対外的には、日本は、何と現在の悪辣無法の「首相官邸」から始まって、英文のGHQ原案憲法を日本語憲法と併載している。もちろん、英語では「国民」は憲法の主体ではなく10条に規定されているように立法過程で定められるものでしかなく、主体はあくまで「日本人民・日本人The japanese people」である。
実は、この起草段階で、日本という郷土は国家ではなくCountry societyとして新しく生まれ変わっており、焦土と田園、青い山脈から立ち上がった人民の社会としてとらえられている。それは近代主義がこだわった「国民国家」からはみ出した政治体なのである。
第九条は当初国会に提出された英語原文直訳から、現在のように国民国家的観点から理解されやすいように改訂されたものが結局は批准されている。
しかし、原・英語憲法の主体は「現在でも」投票行動を棄権や投票、あるいはムサシで行なう「国民」ではなく「日本人民」なのである。実際には「日本人民」は帝国主義体制に足をすくわれ、再度の軍事化をたくらむ保守党に巣食っていた天皇制リベラルの吉田や幣原たちによって「日本語憲法」から駆逐されている。
要するに、日本語憲法は現在でも世界に通じている英語の日本憲法を裏切っているのである。国際的な看板と違った解釈を学会も政界も振り回し、「国民」は擬似民主主義を信じ込まされている。
露骨に言えば、現在の日本語憲法は操作された憲法であり、国際的な了解の中にある英語憲法から見れば、「憲法違反」なのである。
日本の「違憲立法審査」がほとんど機能しない原本の原因がここにある。
では、日本人は何をやっているのか?