1
11月も半ばになると空の色が青々として冷たい空気が本格的になってきた。
近所を散歩しながらこれからのことをどうしようかと考えていたらケータイに着信。「もしもし?」
「どーもどーも、韮澤さん。お元気っすかー!?」
相手は大学時代の後輩の大内だった。とにかく軽くて、女遊びが酷いともっぱらの評判だった。
「今、渋谷で飲んでるんすよ。どーっすか? 来ません?」
「行く行く。あっ、でも金ねえや」
「いーっすよ。知り合いの店なんで俺の驕りっす」
「んじゃあ行く。すぐ行く」
僕の住んでいるマンションは池袋の駅からちょっと歩いたところにあった。一階に西友があって、近所にもコンビニが何軒かある。3DKで家賃が12万円。これが相場なのかどうかは良く知らないが、高校の時の連れとルームシェアをしている。だから家賃は折半して一人当たり6万円。上等だ。
実家の名古屋から出てきて2年になる。就職先などどこでも良かった。100年に一度の不況なんて叫ばれながらの就職活動が上手く行くとも思っていなかったし、社会に出たくないなんて考えすらあった。そんな中で唯一内定をもらえたのが東京の小さな印刷会社だった。地元密着型、と誇らしげに謳ってはいるものの、実態は経営が火の車でいつ潰れてもおかしくないような状況だったと後になってから知らされた。当時の同僚は言った。
「なあ、韮澤。どうして俺達に内定なんて出したんだろうか?」
「経営が火の車だったのにな」
「新卒なんて取ってる場合じゃなかったはずだぜ」
「だよな」
「中小の印刷会社で唯一環境保全に取り組んでいるだとか、人材派遣業も行っていて多角的に経営を進めてるだとかさ、説明会の時はあんな調子の良いこと言ってよ、こっちは被害者だっての」
「まあな。新卒もさ、良い格好でもしたかったんじゃないの?」
「こんな時代にする必要なんてねえだろうがっ」
「俺に当たるなよ」
同僚の車林は酒の席でひたすら会社の愚痴を垂れていた。僕もそれに同調するように会社の愚痴を垂らしたが、実際のところどうでも良かった。失業したところでしばらくは派遣でもするかと考えていた。これが20代の後半だったらちょっとは焦っていたが、まだ学生気分の抜けないまま失業して、立派に今後の人生を考えたりなどするはずもなかった。
「しばらくさ、俺は地元で就職活動するけど、お前は?」
「ん。わかんね」
「なんだよ、そんな適当でいいのかよ」
「いや、ちゃんと就職するって。でもこっちで探すかな」
「そうか。ま、またいつかな」
「ん」
新宿の焼肉屋の安安で飲んだ帰り道、車林は酔いながらぽつりと言った。
「彼女とさ、別れちまった」
「そうか」
「結婚考えてたのにな。まあ、失業したからちょうどいいか」
「なんで別れた?」
「他に男が出来たって。そっちと結婚するんだとよ」
「へー」
「もっと慰めてもらえるもんだと思ってたんだけどな」
車林が苦笑した。
「俺はそんなことしないよ」わかってるよ、と車林が言った。
*
「せーんぱーい! こっちこっち!!」
渋谷の駅を降りて20分ほど歩いたところで大内がビルの前に立っているのを見つけた。「お久しぶりっす」
「元気そうだな」
「先輩こそ~」
「俺は失業中の身だぜ?」
「俺っちはフリーターっすよ」
「どっちも変わんねえか」
ビルの地下一階に大内の兄がやっているというバーがあった。今は大内もそこでバーテンをやっているらしい。まだ準備中の札がかかっているので客はまだ誰一人いない。店内はオレンジ色のランプが所々で光っている暖かな雰囲気に包まれていた。
「でもほんと元気そうで何よりっす」
「お前もな」
「愛子先輩の葬式以来っすかね」
「ん。そうなるな」
少し、沈黙が訪れた。僕は口元に懐かしい笑みを称えたけど、大内はそうではなかった。
不意に真面目な顔つきになり、沈黙を破った。
「今日はとことん付き合ってもらいます」
「なにかあるらしいな。どんとこい」
時刻は夕方の6時を過ぎていた。カウンターに並んで座り、マスターのいない店内で僕と大内は二人っきりで酒を飲み始めた。
*
愛子は大学時代の後輩だった。大内の一つ上の先輩にあたり、僕にとっての一つ下の後輩だった。気立てが良く、誰に対しても平等な優しさを持った素敵な女性だった。異性としてみていたわけではなかったが、それでも僕の周りで彼女に惚れている人間はいくらでもいた。
ある日彼女が言った。
「先輩、私、しばらく大学に来れそうにないんです」
「なんで?」
「実はですね、私、心臓病を抱えているんです。幼い頃からずっとそれが持病で、大学に入ってからは落ち着いていたんですけどね。…またぶり返しちゃったみたいで」
あまりにも唐突だったため、初め彼女の言っていることがすんなりと耳に入ってこず、訊き返してしまった。「はい?」
「なーんて、冗談冗談っ!」
いつものように明るく振舞う彼女の声と表情がそこにはあった。まるでさっきまでのことを全てなかったものとして考えてくれという強い意志が秘められたような言葉調子だった。
それで僕はわざわざ再度訊き返すことはしなかった。彼女がそれでいいというのなら、わざわざ蒸し返すのも失礼な気がしたのだ。けれども彼女はその日以来、一度も学校へは来なかった。やがて音信が途絶え、誰もが彼女は退学をしたんだとか、密かに付き合っていた彼と結婚でもしたのではないかとか、そんな噂だけが一人歩きしていた。
彼女が学校に来なくなってから半年近くが経とうとしていた。僕と大内は軽音サークルの冬合宿で長野のスキー場へとやって来ていた。
「せーんぱいっ! 今夜、街に出て女の子ひっかけません?」
「やだよ。寒い中、誰もいるわけないだろ」
「そんなこと言わずにー」
「女の子ならホテルで捜せよ。ロビーで粘ればちょっとは脈もある奴がいるって」
「付き合いわるいなー、もう」
「うっせえ」
その夜は、皆で鍋をつついてマージャンをした。タバコをふかしながら酒を飲み、つまみを食べ、裸になった。女の子の部員も一緒の部屋にいたが、男達がいくら裸になろうとも全くの無視を押し通していた。4年の先輩にいたっては、「若いな」と一番重いセブンスターを吸いながら、3年部員の裸踊りを楽しげに眺めていた。
「韮澤、電話」
見ると僕のケータイがバイブしていた。
部屋の外に行き、画面を見ると、着信は愛子からだった。
「どした?」掠れた声だった。酒を浴びるように飲んだせいかもしれない。
「…」しばらく返事はなかった。電波が悪いのかと思い、再び声を掛けたがそれでも返ってこなかった。ケータイの画面にはしっかりと3本立っている。
「愛子?」
「あの…」
その声は今にも消え入りそうだった。一瞬で泣いている愛子の姿を思い浮かべることが出来た。「先輩、あの」
「久しぶりだな、なにやってんだ今?」
「先輩、私、と今度あの、…今度、部室、来てもらえませんか?」
「いいよ、いつがいい?」
「今週の土曜の正午に、待ってます」ブツッ。それで電話が一方的に切れた。
部屋に戻るとあいかわらず皆が馬鹿騒ぎをしていた。平和すぎる光景だと感じた。あまりに僕にとって当たり前すぎる光景だったため、改めて客観的に見るとそれは僕が今まで接してきた光景ではないような気分になった。
「韮澤?」
声を掛けられ、顔を向けると訝しげに僕を見る友人の顔があった。マージャン稗を手にしながら、顔を真っ赤に充血させている。床には幾種もの酒のビンが無数に転がっていた。
それで僕は自分の存在が再びその光景の中にぴったりとはまる感触を受けた。やっぱり、いつも通りの景色が広がっていた。
*
「懐かしいな」
「愛子先輩は天国で幸せになってんでしょうか」
大内は俯いたまま暗い影を落としていた。右手に持ったグラスの氷がカチンと鳴り、淡い光を放っていた。大内もまた愛子に好意を抱いていたのだろうか。彼女に言い寄る男どもは虫の数ほどいたが、付き合うまでに至った輩は一人もいない。愛子自身が世間離れした感性の持ち主であるということも関係しているのかもしれない。男女の交際、という概念すら理解していないのではないかと時々思ったこともあるくらいだ。とにかく、愛子が誰かと付き合ったという話を僕は聞いたことがない。
