まどろみの先に見えたのは僕の知らない風景だった。
僕の目と鼻の先にいる耕太が両腕をぐるぐると回しながら興奮している。
「おっきてー!」
窓辺には金色の日差しが光線となって降り注いでいる。
カーテンの隙間からこれみよがしに僕に知らせるのは快晴だという天気からの朗報だった。僕にとっては朗報でもなんでもない。どちらがいいとも言えなかった。
たとえ曇りだったとしても、雨だったとしても、僕が朝を迎えれば憂鬱な気持ちになるってことは決まっていた。
「はやく、おきてってばー!」
「わかったわかった」
耕太に急かされてのっそりと身体を起こす。
隣で眠っているはずの妻の姿はもうそこにはなかった。
「ママは?」
訊くと、「おべんとうつくってるよ」と僕の身体に抱きつくようにして耕太が返事をした。

「ねえ、パパ、きりんさんはどこにいるのー?」
「キリンさんはどこにいるんだろうねえ」
「僕はパパに聞いてるんだよー」
妻の声が聞こえてきた。
洞窟を風がすり抜ける音とともにコアラの退屈そうな欠伸が視界に映る。僕らは久々の休日を利用して近場の動物園へとやって来ていた。息子の耕太は最近4歳になったばかりだった。仕事が忙しいと嘘をついてまで彼と会うのを拒んでいるのにはそれなりにワケがあるが、妻がそれを理解してくれるはずもない。
「パパー」
耕太の小さな手が、僕の服の裾を引っ張った。
「どうしたんだ? 耕太」
耕太、と名前で呼ぶのに、まだ違和感が残っている。自分の息子だってのになんだこのありさまは。まだどこかで耕太のことを他人として扱っている証拠じゃないか。人気のない動物園ほど行きたくない場所もないと思っていたが、まんまと僕はやって来ている。耕太の隣で手をつなぐ妻は呆けっとコアラの親子を見ていた。耕太とつなぐ手が今にも離れそうだ。
「パパー! パパー!」
耕太がさらに強く僕の服の裾を引っ張る。声を張り上げて、それをうるさいくらいに感じる僕は「どうしたんだい? 耕太」と呼びかけるが耕太がそれに返事をすることはない。その繰り返しが、僕らの、僕と耕太の父子関係の象徴と言える。
「できちゃったの」
子供か、と直感的に感じ取った。
うれしそうにはにかむ妻の顔がとても苦しかった。
それから僕は妻のもとから姿を消した。

耕太との初対面はそれほど苦ではなかった。元来、子供を苦手としていた僕にとってこれは意外すぎる出来事だった。耕太の印象は決して悪いものではなかったけれど、だからといって良かったかといえばそれは違った。正直に言えば、どちらでもなかったのだ。
「おかえり」
2歳になった耕太が妻の脚をしっかりとつかんでいた。妻の後ろに隠れながら、耕太は怯えた瞳で僕を見ていた。
突然逃げ出した僕を非難することはなく、暖かく迎え入れてくれた妻を僕はまともに見ることなんでできなかった。
耕太の頭を撫でながら、僕に紹介したがっていることに気づいた。
僕の子供だ、とあらためて言われなくともわかっている。
興味がない、と言ってしまえばそれで済んでしまうのだろうけど、まさか妻にそんなことを言える勇気があるわけでもなく、僕はその場を取り繕うようにして「はじめまして」と僕に無垢な視線を向ける耕太ににこやかに微笑んであいさつをした。
やがて僕と耕太はすぐに仲良くなった。それこそ本当の父子の関係のように、妻と3人で公園へと行けば、端から見れば仲むつまじい家族像がそこにはあった。春の暖かな日差しの照る公園の砂場で、夏の燦々と照る池のほとりで、秋の木枯らしの吹くベンチで、冬の雪の舞う遊具とともに、僕ら3人はその一年をまるで本物の家族のように充実した日々を送った。
そして一年が過ぎた頃、僕は忽然と妻と耕太の前から姿を消した。家族関係に嫌になったわけでも、耕太のことが嫌いになったわけでも、まさか妻に愛想つかしたわけでもない。
ただ、僕は独りになりたかった。それだけのことだった。
二人の前から姿を消したのは耕太と出会ってからちょうど一年が過ぎた、3月のことだった。まだ冬の寒さが残る3月に二人の前から姿を消すことに対して僕は大きなしこりを感じたが、それでも僕は姿を消すことを選んだ。そうしなければ、僕自身が壊れてしまうと感じたのだ。二人には言わずに、ひっそりといなくなることを決めた。二人に会えば、僕は必ず後悔する。いやらしい未練が残ったまま僕は一生悔やむことになるだけだ。それでも、いつか、また大きくなった耕太に出会えることを望んでいる僕がいたのもまた事実だった。

「小説を生業としているんだ」
二人の前から姿を消して、3ヶ月が経った頃、僕は一本の電話にそう答えた。
「小説家になったの?」
妻の質問はさほど興味なさ気な、どうでもいい感情が含まれていた。
「ああ、いっぱしの作家さ。ちょうどさっきまで仕事をしていた」
「そう」
それから僕らは特になにか会話をしたというわけでもない。妻からどんな言葉が飛び出すのかと警戒していたが、僕は不安視していた言葉は何一つ出てきやしなかった。「耕太がね」
ただ、一点において、僕の予想は当たった。
「耕太がね、会いたがってるの。あなたに。毎晩パパがいないって泣き喚かないと寝られなくなってる」
「うん…」
僕にまともな返答ができるはずもなかった。
耕太が泣こうが、まともに寝ることができないと言われようが、僕にはどうすることもできなかった。なぜなら僕は今、耕太のいないアパートの一室にいて、PCを目の前に作家という忙しい仕事に没頭しているはずだったからだ。
「今度、会いに行くよ」
会いに行くとは、なんとも陳腐な言葉か。そして身勝手な。
「いつ戻るの?」
妻はあえて僕にあてつけるように言い切った。
僕の戻るべき場所はそこにしかないと言わんばかりの言葉だ。
「今の仕事が片付いたら、すぐにでも」
「それはいつ?」
「もう、すぐだよ」
「…すぐよ。すぐに、来て」
懇願するようでもあるし、さほど期待していないようにも聞こえる。たぶん、そのどちらをも含んでいるのだ。
妻との連絡はそれっきりで断った。
僕はアパートの部屋になんていなかったし、作家を生業ともしていなかった。冷たい公衆電話ボックスの中で、独り立ちすくんでいた。

「どうして…」
妻の声のトーンが少し低くなった。
コアラはあいかわらず欠伸を繰り返している。人間のように眠そうな目を擦って、つまらなさそうに木の枝にしがみついている。
「パパー」
耕太はコアラを指差しながら僕の服の裾を引っ張っていた。
耕太は僕の子供ではない、と妻は言った。
他の男との間にできた子供であると、ある日の夜中、妻は僕にそう言った。
そのとき、隣の部屋で耕太は寝息を立てていた。
僕らはビールを飲みながら居間でテレビを見ていた。
翌日、僕は三度目の家出をした。
「ねえ、どうして戻ってきたの?」
洞窟を風がすり抜ける音とともにコアラの退屈そうな欠伸が視界に映っている。僕らは久々の休日を利用して近場の動物園へとやって来ていた。


                                             <了>