夜空に星を見つけると、いつも見上げていた。いつか星のように輝く自分を想像してそれだけで愉快な気持ちになっていた。3才くらいの頃の僕はそんな妄想の独り遊びに興じていた。

両親が他の家庭と比べると特別不仲だったことは分かっていた。僕の前では隠していたつもりだろうけど、子供ながらに空気を敏感に感じ取っていた。
喧嘩をした後はいつも父が僕を近くの海岸へと連れて行った。何をするわけでもない。ただ、テトラポッドの上に座って、静かな海を見ているだけだった。僕が退屈になると父はすぐに気のつく人だった。そうして道を挟んだ自販機でジュ-スを買ってくれた。
ある時、夕日の時間帯に僕らは海岸へとやって来た。赤く染められた海辺がやけに印象的で、初めて見惚れる、という感情に気がついた。
空が紺色に変化して、星が瞬き始めると父が口を開いた。「なあ」
僕は星を見ながら、父の言葉の続きを待っていた。中々言葉を続けない父に、僕は聞き違いかと思った。それで、今度は遠くの灯台の光に視線をずらした。「お父さんさ、」
言葉を続ける間隔が長い父だった、そういえば。ゆったりと物腰柔らかい、繊細な男だった、そういえば。
「お母さんと一緒に暮らさなくなると思うからさ。お前、どっちと一緒にいたいか、考えておくんだぞ」
父は泣きながら、小さな声でそう言った。独り言のように海とも、空ともつかない方向に目をやりながら鼻をぐずぐずにしていた。「星、綺麗だなあ」父の横顔は皺くちゃで、いつもの穏和さはなかった。「人は死んだら、星になるんでしょ?」僕が聞くと、「そうだよ」父は言った。赤く目を腫らしたまま、「死ぬと、綺麗になるんだ。綺麗なままでいたくて、だから暗い夜空の中で輝こうとして星になるんだ」

数ヶ月後、両親は離婚した。僕は母親に引き取られることとなり、父とはそれきり会っていない。あの夜、父は僕に決断を迫った。結局僕は母親と暮らすことを選んだ。父親の泣き顔がことのほか、ショックだったのだ。優しい父親はいいけれど、弱い父親ではいてほしくなかった。
後になって、母親にそう告げると、母親はきっぱりと否定した。父親は弱くないのだと。ではどうして別れのか。問いただしても口を開いてはくれなかった。

大人になって父親をテレビで見る機会があった。東京で銀行強盗をして、逃走中にトラックに撥ねられて死亡した。即死だったらしい。
母親とニュースで見て、翌日朝早くに東京へ向かった。父を確認すると縋り付くように泣き叫ぶ母親の姿を見た。初めて母親の泣き顔を見た。いつかの父親とそっくりだった。
二人が別れた真相は、たぶん嫌いだからだったんじゃないと感じた。好きでいたくて別れたのだ。

数年後、母親も父親を追うようにして亡くなった。今度こそいつまでも一緒にいられることを、心の底から願う。

 暖かい缶コーヒーを片手に十年ぶりに彼の家を訪ねた。手に持ったコーヒーは二人でよく飲んでいたものだった。数年前に販売中止になっていたが、先月からまた販売が開始された。行きがけの駅の売店で偶然見つけ、すぐさま手に取っていた。
 冬という季節はたぶん3番目に好きだ。一番は秋で暑がりの私にとっては最も過ごしやすい季節だから。二番目は春でこれまた過ごしやすいというのが理由だった。そして三番目の冬。これはもう理由を言わずとも分かるだろう。彼の住む部屋はじめっとする湿度の高い部屋だった。特に夏のあの生ぬるい空気ときたら思い出したくもない。それでも二年近く共に過ごした彼の部屋の匂いを僕は鮮明に覚えていた。くっきりと縁取りされたかのように他の記憶とは完全に隔離された感覚。雪が降り積もるかもしれないとの予報だった。その割りには空気の冷たささえもあまり感じない。2月にしては春のような暖かな空気に一瞬眩暈がした。行きかう人々の中でふらふらと危なげな歩みだった。このまま倒れて、どこかの知らない病院にでも運ばれて彼の部屋へと行けなかった理由にでもしようかとの考えが脳裏に浮かんだが、馬鹿らしいと気づき右足で身体のバランスを保った。
「大丈夫ですか?」
 目の前にいたのは知らない女だった。たぶん会社帰りの若いOLだ。心配したような顔つきで僕のことを見ていた。右手を差し出す格好が、ちょっと前の恋愛沙汰の一件を思い出してしまった。
 彼女は6歳年上だった。僕とは違う世界で生きてきたような、言い換えれば不幸な生き方をしてきていた。僕と会った当時の彼女は一見幸せそうだった。仕事も恋もすべてが順調に向かっているような。僕は彼女に惹かれていたけれど、言い換えれば妬んでもいた。その地位に彼女自身の努力も運も才能もどれもが申し分ないくらい最大限に生かされていたから。そしてその地位ぐらいでは全然納得していない彼女は、さらに上を目指そうと努力をし、その努力がまた幸運を呼んだり、まだ表層していない才能を引き出す結果となるだろうと僕は思っていた。