ただ、大内だけは違っていた。
大内は部内でも軽薄な男として見られていた。女の子には手当たり次第に手を出し、都合が悪くなったらあっさり捨てる。女の子の好みは可愛ければ何でもいい。そんな大内が唯一手を出そうともしなかったのが、愛子だった。僕は初め、大内の新たな手口だと思っていた。それまで巧みな会話術で女の子の心を鷲掴んでいた大内が、その世間離れしたこれまでとは違う種類の女の子を捕まえるために、一歩引いた位置で愛子を観察し、愛子を取り巻く男共を観察し、愛子の特殊な人間性にことごとく脱落していくその様を観察し、そして着実に愛子を落とすための作戦を練っているのだと。しかしそんなことは僕の独りよがりな想像でしかなかった。根拠のない妄想を膨らませることほど、無意味なことはない。
大内はいつになっても愛子に手を出すということはしなかった。でもいつも彼女のそばで、彼女を見ていた。それは彼なりの愛子に対する一風変わった愛情表現の一つだということにかなり後になってから知った。
「愛子を狙う男共はたくさんいたよな」
「いましたねー。めっちゃ」
「お前もその内の一人だと思ってたよ」
「……あははっ、ホント、韮澤さんは冗談きっついなあ」
大内は言葉を濁した。
やはり本人にとってあまり触れられたくない話題ではあるようだ。グラスを持つ手に余計な力が加わっているのが手に取るようにわかった。
「そうだ、韮澤さん。また聞かしてくださいよ、あの話」
僕は大内が何を言っているのか理解できなかった。
また、とはどういうことだろうか。僕が大内に何を話したことがあるというのだろうか。
「なんだっけ?」
「あの話ですって。あの、就職活動中の、…えっと夜行バスで起きた…」
「あー、はいはいはいはい」
「思い出しました?」
「思い出した。ってかなんで?」
「だってあの話聞いてるとなんだか癒されるんすよ」
ほら、早く、お願いしますって。
急かす大内に、僕は一つ咳払いをした。
「あれはな、俺が就職活動で大阪に行ってた時のことだ」
酒を一杯口に含み、喉を潤した。
「夜行バスに乗ったのは夜の11時半。スーツを着たままで、狭苦しいシートに持たれかかっていた時だったよ。暇でなあ。文庫本を持ってきてはいたんだけど、読書をする気にもなれない。寝るには早すぎたし、これからどうしようかと思ってた時だ」
そう、僕は見てしまった。窓際のA6という席から外にふと目をやった時に。そこに、愛子の姿があったのを。
***
愛子を見つけたとき、僕は口に含んだコーヒーでうがいをしていた。口内で静かにうがいをするのは他人からすれば汚らしい行為だと言うが、僕には理解できない。そうして窓の外にいた愛子を見て僕はコーヒーを噴出しそうになり、必死に腕で抑えていた。
(愛子?)
ありえるわけはないのだが、そこにいたのは紛れもなく愛子の姿だった。
窓にかじりつくようにして必死に彼女の姿を凝視した。「いやいやいや」
必死にそんなことはありえないのだと、自分で自分を諭していた。だとしたら他人の空似なのだろうか。だとしても、この胸の妙な動悸の説明がつかない。
バスが走りだした。ゆるやかにスキーで雪上を滑り始めたような軽やかさだった。僕はさらに窓に顔をよせ、豚っ鼻を作りながら段々と小さくなっていく彼女を見つめていた。
その時だった。彼女が一瞬笑ったのだ。クスリと、口元に利き手である右手の拳を近づけ笑った。それを見て僕は確信した。彼女は愛子だ。あの独特の仕草は彼女のそれと全く一緒だった。
***
「愛子先輩の双子とかじゃないんすか?」
「あいつに双子の兄弟がいたなんて話、聞いたことないだろ? ありえない」
「でも先輩って部内でも不思議を身に纏ったような人だったじゃないすか。どこか暗い影を落としてるみたいな」
「でも、そんな愛子をお前らは飽きもせず狙ってたわけだよな」
「そういう不思議さが魅力的だったんすよ。蟲惑的というか」
「そんなもんかねぇ」
腕を組み、背もたれに身を預ける。今考えても、どうにもあの時、なぜ愛子が自分の目の前に現れたのか理解できない。第一、彼女は本当に誰なのか? 愛子…? いやあるわけがない。じゃあ誰だ? 双子だとして、なぜ僕なんだ?
考えても考えても推測すらつかない。あるのは「?」だけで、やがて頭痛にも似た痛みが頭頂部を襲った。
「今日は誘ってくれてありがとうな」
「いえいえ。また、誘ってもいいすか?」
「職が見つかるまで当分暇だからな」
じゃな、と大内と別れ、僕は来た道を引き返す。
さすがに夜風の冷たさには肌を刺すような感触を受ける。来月は12月。年の瀬がもうすぐそこまで近づいていた。
コートを羽織っていても顔だけは隠せないため、風は容赦なく吹き付ける。まるで火照った顔を覚まそうとしているかのように、作為的なものを感じるのは、僕がまだ酔っているからかもしれない。吐き出す息で、両手を暖めた。
思えばこうして夜道を散策するなどということは、大学生の頃以来ではないか。夜空に浮かぶ金色の月が僕を慰めているようにも、馬鹿にしているようにも思えた。これからのことを、真面目に考えなければならないな。心の中で決意して、そうして家に着く頃にはこの決意も忘れてしまうなんていうことも、わかっている。
僕の住んでいるアパートは板橋駅から歩いて10分のところにあった。
近所は住宅の立ち並ぶ閑静な場所だ。その住宅街に囲まれるようにして小さな公園がある。
ブランコとシーソーがあるだけの、こじんまりとした公園だ。帰り道、酔いを覚ますためにその公園へと立ち寄ることにした。一歩入るとそこは現実から引き剥がされた夢の国。なのだと幼い時分は思っていたはずなのに、今では酒を抜くための立寄り場所になっていることに悲しさを覚える。自分の人生も恐らく、この公園のように休憩のための立寄り場所が所々に点在しているに違いない。そうして何度も何度も自分が歩んできた道を振り返っては内省し、月を見上げて、そんな自分に酔いしれるのだ。なんて自分は可哀想な人間なのだろう、と。そうしてそんなことを考えてしまった自分に再び落ち込む。その、繰り返しを延々と続けていくことが人生なのかもしれない。
ブランコに座り、幼き日々の自分の姿に浸っていた。漠然とした記憶でしかないが、ここにいるのは確かに生きていることに何の迷いもない自分の姿だった。
一際冷たい風が頬に当たる。喝を入れられている気分にもなった。
「…どうしたらいいんだよ」
無職になってしまった自分に、ほとほとついていないな、と呆れることしかできない。
こんな時、愛子はいつも笑顔で僕を元気付けてくれていた。
「ファイトです、先輩。スマイル、スマイル」そうそう、こんな風に。
「まだ始まってもいないじゃないですか、これからですよ」今日はそんなに飲んだだろうか。酔いが一切引く気配がない。こんな幻聴を聞いてしまうなど、これまでなかったことだ。
「大丈夫ですか、先輩?」そっと僕の肩に優しく触れる何かを感じた。
はっ、と横を見やり、絶句した。「…」
「お久しぶりです。先輩」
愛子は、大学生のあの頃のままの愛子の姿ではなかった。少しだけ大人びた、愛子の姿がそこにはあった。
2
「お久しぶりです、先輩」
「愛子…」
そこにいたのは紛れもなく愛子で、でも少しだけ印象が違うのはきっと彼女が僕の知ってる当時の愛子と比べて大人びているからで、でもその大人びた愛子は以前にも増してさらにその美貌に磨きを掛けていて、そんな彼女を僕はあまつさえ抱いてみたいと感じてしまっていた。
先輩、と呼ぶ仕草が懐かしかった。時折見せる、長い髪を耳に掻き揚げながら僕を呼ぶその声。透明な声音は懐かしさを想起させる。彼女を愛子と認識するのに否定的な考えは微塵も浮かばなかった。僕の目の前にいるのは愛子だ。
「驚いたと思います。申し訳ありません、こんなの…変ですよね」
「いや、変…というか」どう表現したらいいのか、わからない、ですか。愛子は微笑んでいた。その反応を見越していたかのように。
