇示するべきなのだ。わたくしたちの遺骨が崇拝され行列で訪問される墓所を建てることと同様に、金字で書かれた名前をもって歴史に残ることは、存在の永遠性を買収することなのだ。

 

貧困と挫折は、市場へのひとつの不適切性とわたくしたちは考える。そのうえ、社会学と生物学は社会生物学を形成するのに便宜的な婚姻関係にまとまった。もっとも抜け目のない者が勝ちを収める世界において、利他的な対立遺伝子を抑制できる利己的な遺伝子たち。それは複数の遺伝子の中にあって、そのDNAを変質させる可能性はない。人間が、他の人間に対するオオカミであるという略奪的ホッブス主義思想がのさばる。しかし、オオカミの群れは、社会的な類が協力し合うように、個を排出することがない。社会的分業を維持する。そうでなければ消滅してしまうだろう。だから相互に相争うような社会的な類は存在しない。というのは、ダーウィンが言ったとされる大きな嘘である。

 

政治的な意味を持たないものなどは存在しない。芸術、文学、映画、言語、流行、美学、性、家庭、飢餓、嗜好、情緒、愛や憎しみの諸様式に至るまで政治とかかわっている。しかし、反コミュニズムを助成するための基本は、恐怖心を作り出すことなのだ。わたくしたちは生まれて以来、民主主義者、社会主義者、マルクス主義者、決定的にはコミュニストと、異なった仮面で現れるコミュニズムを敵として認知するように頭に刻み込まれ、教化される。コミュニストたちは、学校に、職場に浸透しており、さらには友人として現れる。しかし、彼らは目的を持っている。わたくしたちをロボット化し、わたくしたちの所有物を奪い、奴隷化する。家庭や、私的所有やカトリックのモラルを溶解してしまうイデオロギーである。コミュニストたちにとって、わたくしたちはひとつの数なのだ。それだから、コミュニズムはナチズムとホロコーストに同一化される。すべての恐怖がコミュニズムに一括される。

 

反コミュニストであることが問題なのではない。それはコミュニズムを憎むための教育システムからの帰結なのである。ソーシャル・コミュニケーションの諸メディアにおいて、文学、映画、アニメ動画において、わたくしたちは尋ねることができる。誰が今ある文明を救うのか? 何のスパイたちが人殺しのライセンスを持っているのか? 悪の根源は、社会正義、平等、尊厳などへの欲求を装ったコミュニズムであり、それは地球を攻撃するとき標的として常にホワイトハウスやアメリカ合衆国を選ぶエイリアンでさえあるのである。彼らにとって未知の場所などは存在しない。そのGPSはGOOGLE MAPに繋がっているのである。

 

コミュニストたちは冷酷で、マニピュレイターで、無感覚で苦しみもしない。反コミュニストであることは考えることを必要とされない、何年にも渡って執拗に学んできたことを実行に移せばいいだけだ。

それに反して、民主主義者、コミュニスト、社会主義者、あるいはマルクス主義者であることは、考えること、時流に逆らって泳ぐことが必要とされる。それは意識の行為、批判的自省の行為である。これこそ正に、この現在社会が追い詰め、犯罪化している行為である。本質を知ろうとせずに生きることは生きて涅槃を獲得することである。肯定的であれ。明日には百万長者になるだろう。ものごとの自然の秩序に疑問を抱くなかれ。大地は平面であり、資本主義は正当かつ公正である。偽りの偶像に魅了されるべきではない。トランプ、ブラジルのボルソナロ、アルゼンチンのマクリ、チリのピニェーラ、チリ・クーデタのピノチェット、鉄の女・サッチャー、アルゼンチン軍政のビデラ、ニカラグアの独裁者ソモサ、その他その他はいい人たちだ。みんな共通して反コミュニストであるではないか。「魂を捧げよ! もし一票を頼まれたら、票も捧げよ!」

 

La Jornada, Mexico,  September 7, 2019.