 一年前に買ったコートはしわくちゃで、決して人前で自慢しながら着られるようなものでもなかったけれど、今回は仕方なく着てくることにした。雪の予報という理由もあったが、彼女が僕の就職祝いに買ってくれた唯一のコートだったからだ。これから向かう彼の部屋にその彼女はいる。僕の元カノだということを知らずに去年結婚したという報告を彼からもらった時、電話口越しに僕はどんな声を出したらいいのか思案していた。まだテレビ電話が普及していない時代で良かったと心の底から思った。最悪の場合、彼女の姿を見なくてはならない。でも、そう考えたとき少しだけ自分の心が弾んでいたのはまだ彼女を少しでも好きだったからなのだろう。それでまた自分の心を自分に対して閉ざした。自分も見えていなければ、誰に見られることもないと思い込んでいた。

 JRを降りると、市バスに乗り込むために列に並んだ。夜の9時を回っていたから会社帰りの人々が圧倒的だった。その中に、さっきの彼女の姿もあった。僕のことを心配そうに見ていた彼女は、僕の三人分前にいて、車内に入ってからは混雑する人並みに流されたせいで、彼女の隣に落ち着くことになった。
「どうも」
 目が合ったので一応あいさつをしておいた。さっきのお礼も兼ねて、だ。
「あ」と声を漏らしてから彼女だけが一瞬時間の止まったような動揺を見せた。「いえ」と短い言葉にすべてが凝縮されたような返事は、僕にとっても好都合だった。普段からあまり他人と関わりたくない僕にとって、こういう不毛な掛け合いほど出会いたくないものはない。取り立てて掛ける言葉も見つからずその場をいかに会話をせずに過ごすかだけに必死だった。ただ僕の方から話しかけなければ何も起こることもなかったので不安はなかった。大抵の場合、運命的な出会いを妄想するのは男で、それを現実と結び付けたがるのは女だと相場が決まっていた。ただし、決して女から誘ってくることはない。男から誘って、女がそれに乗る。これもまたある意味で相場というやつだ。
 帰り道のバス車内は気だるさと眠気の入り混じった空気だった。時折、アルコールの匂いが僕の鼻先を掠める。赤い顔をしたサラリーマンや白い化粧で元の顔がわからなくなってるOLも何人かいた。その中で、隣の彼女の顔はほとんど素顔に近かった。それでも悪くない、と感じるのには生まれもっての端正な顔立ちのせいなのだろう。もうさっきの言葉以降、僕らはずっと会話を交わしていない。これが正解だと心の中で自分に言い聞かせた。聞かせた?
聞かせてしまった時点で僕は彼女に惹かれていると認めているようなものだった。そう考えるとますます彼女のことは考えてはいけないような気になって、そしていつしかまた変態的な妄想を浮かべる。そこにいるのは僕と彼女だけで、後はすべての物事が僕の都合の良い方向へと進むだけだった。
「きゃっ」バスが揺れた。
 車内にいたほとんどの客が声を出しまいとしながらも、そのせいで余計に身体をよろめきさせた。僕も右側から身体を押され、彼女の方へと身体の重心を預けてしまった。再び揺れが来て、今度は反対側によろめいた。その時、彼女の顔が僕の胸あたりにそっと乗った。ふと目が合うと、恥ずかしそうに彼女が笑った。僕もそれで少し笑ってしまった。