素直に首肯した。自分の感情を上手に隠せるような余裕もなかった。驚いてもいるし、嬉しいような気もする。不可解だ、と問い詰めたくもなるし、なんで今更、と飽きれさえ感じる。でもそういうこと諸々を含めて僕は彼女に何を、何と言えばいいのか、一番に訊くべき事柄はなんなのだろうかと必死に探る。が、何も出ない。フリーズしてしまったかのように。
****
ドトールでコーヒーを飲みながら腕時計に目をやると、6時半を過ぎていた。
急いで仕度し、店を出る。
開場が確か6時からでその30分後には開演しているはずだった。
遅刻だ、と思いながらもさして焦っていない自分に気がつく。
むしろこのまま帰ってしまおうかとも考える。僕が行ったところで、と。
泰介はいつごろ出てくるのだろうか。
今日は6組の出演で、ライブ自体は2時間で終るとのことだった。
泰介がいつごろ出てくるのかをあらかじめ聞いておくべきだったな、と舌打ちしながら地下2階へと繋がるエレベーターに乗り込んだ。
泰介は中学からの友人だった。大学を卒業してからも唯一付き合っている地元の級友。親友といっても近い存在もしれない。その割に久しく会っていなかったから、ライブの招待を受けたときは驚き、喜びを同時に感じた。
ライブ会場は小さな鉄製のドアの向こうにあった。
ドアを抜けると小さな机だけで仮設されてような受付。
泰介から前もって渡されていたチケットを渡すと、数枚かのチラシと共にドリンクチケットも一緒に渡された。「奥を行った右手にあります」と促され、今度は木製のクリーム色をしたドアを開けた。
「えー、というわけでですね…こんなしょっぱな下ネタでごめんねっ!って感じなんですけどね…いやまあホント今日のお客さん達はみさなん人間が出来てらっしゃる…」
眼前に広がっていたのは暗い室内で、小さなステージの上に頼りなく照らし出されていた照明の数々だった。その照明に後押しを受ける形で一人の少年が不安そうな笑みを浮かべながら尻すぼみながら話している。
「おっと、また新たなお客さんですか。いやいやいやよく来てくださいまして。ってか途中入室って…もうこれで何人目だよっ!」
一人でボケをして、一人でツッコミを入れている。およそボケともツッコミとも言いがたい、そう高校生が内輪でやるような談笑程度のボケとツッコミ。そこには自己満足しかないはずなのに、目の前の彼はそれをお金を取ったお客さんの前で披露している。
「ちょっとちょっとおにーさーん! なんて顔してんのさー! 元気かーい?」
自分がまさか客いじりのその対象になるだなんて予想だにしなかった。
咄嗟に「ああ、うん」と頼りない声を出してしまう。
結局僕の反応が悪かったのか、演者である少年の技量のなさが原因か、僕と少年との初の絡みは場の空気に飲み込まれるようにして一気になかったものとして扱われた。
僕自身、その絡みに関しては別に大した感慨も持っていなかったのだが、背後から声を掛けてきた泰介は僕を案じ、「ごめんな。いつもはもっと客も多いんだけどさ、今日みたいな少ない日に呼んじゃって」と耳元で心底申し訳なさそうな声を出された。
確かに僕はこういう目立つとか、浮くとか、注目されることが苦手ではあるけれど、今のは違う。違う、と言ったところでまた泰介の気を使わせるだけだろう。
「いや、大丈夫」と応え、隣にいた女性に目がいく。泰介が気づき、照れ笑いしながら「こいつ彼女。今同棲してんだ」と言う。
違うでしょー、食べさしてやってんでしょー。怒ったような注釈をつけはするものの、その口ぶりはどこか甘い。
ライブ会場は30畳ほどの小さな部屋の中で、アングラ的な佇まいを醸し出していた。
泰介は3番目に出るとのことだった。一つのグループに与えられた持ち時間は20分間。
その短い時間の中で、泰介率いる「もずくスマイル」は3曲を披露するとのこと。
ライブをやる以上はもちろん、歌だけではなくMCも重要なパート。そのMCでいかにお客さんを引き付ける事ができるかも、プロとしての技量が問われるらしい。残念なことにもずくスマイルはまだメジャーデビューはおろかインディーズでのデビューも飾ってはいない。泰介自身に関して言えばこれまでにもインディーズだけならばデビューのお誘いがあったらしい。ただ、どれも胡散臭いものだったり、力のないレーベルだったりする。一度どこかの事務所に(それがインディーズとしてでも)所属してしまったらその他のあらゆるコンテストには出場出来ないらしい。本気で売れようと思ったらあらゆるコンテストに出場し、数々の功績を残し、そしてあとは運に任せるのだという。
あまりにも不利な立場ではないか、と思った。と同時にコンテストの審査員やメジャーレーベルのスカウトマンというものは企業で言うところの採用面接官と同じか、と思った。いや、さほど改めて考えるまでもないことだが、どうにも今の自分の状況と重ね合わせてしまう。つまり、就職するのもデビューするのも、最終的には縁であり、運であるのだ。
そこに公平などという言葉は存在しない。
何がしたいのかわからない芸人のような少年は、常に時間を気にしていた。もう終ってしまう、ではなくていつになったら終了時間が来るのだ、と焦っている表情だ。
「えーでは、この辺で今日のメインイベント。僕の敬愛するダウンタウンの松本仁さんが作詞をされたチキンライスを唄いたいと思います。
マイクを持ち、バックミュージックが流れると思ったらあれっ、と思った。
マイクは持っている。が、バックミュージックが流れない。代わりに突然ケータイを取り出し、イヤフォンを耳にはめた。
「僕はですね、こうやって聞きながらでないと唄えないのでして…えー…いきます」
いや、行くなよ。
しかしなかなか歌が始まらない。というかバックミュージックがないからお客である僕達にはいつ始まるのかがわからない。もしかしたら彼の中ではすでに始まっているのかもしれない。イントロを聞きながら、その余韻に浸っているのかもしれない。
「あ、ちょっと待ってください。音が、上手く…流れ…なくて…クソッ」
小さく舌打ちをしたつもりだろうが、しっかりとその音はマイクに入っていた。それほど音響設備もよくないのはわかるが、しっかりと僕の耳に入ってきた。
「あ、行きます行きます。唄います」
誰に言っているのか、もはやわからない。
本人も相当焦っているに違いない。ピンク色とも赤色とも言いがたいケータイが、照明でキラリと輝いていた。
案の定と言うべきか、それとも意外、と言葉にした方が良かったのか、とにかく歌は酷かった。仲間内で行くカラオケにも連れて行きたくないような酷さ。そこには「残念な感じ」という感想だけが残った。
バックミュージックもなく、かといって格別歌が上手いというわけでもない。聞いていて腹しか立たない。それでも最後まで潔く唄いきっていれば僕もまさかここまで言うまい。肝心なのはやっている本人がどこまで一生懸命にやっているか、の問題である。そして彼はお客である周囲を気にしながら、途中半笑いで、恥ずかしい自分を隠しながら(それは隠れてはいないのだけれど)唄いきった。その姿がさらに痛々しさを増して、見ている僕らは誰もが失笑するしかなかった。
一方、泰介のライブは大、とは言わないまでもそこそこの歓声と熱烈な固定ファンのおかげで事なきを得た。
危惧されていた危なげな演奏も無事問題なくやり切ることが出来、彼らの2回目のライブにしては上出来の仕上がりとなった。
「お疲れ」全ての演目を終え、会場は帰り支度やスタッフと談笑を交わしたり、あるいは演者とのささやかな交流による人ごみとざわめきに埋め尽くされた。泰介も結成当時からの熱心な固定ファンとの談笑に花を咲かせている。
「おお、ありがとな、今日は」いや、良かったよ、今日。
初めてもずくスマイルのライブを見た。これまでも何度かではあるが、泰介が曲作りの最中に試し聞き程度で楽曲を披露されたことはある。悪くはない、が自分の心の琴線に触れるような衝撃は受けてこなかった。正直なところ。