 元カノと別れてからはすぐに新しい彼女ができた。もともと、飲み友達だったのだが、彼女がいる、と自分には言い聞かせただの友達として接していた。本当に友達として申し分ない人柄の女性だったから、このままの関係でずっと続いても問題ないと思っていた。その矢先に元カノとの別れはやってきた。自棄酒に付き合ってくれたり、愚痴を聞いてくれたり、それまでお互いの深い部分には意識的に接しまいとしてきたはずなのに、その晩の僕らはどこかおかしかった。夢心地の中にいるような、とりあえず現実ではないような感覚があった。だから変に意識してセックスもしなかったし、ごく自然な流れのどこにでもいるようなカップルのセックスをした。そして朝方になって近くのコーヒーショップへと苦いブラックを飲みにいった。僕はハムサンドを、彼女は朝だというのにマロンケーキをおいしそうに頬張っていた。
「付き合うの?」
 彼女の言葉が最もな言葉だった。けれども僕自身どうしようか、と考えたくもなかった。仲の良い女性と飲んで、食べて、セックスをして、あとはもう野となれ山となれだったのだから。だから、「付き合おう」ときっぱりと断言した。別に付き合うことに抵抗はなかったし、寂しかったわけだから彼女がいて、セックスをして、そこには一つの充実感のような安っぽくはあろうが幸福感もあった。それで1年とちょっと経った頃に僕と彼女は別れた。

 道を踏みしめている瞬間を、まじまじと見つめたのは彼と共にあの部屋で過ごした時以来のことだった。あの頃は目の前に広がる全ての景色が明るかった。暗い色ももちろんあったが、どこかに光を帯びていた。なのに、今の僕ときたら色さえも失ってしまった気がする。暗い夜道は間隔的に備え付けられた街灯でわずかに照らされていた。遠くには車のライトが無数に見えたし、人の影もぽつぽつと見えていた。彼の部屋へと向かうのに、迷いはあった。初めは行くのをどうにか断れないかとも考えていた。何か別の用件の葉書でついでのように「近いうちに会おう」と言われた。「機会があったら」とかと一緒で、ほとんど現実味を帯びない文句だと思ったのでさほど気にしなかった。数日が経ったある日、電話が鳴った。彼からだった。「まとまった時間はできそうかい?」それを聞いて初めて焦った。何より、僕のこの状況を知られたくなかった。僕は失業中だった。

 バスの車内で、彼女と少し打ち解けた。携帯の連絡先を交換しただけで、その後はあっさりとお互いに別れた。僕には大事な用があったし、彼女もこんな時間から知らない男と夜の街に消えていく気にもなれなかったらしい。たぶん連絡など一生することもないだろうが、これもある意味で相場というものなのかもしれない。

 彼の部屋にたどり着いたのは、時刻も11時を回ったあたりだった。途中、コンビニエンスストアに立ち寄って時間を潰した。直前になって会いたくないとごねだしたのだ。怖くなった自分が情けなくて、そんな自分を振り払おうとして自動ドアの向こうの外へと出ようとした。結局出られなくて、それを何度か繰り返しているうちに若い金髪の店員の奇異な視線に気づき、今度はコンビニエンスストアから逃げ出すようにして外に飛び出した。するともう諦めのような、投げ出したような気持ちで彼の家へと勝手に足が進んだ。

「ひさしぶり」僕は面食らった。
 そこにいたのは以前の彼の姿ではなかった。もっと人間として深みの出た、嫌な言い方をすれば妬んでしまうくらいの彼。変化をしたという意味では、明らかに僕の変わりようは間違えたものだった。失敗作。
「いらっしゃい」彼の背後から、ドアを開けて彼女が姿を現した。
 相変わらず美しかった。そして、人間的に成長した彼女の姿があった。以前よりも柔和で心が研ぎ澄まされたような、また一段魅力が増していた。そんな場所に僕はあまりにも不似合いだった。一人だけ浮いていた。彼の僕を懐かしむ笑顔も、彼女の幸せそうな表情も、どこか現実感を感じられないまま、僕だけが浮いているような存在に思えた。
彼はまだ知らないのだろうか。僕と彼女が付き合っていたということを。それを訊いてもみたかったが、わざわざ壊しにかかるのもどうかと考え直した。彼女は僕のことをどう見ているのだろうか。まだ少しでも以前のような恋愛感情を持ってくれていたらいいな、などと馬鹿げた考えはいまだに捨てられていなかった。
ひとしきり、彼との思い出話を終えると、トイレへ行くと言って出て行ってしまった。部屋に僕と彼女だけが残されていた。空気清浄機のスチームの音がやけにくっきりとした輪郭で聞こえてきた。部屋の蛍光灯の明るさが、目を瞑ると暗い視界の中でぼんやりと滲んだ。
「よく来れたものね」さっきとは打って変わっての声が聞こえた。
「相変わらず」何も変わってないじゃない。そう言っている。
 ドアが開く音がして、彼が部屋に戻ってきた。入れ替わるようにして彼女が「お茶を入れてくる」と言って部屋を出て行った。彼女の性格は変わっていなかった。表と裏の顔が違う、あの恐ろしい目つきや声は、何も変わっちゃいなかった。部屋に残された僕はこれから彼と何を話せばいいのか、迷った。それに、こんな時間に呼び出されたからには、帰らせるつもりもないことは明白だった。明日の朝まで、こんなに気まずい空気を吸わなければならないと考えると気が滅入る。理由をつけて、どこかの漫画喫茶で一晩過ごすことに決めた。
「なあ」声のトーンが落ちたが、僕は気にしなかった。
 どうして来た?
彼の言葉に、僕はうまいこと言い返すことができなかった。「どうしてって」
 ドアが開いて、彼女が現れた。二人を僕を見て、何事かを囁き合っていた。声は聞こえることもなく、二人の視線だけが僕を捕らえていた。
聞き慣れない音がして、その方向を見やった。ドアは玄関口からのものだった。人の声と共に、靴を脱ぐ音が聞こえる。僕はその声をどこかで聞いたことがあった。「ただいま」
 屈託のない声がして、僕らの前に姿を現した。さきほどバスの中で僕と笑いあったあの彼女だった。彼女は一瞬気まずそうな顔をして、ミサコ(僕の元カノ)に耳打ちをした。恐らくお客さん来てたんだね、とか、そのあたりの気遣いの言葉だろう。ミサコは特に気にした風でもなく、彼女を別の部屋へと押しやった。「ミサコの妹も一緒に暮らしてるんだ」彼が元に戻った声で言った。ミサコももう奇異な視線も、裏の人格も出してはいなかった。
「今日はどうする?」彼が屈託のない笑顔で僕に言った。
「帰るよ」即座に言った。その言葉に、彼は引き止めようともしなかった。
 帰りがけ、ミサコは僕に手を振っていた。良き妻のような笑みを湛え、口元を若干歪ませていた。部屋を出、マンションを降りた。真夜中の道を歩きながら、僕は暖かな電灯の点る彼らの部屋のカーテンの閉じられた窓を見上げていた。