「こういう場、ちょっと圧倒されるけど…」
大体、“ライブ”というものに今までの人生の中で触れ合う機会など微塵もなかった。様々な刺激を受けたことも含めての「良かった」というのは本音ではある。
「これからどうするんだ? この後、少数だけど打ち上げやるんだが」このビルの4階にある笑笑でさ。泰介の誘いを断り、僕は一人そのライブ会場を後にした。「ありがとう、でもちょっと行くところがあるんだ」そうか、わかった。じゃあな。
会場の重々しい扉を開けたところでもう一度泰介に視線をやった。泰介もこっちを見ていたが、すぐにファンらしき女の子が近づき、楽しげな談笑に花を咲かそうとする泰介の姿を見て扉をゆっくりと閉めた。
****
「お前は本当に愛子か?」
目の前の愛子に真実を問い詰める。彼女は何も言わないが、その代わりににっこりと優しい微笑をたたえている。
戸惑いを隠しきれないままわなわなと手が震えてきた。寒さのせいだ、と自分に言い聞かせるが、すぐに恐れているのだと素直に認める。
「私、どうしても諦めきれなくて…来ちゃいました」
「なにを諦めきれなかったんだ?」
「大内くんのこと、私、好きだったんです彼のこと」
なんとも意外すぎる告白に動揺を隠せない。まるで愛子らしからぬことを言う。
「意外だな、そんなこと言うとは」
「えへへ。だって、私そんなキャラじゃなかったですもんね」
愛子の考えていることがどうにもわからなかった。彼女は一体何を望んでいるというのだ。それは僕の目の前に現れた理由と深く関係しているのだろうか。
「大内くんに、告白したくてこんな寒い日に現れたんです。私、凍え死んじゃいそうです」
「大内に会いたいなら、場所教えるぞ」
「いいえ。自分で探せますから大丈夫です」じゃあ、俺に何の用があるというのだ。
「……あの日、先輩たちがスキー合宿に行っている間に取りつけた約束…覚えていますか?」
約束…確かに覚えていた。だが、そういえばあの約束は…。
「先輩には…相談できないままだったから…大内くんに告白しようと思ってて、でもあの日、部室に行くことができなくて…それだけが心残りだったんです」
「好きですって。正直に言うべきだろ」愛子は、あの合宿中に死んだのだ、そういえば。病床のベッドの上で。
「ですよね」あーあ。呆れたような、想定内だったような、気の抜けた渇いた声を上げる。
「好きなら、正直に」愛子が僕を見つめて放さない。すべてを見透かしているかのようだ。
「もしこの告白が上手くいったら、先輩、私とデートしてください」意味がわからなかった。
「いいけど」と条件反射で言ってしまう自分にも馬鹿げていると思った。いいけど。なんのことはない、ただの女の子とのデートだ。
3
愛子が大内に告白をした。
彼女の告白は上手くいったのだろう。成功し、狂喜乱舞でもしたのだろう。その証拠にこれから僕は彼女とデートをする。場所は動物園で、開園時間の朝10時からみっちりと動物園デートを楽しむのだという。僕には理解できないが、彼女の言われるがままに状況に流されてみて、特に嫌な思いはしない。
大内からはてっきり何かしらの連絡があると思っていた。愛子先輩が生きてました、とか、告白されちゃいましたとか。でも一切電話の着信がない。もしかしたら彼もまだ頭の整理がついていないのではないかと思う。フリーズだ。しかも同時に愛の告白なんてものまでされたら、思考の働かない頭では首肯するしかないのではなかろうか。僕と似て、雰囲気に流されるところはある。知り合いとは言え久しぶりのデートだ。いささか緊張感を持ち、さりげない程度におしゃれもした。年相応のあまりはっちゃけない程度に。やる気まんまんなんて感想を持たれないようにも気を使った。待ち合わせた正門のチケット売り場前では赤ちゃんを連れた若い夫婦や大学生くらいのカップルがいたが、やがて愛子がやってきた。ひときわ際立つその美貌。周囲の─周囲の女性すらも─見惚れるほどの美しさに、隣で彼氏面をする僕はなぜか誇らしい。優越感に浸る。が、彼女は大内という本命がいるのだと思いだし、自分に大切な人がいないという事実に苦笑する。学生の頃に比べて心が老けた気がするのは、きっとこういう小さな幸せさえも現実感で打ち消してしまうからなのだ。「待ちました?」全然。満面の笑みは、仕事上生きていくための処世術だった。プライベートでさえももう心からの笑みを浮かべる方法を忘れてしまっている。
「俺も今来たとこだよ。俺とデートするってことは、成功したみたいだな」にっこりと笑う愛子にまた見惚れる。
園内は閑散としていたが、愛子の子供のようなはしゃぎっぷりは寒さすらも忘れさせてくれるものだった。彼女は特に大内の話をするわけでもなく、かといってこれまで何をしていたのかを話すわけでもなかった。ひたすらはしゃぐ愛子は、聞かれてはまずいと言わんばかりに僕に質問をさせまいとする。
「なあ、大内とは」空気を壊そうとするつもりはなかった。ただ、気になっただけなのだ。
ふっと愛子の表情から笑顔が消えた。
「どうなったんだ? あいつさ、俺に連絡の一つも寄こさないからさ」冗談交じりに話をすすめる。愛子の表情が明らかに暗い影を落としていたのだ。
「成功、しましたよ。ただそれだけです。それ以上はないです」そう。それは成功と言えるの? と訊き返そうとしてやめた。そこまで空気を読めない人間にもなり下がりたくない。
相撲に勝って勝負に負ける。のだろうか。そんな慣用句がふっと脳裏をよぎった。
「いいんです、これで」愛子は泣いていただろうか。背中から見える彼女の細い身体が震えているのは泣いているせいなのかもしれない。そっと身体を抱き寄せるわけでもなく、声をかけるわけでもない。じっと立って、彼女が立ち直るのをそっと待っていた。
突然ケータイの着信が鳴り、静まり返っていた中をけたたましい音で切り裂いた。
相手は大内だった。くせで通話ボタンを押してしまう。気まずいな、と感じながら愛子には気づかれないようにさっさと電話を切ろうとした。「先輩! ビッグニュース! 愛子先輩に双子の姉妹がいたって!!!!」
慌ただしい声を上げながら興奮を抑えきれない大内は、はあはあと息を切らしていた。
「はい?!」そんなことあるわけがない。現に目の前には愛子がいるのだ。彼女は生きていた。
「先輩」口元をそっと艶美に微笑む愛子がいた。受話口を耳にあてたままの僕に笑みをたたえる。待ち合わせで出会ったときのような笑顔でも、さっきまで無邪気にはしゃいでいた笑みでもなく、怖いくらいに美しい笑みを。
「大内くんからでしょ」そうだけど。
「双子の姉妹がいるって、言ってるのでしょう」間違いない。
「大内くんは間違ってないですよ」本当にお前は、…そうなのか。てっきり…、信じ切っていたのに。
「お姉ちゃんの遺言です。だから、それを叶えてあげようと思って」だから告白しただけで良かったのか。確かに、それなら納得できる。
「でも、私個人でいえば、先輩の方が好きですよ」
「ありがとう」素直に受け取っておくよ。急速に老けてきたような気がして最近殊に潤いがなかったんだ。
愛子の双子の妹だという女。彼女の名前を訊くことはしなかった。姉が愛子、ということならきっとそれに近い名前なのだろう。一般的なイメージで一方的に考えるが、それで構わないと思った。正解を訊いてしまったらやけに現実味を帯びてしまって夢から覚めてしまう気がしたのだ。
彼女が走り去る。何も言わずに、僕はケータイをそっとポケットにしまい込んだ。
彼女とはこのまま不思議な関係のまま終わらせたかった。本心を伝えあわないまま、お互いに秘密を持ち続ける。よく考えたら彼女とは言葉にしなくてもそれを確認しあっていたみたいだ。会話の端々を思い出して、勝手にそう決め付けた。
11月も半ばの空は空気が澄んで青々としてはいる、が、生きている実感などまるで靄みたいにフワフワしている方がどれだけ幸せなことだろう。そっとポケットから差し出した右手のひらを冷たい空気の舞う地上140センチの位置に柔らかく置いた。
11月も半ばになると空の色が青々として冷たい空気が本格的になってきた。
近所を散歩しながらこれからのことをどうしようかと考えていたらケータイに着信。「もしもし?」
「どーもどーも、韮澤さん。お元気っすかー!?」
相手は大学時代の後輩の大内だった。とにかく軽くて、女遊びが酷いともっぱらの評判だった。
「今、渋谷で飲んでるんすよ。どーっすか? 来ません?」
「行く行く。あっ、でも金ねえや」
「いーっすよ。知り合いの店なんで俺の驕りっす」
「んじゃあ行く。すぐ行く」
僕の住んでいるマンションは池袋の駅からちょっと歩いたところにあった。一階に西友があって、近所にもコンビニが何軒かある。3DKで家賃が12万円。これが相場なのかどうかは良く知らないが、高校の時の連れとルームシェアをしている。だから家賃は折半して一人当たり6万円。上等だ。
実家の名古屋から出てきて2年になる。就職先などどこでも良かった。100年に一度の不況なんて叫ばれながらの就職活動が上手く行くとも思っていなかったし、社会に出たくないなんて考えすらあった。そんな中で唯一内定をもらえたのが東京の小さな印刷会社だった。地元密着型、と誇らしげに謳ってはいるものの、実態は経営が火の車でいつ潰れてもおかしくないような状況だったと後になってから知らされた。当時の同僚は言った。
「なあ、韮澤。どうして俺達に内定なんて出したんだろうか?」
「経営が火の車だったのにな」
「新卒なんて取ってる場合じゃなかったはずだぜ」
「だよな」
「中小の印刷会社で唯一環境保全に取り組んでいるだとか、人材派遣業も行っていて多角的に経営を進めてるだとかさ、説明会の時はあんな調子の良いこと言ってよ、こっちは被害者だっての」
「まあな。新卒もさ、良い格好でもしたかったんじゃないの?」
「こんな時代にする必要なんてねえだろうがっ」
「俺に当たるなよ」
同僚の車林は酒の席でひたすら会社の愚痴を垂れていた。僕もそれに同調するように会社の愚痴を垂らしたが、実際のところどうでも良かった。失業したところでしばらくは派遣でもするかと考えていた。これが20代の後半だったらちょっとは焦っていたが、まだ学生気分の抜けないまま失業して、立派に今後の人生を考えたりなどするはずもなかった。
「しばらくさ、俺は地元で就職活動するけど、お前は?」
「ん。わかんね」
「なんだよ、そんな適当でいいのかよ」
「いや、ちゃんと就職するって。でもこっちで探すかな」
「そうか。ま、またいつかな」
「ん」
新宿の焼肉屋の安安で飲んだ帰り道、車林は酔いながらぽつりと言った。
「彼女とさ、別れちまった」
「そうか」
「結婚考えてたのにな。まあ、失業したからちょうどいいか」
「なんで別れた?」
「他に男が出来たって。そっちと結婚するんだとよ」
「へー」
「もっと慰めてもらえるもんだと思ってたんだけどな」
車林が苦笑した。
「俺はそんなことしないよ」わかってるよ、と車林が言った。
*
「せーんぱーい! こっちこっち!!」
渋谷の駅を降りて20分ほど歩いたところで大内がビルの前に立っているのを見つけた。「お久しぶりっす」
「元気そうだな」
「先輩こそ~」
「俺は失業中の身だぜ?」
「俺っちはフリーターっすよ」
「どっちも変わんねえか」
ビルの地下一階に大内の兄がやっているというバーがあった。今は大内もそこでバーテンをやっているらしい。まだ準備中の札がかかっているので客はまだ誰一人いない。店内はオレンジ色のランプが所々で光っている暖かな雰囲気に包まれていた。
「でもほんと元気そうで何よりっす」
「お前もな」
「愛子先輩の葬式以来っすかね」
「ん。そうなるな」
少し、沈黙が訪れた。僕は口元に懐かしい笑みを称えたけど、大内はそうではなかった。
不意に真面目な顔つきになり、沈黙を破った。
「今日はとことん付き合ってもらいます」
「なにかあるらしいな。どんとこい」
時刻は夕方の6時を過ぎていた。カウンターに並んで座り、マスターのいない店内で僕と大内は二人っきりで酒を飲み始めた。
*
愛子は大学時代の後輩だった。大内の一つ上の先輩にあたり、僕にとっての一つ下の後輩だった。気立てが良く、誰に対しても平等な優しさを持った素敵な女性だった。異性としてみていたわけではなかったが、それでも僕の周りで彼女に惚れている人間はいくらでもいた。
ある日彼女が言った。
「先輩、私、しばらく大学に来れそうにないんです」
「なんで?」
「実はですね、私、心臓病を抱えているんです。幼い頃からずっとそれが持病で、大学に入ってからは落ち着いていたんですけどね。…またぶり返しちゃったみたいで」
あまりにも唐突だったため、初め彼女の言っていることがすんなりと耳に入ってこず、訊き返してしまった。「はい?」
「なーんて、冗談冗談っ!」
いつものように明るく振舞う彼女の声と表情がそこにはあった。まるでさっきまでのことを全てなかったものとして考えてくれという強い意志が秘められたような言葉調子だった。
それで僕はわざわざ再度訊き返すことはしなかった。彼女がそれでいいというのなら、わざわざ蒸し返すのも失礼な気がしたのだ。けれども彼女はその日以来、一度も学校へは来なかった。やがて音信が途絶え、誰もが彼女は退学をしたんだとか、密かに付き合っていた彼と結婚でもしたのではないかとか、そんな噂だけが一人歩きしていた。
彼女が学校に来なくなってから半年近くが経とうとしていた。僕と大内は軽音サークルの冬合宿で長野のスキー場へとやって来ていた。
「せーんぱいっ! 今夜、街に出て女の子ひっかけません?」
「やだよ。寒い中、誰もいるわけないだろ」
「そんなこと言わずにー」
「女の子ならホテルで捜せよ。ロビーで粘ればちょっとは脈もある奴がいるって」
「付き合いわるいなー、もう」
「うっせえ」
その夜は、皆で鍋をつついてマージャンをした。タバコをふかしながら酒を飲み、つまみを食べ、裸になった。女の子の部員も一緒の部屋にいたが、男達がいくら裸になろうとも全くの無視を押し通していた。4年の先輩にいたっては、「若いな」と一番重いセブンスターを吸いながら、3年部員の裸踊りを楽しげに眺めていた。
「韮澤、電話」
見ると僕のケータイがバイブしていた。
部屋の外に行き、画面を見ると、着信は愛子からだった。
「どした?」掠れた声だった。酒を浴びるように飲んだせいかもしれない。
「…」しばらく返事はなかった。電波が悪いのかと思い、再び声を掛けたがそれでも返ってこなかった。ケータイの画面にはしっかりと3本立っている。
「愛子?」
「あの…」
その声は今にも消え入りそうだった。一瞬で泣いている愛子の姿を思い浮かべることが出来た。「先輩、あの」
「久しぶりだな、なにやってんだ今?」
「先輩、私、と今度あの、…今度、部室、来てもらえませんか?」
「いいよ、いつがいい?」
「今週の土曜の正午に、待ってます」ブツッ。それで電話が一方的に切れた。
部屋に戻るとあいかわらず皆が馬鹿騒ぎをしていた。平和すぎる光景だと感じた。あまりに僕にとって当たり前すぎる光景だったため、改めて客観的に見るとそれは僕が今まで接してきた光景ではないような気分になった。
「韮澤?」
声を掛けられ、顔を向けると訝しげに僕を見る友人の顔があった。マージャン稗を手にしながら、顔を真っ赤に充血させている。床には幾種もの酒のビンが無数に転がっていた。
それで僕は自分の存在が再びその光景の中にぴったりとはまる感触を受けた。やっぱり、いつも通りの景色が広がっていた。
*
「懐かしいな」
「愛子先輩は天国で幸せになってんでしょうか」
大内は俯いたまま暗い影を落としていた。右手に持ったグラスの氷がカチンと鳴り、淡い光を放っていた。大内もまた愛子に好意を抱いていたのだろうか。彼女に言い寄る男どもは虫の数ほどいたが、付き合うまでに至った輩は一人もいない。愛子自身が世間離れした感性の持ち主であるということも関係しているのかもしれない。男女の交際、という概念すら理解していないのではないかと時々思ったこともあるくらいだ。とにかく、愛子が誰かと付き合ったという話を僕は聞いたことがない。