まどろみの先に見えたのは僕の知らない風景だった。
僕の目と鼻の先にいる耕太が両腕をぐるぐると回しながら興奮している。
「おっきてー!」
窓辺には金色の日差しが光線となって降り注いでいる。
カーテンの隙間からこれみよがしに僕に知らせるのは快晴だという天気からの朗報だった。僕にとっては朗報でもなんでもない。どちらがいいとも言えなかった。
たとえ曇りだったとしても、雨だったとしても、僕が朝を迎えれば憂鬱な気持ちになるってことは決まっていた。
「はやく、おきてってばー!」
「わかったわかった」
耕太に急かされてのっそりと身体を起こす。
隣で眠っているはずの妻の姿はもうそこにはなかった。
「ママは?」
訊くと、「おべんとうつくってるよ」と僕の身体に抱きつくようにして耕太が返事をした。

「ねえ、パパ、きりんさんはどこにいるのー?」
「キリンさんはどこにいるんだろうねえ」
「僕はパパに聞いてるんだよー」
妻の声が聞こえてきた。
洞窟を風がすり抜ける音とともにコアラの退屈そうな欠伸が視界に映る。僕らは久々の休日を利用して近場の動物園へとやって来ていた。息子の耕太は最近4歳になったばかりだった。仕事が忙しいと嘘をついてまで彼と会うのを拒んでいるのにはそれなりにワケがあるが、妻がそれを理解してくれるはずもない。
「パパー」
耕太の小さな手が、僕の服の裾を引っ張った。
「どうしたんだ? 耕太」
耕太、と名前で呼ぶのに、まだ違和感が残っている。自分の息子だってのになんだこのありさまは。まだどこかで耕太のことを他人として扱っている証拠じゃないか。人気のない動物園ほど行きたくない場所もないと思っていたが、まんまと僕はやって来ている。耕太の隣で手をつなぐ妻は呆けっとコアラの親子を見ていた。耕太とつなぐ手が今にも離れそうだ。
「パパー! パパー!」
耕太がさらに強く僕の服の裾を引っ張る。声を張り上げて、それをうるさいくらいに感じる僕は「どうしたんだい? 耕太」と呼びかけるが耕太がそれに返事をすることはない。その繰り返しが、僕らの、僕と耕太の父子関係の象徴と言える。
「できちゃったの」
子供か、と直感的に感じ取った。
うれしそうにはにかむ妻の顔がとても苦しかった。
それから僕は妻のもとから姿を消した。