ただ、大内だけは違っていた。
大内は部内でも軽薄な男として見られていた。女の子には手当たり次第に手を出し、都合が悪くなったらあっさり捨てる。女の子の好みは可愛ければ何でもいい。そんな大内が唯一手を出そうともしなかったのが、愛子だった。僕は初め、大内の新たな手口だと思っていた。それまで巧みな会話術で女の子の心を鷲掴んでいた大内が、その世間離れしたこれまでとは違う種類の女の子を捕まえるために、一歩引いた位置で愛子を観察し、愛子を取り巻く男共を観察し、愛子の特殊な人間性にことごとく脱落していくその様を観察し、そして着実に愛子を落とすための作戦を練っているのだと。しかしそんなことは僕の独りよがりな想像でしかなかった。根拠のない妄想を膨らませることほど、無意味なことはない。
大内はいつになっても愛子に手を出すということはしなかった。でもいつも彼女のそばで、彼女を見ていた。それは彼なりの愛子に対する一風変わった愛情表現の一つだということにかなり後になってから知った。
「愛子を狙う男共はたくさんいたよな」
「いましたねー。めっちゃ」
「お前もその内の一人だと思ってたよ」
「……あははっ、ホント、韮澤さんは冗談きっついなあ」
大内は言葉を濁した。
やはり本人にとってあまり触れられたくない話題ではあるようだ。グラスを持つ手に余計な力が加わっているのが手に取るようにわかった。
「そうだ、韮澤さん。また聞かしてくださいよ、あの話」
僕は大内が何を言っているのか理解できなかった。
また、とはどういうことだろうか。僕が大内に何を話したことがあるというのだろうか。
「なんだっけ?」
「あの話ですって。あの、就職活動中の、…えっと夜行バスで起きた…」
「あー、はいはいはいはい」
「思い出しました?」
「思い出した。ってかなんで?」
「だってあの話聞いてるとなんだか癒されるんすよ」
ほら、早く、お願いしますって。
急かす大内に、僕は一つ咳払いをした。
「あれはな、俺が就職活動で大阪に行ってた時のことだ」
酒を一杯口に含み、喉を潤した。
「夜行バスに乗ったのは夜の11時半。スーツを着たままで、狭苦しいシートに持たれかかっていた時だったよ。暇でなあ。文庫本を持ってきてはいたんだけど、読書をする気にもなれない。寝るには早すぎたし、これからどうしようかと思ってた時だ」
そう、僕は見てしまった。窓際のA6という席から外にふと目をやった時に。そこに、愛子の姿があったのを。
***
愛子を見つけたとき、僕は口に含んだコーヒーでうがいをしていた。口内で静かにうがいをするのは他人からすれば汚らしい行為だと言うが、僕には理解できない。そうして窓の外にいた愛子を見て僕はコーヒーを噴出しそうになり、必死に腕で抑えていた。
(愛子?)
ありえるわけはないのだが、そこにいたのは紛れもなく愛子の姿だった。
窓にかじりつくようにして必死に彼女の姿を凝視した。「いやいやいや」
必死にそんなことはありえないのだと、自分で自分を諭していた。だとしたら他人の空似なのだろうか。だとしても、この胸の妙な動悸の説明がつかない。
バスが走りだした。ゆるやかにスキーで雪上を滑り始めたような軽やかさだった。僕はさらに窓に顔をよせ、豚っ鼻を作りながら段々と小さくなっていく彼女を見つめていた。
その時だった。彼女が一瞬笑ったのだ。クスリと、口元に利き手である右手の拳を近づけ笑った。それを見て僕は確信した。彼女は愛子だ。あの独特の仕草は彼女のそれと全く一緒だった。
***
「愛子先輩の双子とかじゃないんすか?」
「あいつに双子の兄弟がいたなんて話、聞いたことないだろ? ありえない」
「でも先輩って部内でも不思議を身に纏ったような人だったじゃないすか。どこか暗い影を落としてるみたいな」
「でも、そんな愛子をお前らは飽きもせず狙ってたわけだよな」
「そういう不思議さが魅力的だったんすよ。蟲惑的というか」
「そんなもんかねぇ」
腕を組み、背もたれに身を預ける。今考えても、どうにもあの時、なぜ愛子が自分の目の前に現れたのか理解できない。第一、彼女は本当に誰なのか? 愛子…? いやあるわけがない。じゃあ誰だ? 双子だとして、なぜ僕なんだ?
考えても考えても推測すらつかない。あるのは「?」だけで、やがて頭痛にも似た痛みが頭頂部を襲った。
「今日は誘ってくれてありがとうな」
「いえいえ。また、誘ってもいいすか?」
「職が見つかるまで当分暇だからな」
じゃな、と大内と別れ、僕は来た道を引き返す。
さすがに夜風の冷たさには肌を刺すような感触を受ける。来月は12月。年の瀬がもうすぐそこまで近づいていた。
コートを羽織っていても顔だけは隠せないため、風は容赦なく吹き付ける。まるで火照った顔を覚まそうとしているかのように、作為的なものを感じるのは、僕がまだ酔っているからかもしれない。吐き出す息で、両手を暖めた。
思えばこうして夜道を散策するなどということは、大学生の頃以来ではないか。夜空に浮かぶ金色の月が僕を慰めているようにも、馬鹿にしているようにも思えた。これからのことを、真面目に考えなければならないな。心の中で決意して、そうして家に着く頃にはこの決意も忘れてしまうなんていうことも、わかっている。
僕の住んでいるアパートは板橋駅から歩いて10分のところにあった。
近所は住宅の立ち並ぶ閑静な場所だ。その住宅街に囲まれるようにして小さな公園がある。
ブランコとシーソーがあるだけの、こじんまりとした公園だ。帰り道、酔いを覚ますためにその公園へと立ち寄ることにした。一歩入るとそこは現実から引き剥がされた夢の国。なのだと幼い時分は思っていたはずなのに、今では酒を抜くための立寄り場所になっていることに悲しさを覚える。自分の人生も恐らく、この公園のように休憩のための立寄り場所が所々に点在しているに違いない。そうして何度も何度も自分が歩んできた道を振り返っては内省し、月を見上げて、そんな自分に酔いしれるのだ。なんて自分は可哀想な人間なのだろう、と。そうしてそんなことを考えてしまった自分に再び落ち込む。その、繰り返しを延々と続けていくことが人生なのかもしれない。
ブランコに座り、幼き日々の自分の姿に浸っていた。漠然とした記憶でしかないが、ここにいるのは確かに生きていることに何の迷いもない自分の姿だった。
一際冷たい風が頬に当たる。喝を入れられている気分にもなった。
「…どうしたらいいんだよ」
無職になってしまった自分に、ほとほとついていないな、と呆れることしかできない。
こんな時、愛子はいつも笑顔で僕を元気付けてくれていた。
「ファイトです、先輩。スマイル、スマイル」そうそう、こんな風に。
「まだ始まってもいないじゃないですか、これからですよ」今日はそんなに飲んだだろうか。酔いが一切引く気配がない。こんな幻聴を聞いてしまうなど、これまでなかったことだ。
「大丈夫ですか、先輩?」そっと僕の肩に優しく触れる何かを感じた。
はっ、と横を見やり、絶句した。「…」
「お久しぶりです。先輩」
愛子は、大学生のあの頃のままの愛子の姿ではなかった。少しだけ大人びた、愛子の姿がそこにはあった。
2
「お久しぶりです、先輩」
「愛子…」
そこにいたのは紛れもなく愛子で、でも少しだけ印象が違うのはきっと彼女が僕の知ってる当時の愛子と比べて大人びているからで、でもその大人びた愛子は以前にも増してさらにその美貌に磨きを掛けていて、そんな彼女を僕はあまつさえ抱いてみたいと感じてしまっていた。
先輩、と呼ぶ仕草が懐かしかった。時折見せる、長い髪を耳に掻き揚げながら僕を呼ぶその声。透明な声音は懐かしさを想起させる。彼女を愛子と認識するのに否定的な考えは微塵も浮かばなかった。僕の目の前にいるのは愛子だ。
「驚いたと思います。申し訳ありません、こんなの…変ですよね」
「いや、変…というか」どう表現したらいいのか、わからない、ですか。愛子は微笑んでいた。その反応を見越していたかのように。
素直に首肯した。自分の感情を上手に隠せるような余裕もなかった。驚いてもいるし、嬉しいような気もする。不可解だ、と問い詰めたくもなるし、なんで今更、と飽きれさえ感じる。でもそういうこと諸々を含めて僕は彼女に何を、何と言えばいいのか、一番に訊くべき事柄はなんなのだろうかと必死に探る。が、何も出ない。フリーズしてしまったかのように。
****
ドトールでコーヒーを飲みながら腕時計に目をやると、6時半を過ぎていた。
急いで仕度し、店を出る。
開場が確か6時からでその30分後には開演しているはずだった。
遅刻だ、と思いながらもさして焦っていない自分に気がつく。
むしろこのまま帰ってしまおうかとも考える。僕が行ったところで、と。
泰介はいつごろ出てくるのだろうか。
今日は6組の出演で、ライブ自体は2時間で終るとのことだった。
泰介がいつごろ出てくるのかをあらかじめ聞いておくべきだったな、と舌打ちしながら地下2階へと繋がるエレベーターに乗り込んだ。
泰介は中学からの友人だった。大学を卒業してからも唯一付き合っている地元の級友。親友といっても近い存在もしれない。その割に久しく会っていなかったから、ライブの招待を受けたときは驚き、喜びを同時に感じた。
ライブ会場は小さな鉄製のドアの向こうにあった。
ドアを抜けると小さな机だけで仮設されてような受付。
泰介から前もって渡されていたチケットを渡すと、数枚かのチラシと共にドリンクチケットも一緒に渡された。「奥を行った右手にあります」と促され、今度は木製のクリーム色をしたドアを開けた。
「えー、というわけでですね…こんなしょっぱな下ネタでごめんねっ!って感じなんですけどね…いやまあホント今日のお客さん達はみさなん人間が出来てらっしゃる…」
眼前に広がっていたのは暗い室内で、小さなステージの上に頼りなく照らし出されていた照明の数々だった。その照明に後押しを受ける形で一人の少年が不安そうな笑みを浮かべながら尻すぼみながら話している。
「おっと、また新たなお客さんですか。いやいやいやよく来てくださいまして。ってか途中入室って…もうこれで何人目だよっ!」
一人でボケをして、一人でツッコミを入れている。およそボケともツッコミとも言いがたい、そう高校生が内輪でやるような談笑程度のボケとツッコミ。そこには自己満足しかないはずなのに、目の前の彼はそれをお金を取ったお客さんの前で披露している。
「ちょっとちょっとおにーさーん! なんて顔してんのさー! 元気かーい?」
自分がまさか客いじりのその対象になるだなんて予想だにしなかった。
咄嗟に「ああ、うん」と頼りない声を出してしまう。
結局僕の反応が悪かったのか、演者である少年の技量のなさが原因か、僕と少年との初の絡みは場の空気に飲み込まれるようにして一気になかったものとして扱われた。
僕自身、その絡みに関しては別に大した感慨も持っていなかったのだが、背後から声を掛けてきた泰介は僕を案じ、「ごめんな。いつもはもっと客も多いんだけどさ、今日みたいな少ない日に呼んじゃって」と耳元で心底申し訳なさそうな声を出された。
確かに僕はこういう目立つとか、浮くとか、注目されることが苦手ではあるけれど、今のは違う。違う、と言ったところでまた泰介の気を使わせるだけだろう。
「いや、大丈夫」と応え、隣にいた女性に目がいく。泰介が気づき、照れ笑いしながら「こいつ彼女。今同棲してんだ」と言う。
違うでしょー、食べさしてやってんでしょー。怒ったような注釈をつけはするものの、その口ぶりはどこか甘い。
ライブ会場は30畳ほどの小さな部屋の中で、アングラ的な佇まいを醸し出していた。
泰介は3番目に出るとのことだった。一つのグループに与えられた持ち時間は20分間。
その短い時間の中で、泰介率いる「もずくスマイル」は3曲を披露するとのこと。
ライブをやる以上はもちろん、歌だけではなくMCも重要なパート。そのMCでいかにお客さんを引き付ける事ができるかも、プロとしての技量が問われるらしい。残念なことにもずくスマイルはまだメジャーデビューはおろかインディーズでのデビューも飾ってはいない。泰介自身に関して言えばこれまでにもインディーズだけならばデビューのお誘いがあったらしい。ただ、どれも胡散臭いものだったり、力のないレーベルだったりする。一度どこかの事務所に(それがインディーズとしてでも)所属してしまったらその他のあらゆるコンテストには出場出来ないらしい。本気で売れようと思ったらあらゆるコンテストに出場し、数々の功績を残し、そしてあとは運に任せるのだという。
あまりにも不利な立場ではないか、と思った。と同時にコンテストの審査員やメジャーレーベルのスカウトマンというものは企業で言うところの採用面接官と同じか、と思った。いや、さほど改めて考えるまでもないことだが、どうにも今の自分の状況と重ね合わせてしまう。つまり、就職するのもデビューするのも、最終的には縁であり、運であるのだ。
そこに公平などという言葉は存在しない。
何がしたいのかわからない芸人のような少年は、常に時間を気にしていた。もう終ってしまう、ではなくていつになったら終了時間が来るのだ、と焦っている表情だ。
「えーでは、この辺で今日のメインイベント。僕の敬愛するダウンタウンの松本仁さんが作詞をされたチキンライスを唄いたいと思います。
マイクを持ち、バックミュージックが流れると思ったらあれっ、と思った。
マイクは持っている。が、バックミュージックが流れない。代わりに突然ケータイを取り出し、イヤフォンを耳にはめた。
「僕はですね、こうやって聞きながらでないと唄えないのでして…えー…いきます」
いや、行くなよ。
しかしなかなか歌が始まらない。というかバックミュージックがないからお客である僕達にはいつ始まるのかがわからない。もしかしたら彼の中ではすでに始まっているのかもしれない。イントロを聞きながら、その余韻に浸っているのかもしれない。
「あ、ちょっと待ってください。音が、上手く…流れ…なくて…クソッ」
小さく舌打ちをしたつもりだろうが、しっかりとその音はマイクに入っていた。それほど音響設備もよくないのはわかるが、しっかりと僕の耳に入ってきた。
「あ、行きます行きます。唄います」
誰に言っているのか、もはやわからない。
本人も相当焦っているに違いない。ピンク色とも赤色とも言いがたいケータイが、照明でキラリと輝いていた。
案の定と言うべきか、それとも意外、と言葉にした方が良かったのか、とにかく歌は酷かった。仲間内で行くカラオケにも連れて行きたくないような酷さ。そこには「残念な感じ」という感想だけが残った。
バックミュージックもなく、かといって格別歌が上手いというわけでもない。聞いていて腹しか立たない。それでも最後まで潔く唄いきっていれば僕もまさかここまで言うまい。肝心なのはやっている本人がどこまで一生懸命にやっているか、の問題である。そして彼はお客である周囲を気にしながら、途中半笑いで、恥ずかしい自分を隠しながら(それは隠れてはいないのだけれど)唄いきった。その姿がさらに痛々しさを増して、見ている僕らは誰もが失笑するしかなかった。
一方、泰介のライブは大、とは言わないまでもそこそこの歓声と熱烈な固定ファンのおかげで事なきを得た。
危惧されていた危なげな演奏も無事問題なくやり切ることが出来、彼らの2回目のライブにしては上出来の仕上がりとなった。
「お疲れ」全ての演目を終え、会場は帰り支度やスタッフと談笑を交わしたり、あるいは演者とのささやかな交流による人ごみとざわめきに埋め尽くされた。泰介も結成当時からの熱心な固定ファンとの談笑に花を咲かせている。
「おお、ありがとな、今日は」いや、良かったよ、今日。
初めてもずくスマイルのライブを見た。これまでも何度かではあるが、泰介が曲作りの最中に試し聞き程度で楽曲を披露されたことはある。悪くはない、が自分の心の琴線に触れるような衝撃は受けてこなかった。正直なところ。