耕太との初対面はそれほど苦ではなかった。元来、子供を苦手としていた僕にとってこれは意外すぎる出来事だった。耕太の印象は決して悪いものではなかったけれど、だからといって良かったかといえばそれは違った。正直に言えば、どちらでもなかったのだ。
「おかえり」
2歳になった耕太が妻の脚をしっかりとつかんでいた。妻の後ろに隠れながら、耕太は怯えた瞳で僕を見ていた。
突然逃げ出した僕を非難することはなく、暖かく迎え入れてくれた妻を僕はまともに見ることなんでできなかった。
耕太の頭を撫でながら、僕に紹介したがっていることに気づいた。
僕の子供だ、とあらためて言われなくともわかっている。
興味がない、と言ってしまえばそれで済んでしまうのだろうけど、まさか妻にそんなことを言える勇気があるわけでもなく、僕はその場を取り繕うようにして「はじめまして」と僕に無垢な視線を向ける耕太ににこやかに微笑んであいさつをした。
やがて僕と耕太はすぐに仲良くなった。それこそ本当の父子の関係のように、妻と3人で公園へと行けば、端から見れば仲むつまじい家族像がそこにはあった。春の暖かな日差しの照る公園の砂場で、夏の燦々と照る池のほとりで、秋の木枯らしの吹くベンチで、冬の雪の舞う遊具とともに、僕ら3人はその一年をまるで本物の家族のように充実した日々を送った。
そして一年が過ぎた頃、僕は忽然と妻と耕太の前から姿を消した。家族関係に嫌になったわけでも、耕太のことが嫌いになったわけでも、まさか妻に愛想つかしたわけでもない。
ただ、僕は独りになりたかった。それだけのことだった。
二人の前から姿を消したのは耕太と出会ってからちょうど一年が過ぎた、3月のことだった。まだ冬の寒さが残る3月に二人の前から姿を消すことに対して僕は大きなしこりを感じたが、それでも僕は姿を消すことを選んだ。そうしなければ、僕自身が壊れてしまうと感じたのだ。二人には言わずに、ひっそりといなくなることを決めた。二人に会えば、僕は必ず後悔する。いやらしい未練が残ったまま僕は一生悔やむことになるだけだ。それでも、いつか、また大きくなった耕太に出会えることを望んでいる僕がいたのもまた事実だった。

「小説を生業としているんだ」
二人の前から姿を消して、3ヶ月が経った頃、僕は一本の電話にそう答えた。
「小説家になったの?」
妻の質問はさほど興味なさ気な、どうでもいい感情が含まれていた。
「ああ、いっぱしの作家さ。ちょうどさっきまで仕事をしていた」
「そう」
それから僕らは特になにか会話をしたというわけでもない。妻からどんな言葉が飛び出すのかと警戒していたが、僕は不安視していた言葉は何一つ出てきやしなかった。「耕太がね」
ただ、一点において、僕の予想は当たった。
「耕太がね、会いたがってるの。あなたに。毎晩パパがいないって泣き喚かないと寝られなくなってる」
「うん…」
僕にまともな返答ができるはずもなかった。
耕太が泣こうが、まともに寝ることができないと言われようが、僕にはどうすることもできなかった。なぜなら僕は今、耕太のいないアパートの一室にいて、PCを目の前に作家という忙しい仕事に没頭しているはずだったからだ。
「今度、会いに行くよ」
会いに行くとは、なんとも陳腐な言葉か。そして身勝手な。
「いつ戻るの?」
妻はあえて僕にあてつけるように言い切った。
僕の戻るべき場所はそこにしかないと言わんばかりの言葉だ。
「今の仕事が片付いたら、すぐにでも」
「それはいつ?」
「もう、すぐだよ」
「…すぐよ。すぐに、来て」
懇願するようでもあるし、さほど期待していないようにも聞こえる。たぶん、そのどちらをも含んでいるのだ。
妻との連絡はそれっきりで断った。
僕はアパートの部屋になんていなかったし、作家を生業ともしていなかった。冷たい公衆電話ボックスの中で、独り立ちすくんでいた。

「どうして…」
妻の声のトーンが少し低くなった。
コアラはあいかわらず欠伸を繰り返している。人間のように眠そうな目を擦って、つまらなさそうに木の枝にしがみついている。
「パパー」
耕太はコアラを指差しながら僕の服の裾を引っ張っていた。
耕太は僕の子供ではない、と妻は言った。
他の男との間にできた子供であると、ある日の夜中、妻は僕にそう言った。
そのとき、隣の部屋で耕太は寝息を立てていた。
僕らはビールを飲みながら居間でテレビを見ていた。
翌日、僕は三度目の家出をした。
「ねえ、どうして戻ってきたの?」
洞窟を風がすり抜ける音とともにコアラの退屈そうな欠伸が視界に映っている。僕らは久々の休日を利用して近場の動物園へとやって来ていた。


                                             <了>