「こういう場、ちょっと圧倒されるけど…」
大体、“ライブ”というものに今までの人生の中で触れ合う機会など微塵もなかった。様々な刺激を受けたことも含めての「良かった」というのは本音ではある。
「これからどうするんだ? この後、少数だけど打ち上げやるんだが」このビルの4階にある笑笑でさ。泰介の誘いを断り、僕は一人そのライブ会場を後にした。「ありがとう、でもちょっと行くところがあるんだ」そうか、わかった。じゃあな。
会場の重々しい扉を開けたところでもう一度泰介に視線をやった。泰介もこっちを見ていたが、すぐにファンらしき女の子が近づき、楽しげな談笑に花を咲かそうとする泰介の姿を見て扉をゆっくりと閉めた。
****
「お前は本当に愛子か?」
目の前の愛子に真実を問い詰める。彼女は何も言わないが、その代わりににっこりと優しい微笑をたたえている。
戸惑いを隠しきれないままわなわなと手が震えてきた。寒さのせいだ、と自分に言い聞かせるが、すぐに恐れているのだと素直に認める。
「私、どうしても諦めきれなくて…来ちゃいました」
「なにを諦めきれなかったんだ?」
「大内くんのこと、私、好きだったんです彼のこと」
なんとも意外すぎる告白に動揺を隠せない。まるで愛子らしからぬことを言う。
「意外だな、そんなこと言うとは」
「えへへ。だって、私そんなキャラじゃなかったですもんね」
愛子の考えていることがどうにもわからなかった。彼女は一体何を望んでいるというのだ。それは僕の目の前に現れた理由と深く関係しているのだろうか。
「大内くんに、告白したくてこんな寒い日に現れたんです。私、凍え死んじゃいそうです」
「大内に会いたいなら、場所教えるぞ」
「いいえ。自分で探せますから大丈夫です」じゃあ、俺に何の用があるというのだ。
「……あの日、先輩たちがスキー合宿に行っている間に取りつけた約束…覚えていますか?」
約束…確かに覚えていた。だが、そういえばあの約束は…。
「先輩には…相談できないままだったから…大内くんに告白しようと思ってて、でもあの日、部室に行くことができなくて…それだけが心残りだったんです」
「好きですって。正直に言うべきだろ」愛子は、あの合宿中に死んだのだ、そういえば。病床のベッドの上で。
「ですよね」あーあ。呆れたような、想定内だったような、気の抜けた渇いた声を上げる。
「好きなら、正直に」愛子が僕を見つめて放さない。すべてを見透かしているかのようだ。
「もしこの告白が上手くいったら、先輩、私とデートしてください」意味がわからなかった。
「いいけど」と条件反射で言ってしまう自分にも馬鹿げていると思った。いいけど。なんのことはない、ただの女の子とのデートだ。
3
愛子が大内に告白をした。
彼女の告白は上手くいったのだろう。成功し、狂喜乱舞でもしたのだろう。その証拠にこれから僕は彼女とデートをする。場所は動物園で、開園時間の朝10時からみっちりと動物園デートを楽しむのだという。僕には理解できないが、彼女の言われるがままに状況に流されてみて、特に嫌な思いはしない。
大内からはてっきり何かしらの連絡があると思っていた。愛子先輩が生きてました、とか、告白されちゃいましたとか。でも一切電話の着信がない。もしかしたら彼もまだ頭の整理がついていないのではないかと思う。フリーズだ。しかも同時に愛の告白なんてものまでされたら、思考の働かない頭では首肯するしかないのではなかろうか。僕と似て、雰囲気に流されるところはある。知り合いとは言え久しぶりのデートだ。いささか緊張感を持ち、さりげない程度におしゃれもした。年相応のあまりはっちゃけない程度に。やる気まんまんなんて感想を持たれないようにも気を使った。待ち合わせた正門のチケット売り場前では赤ちゃんを連れた若い夫婦や大学生くらいのカップルがいたが、やがて愛子がやってきた。ひときわ際立つその美貌。周囲の─周囲の女性すらも─見惚れるほどの美しさに、隣で彼氏面をする僕はなぜか誇らしい。優越感に浸る。が、彼女は大内という本命がいるのだと思いだし、自分に大切な人がいないという事実に苦笑する。学生の頃に比べて心が老けた気がするのは、きっとこういう小さな幸せさえも現実感で打ち消してしまうからなのだ。「待ちました?」全然。満面の笑みは、仕事上生きていくための処世術だった。プライベートでさえももう心からの笑みを浮かべる方法を忘れてしまっている。
「俺も今来たとこだよ。俺とデートするってことは、成功したみたいだな」にっこりと笑う愛子にまた見惚れる。
園内は閑散としていたが、愛子の子供のようなはしゃぎっぷりは寒さすらも忘れさせてくれるものだった。彼女は特に大内の話をするわけでもなく、かといってこれまで何をしていたのかを話すわけでもなかった。ひたすらはしゃぐ愛子は、聞かれてはまずいと言わんばかりに僕に質問をさせまいとする。
「なあ、大内とは」空気を壊そうとするつもりはなかった。ただ、気になっただけなのだ。
ふっと愛子の表情から笑顔が消えた。
「どうなったんだ? あいつさ、俺に連絡の一つも寄こさないからさ」冗談交じりに話をすすめる。愛子の表情が明らかに暗い影を落としていたのだ。
「成功、しましたよ。ただそれだけです。それ以上はないです」そう。それは成功と言えるの? と訊き返そうとしてやめた。そこまで空気を読めない人間にもなり下がりたくない。
相撲に勝って勝負に負ける。のだろうか。そんな慣用句がふっと脳裏をよぎった。
「いいんです、これで」愛子は泣いていただろうか。背中から見える彼女の細い身体が震えているのは泣いているせいなのかもしれない。そっと身体を抱き寄せるわけでもなく、声をかけるわけでもない。じっと立って、彼女が立ち直るのをそっと待っていた。
突然ケータイの着信が鳴り、静まり返っていた中をけたたましい音で切り裂いた。
相手は大内だった。くせで通話ボタンを押してしまう。気まずいな、と感じながら愛子には気づかれないようにさっさと電話を切ろうとした。「先輩! ビッグニュース! 愛子先輩に双子の姉妹がいたって!!!!」
慌ただしい声を上げながら興奮を抑えきれない大内は、はあはあと息を切らしていた。
「はい?!」そんなことあるわけがない。現に目の前には愛子がいるのだ。彼女は生きていた。
「先輩」口元をそっと艶美に微笑む愛子がいた。受話口を耳にあてたままの僕に笑みをたたえる。待ち合わせで出会ったときのような笑顔でも、さっきまで無邪気にはしゃいでいた笑みでもなく、怖いくらいに美しい笑みを。
「大内くんからでしょ」そうだけど。
「双子の姉妹がいるって、言ってるのでしょう」間違いない。
「大内くんは間違ってないですよ」本当にお前は、…そうなのか。てっきり…、信じ切っていたのに。
「お姉ちゃんの遺言です。だから、それを叶えてあげようと思って」だから告白しただけで良かったのか。確かに、それなら納得できる。
「でも、私個人でいえば、先輩の方が好きですよ」
「ありがとう」素直に受け取っておくよ。急速に老けてきたような気がして最近殊に潤いがなかったんだ。
愛子の双子の妹だという女。彼女の名前を訊くことはしなかった。姉が愛子、ということならきっとそれに近い名前なのだろう。一般的なイメージで一方的に考えるが、それで構わないと思った。正解を訊いてしまったらやけに現実味を帯びてしまって夢から覚めてしまう気がしたのだ。
彼女が走り去る。何も言わずに、僕はケータイをそっとポケットにしまい込んだ。
彼女とはこのまま不思議な関係のまま終わらせたかった。本心を伝えあわないまま、お互いに秘密を持ち続ける。よく考えたら彼女とは言葉にしなくてもそれを確認しあっていたみたいだ。会話の端々を思い出して、勝手にそう決め付けた。
11月も半ばの空は空気が澄んで青々としてはいる、が、生きている実感などまるで靄みたいにフワフワしている方がどれだけ幸せなことだろう。そっとポケットから差し出した右手のひらを冷たい空気の舞う地上140センチの位置に柔らかく置いた。