吐き出した煙の先にいたのはまぎれもなく私の好きな先輩の雄一さんだった。その煙で雄一さんの顔が覆われて、白い靄の中にふっと閉じ込められたような雄一さんの笑う顔を彼からは見えない位置でこっそりと眺める。そんな小さな幸せが私にとって日々の生きがいだった。彼に恋人がいるという話は聞いたことがない。想いを寄せてい相手がいるという話も。なら、私にもまだチャンスはあるだろうか。彼の長い長い指が私の身体を絡めとって熱く熱く火照る感覚に囚われる様を想像して、夢想して、妄想して、で淫想する。毎回、日課のように。
「太田ぁ」と冗長気味に気の抜けた声を訊いた途端に肩のあたりがピッと緊張を覚えた。
立ち止まり、振り返ることはせず、先輩の右手と左手が私の肩をがっしりと捕まえるのを待つ。膝から力が一気に抜けそうになるのをぐっと堪えて背後を振り返る。すると、そこには男性にしては睫毛が長くて、垂れた子犬のような目で私を見つめる彼の顔があった。眩暈を起こしたまま身体ごと彼に預けることが出来たらどれほど幸せなのだろうと思いながら、同時に湧き出る不安でいつものように返事をする。「はい」
「どうされたんですか? 先輩」
「おめえなあ、先輩に声掛けられたら振り向けよ。いっつもそうじゃねえかよ。そろそろ慣れろよなぁ」
「ごめんなさい。なんだか、まだ癖が抜けてないみたいで」テヘヘ。なんて可愛こぶってみる。もうそんな歳ではないのだけれど。
「今度よぉ、相馬部長の送別会あんだろ? 俺、あれの幹事にさせられちまってよぉ……太田、手伝ってくんない?」先輩が幹事とは珍しい……、めんどくさがりの極みだなんて言われてる人が。
「いいですよ、っても、なんだか珍しいですね、先輩が幹事やるなんて」
「だろぉ? 相沢のやつがたまにはやれって……ったくだりぃこと押しつけるなっての」
「そう……ですか」
「でさ、さっそくで悪りぃんだけど、みんなの分の代金徴収しといてくれるか?」
「はい」満面の笑みでにっこりと、先輩の言うことなら何でも聞き入れる。それが私の信条。
*
デスクから立ち上がり、ちょっと早いお昼を食べに行こうと思った。今日はこの後、3件のプレゼンが待ち構えている。
「太田さん、ちょっといい?」
黒ぶちの楕円を描いた眼鏡をくっと人差し指で整え、狐みたいな眼光で私を睨みつける女。相沢さんがまた私にいちゃもんを付けに来た。
「今日のプレゼンの資料のことなんだけれど、これ、あなただったわよね」
差し出された資料には確かに私の名前が作成者名のところに記されている。プレゼンが延期に次ぐ延期で数週間前には完成させていたはずのものだ。相沢さんにも合格をもらっていた。
「確かに私の書いたものですけど……なにか?」
「これ、書きなおしてちょうだい。プレゼンまでによろしく」
「え、なんで」プレゼンはあと2時間で始まる。お昼の休憩が済んだらすぐだ。
「あの、なにか手違いでも?!」
「だから頼んでるんじゃない」
「ちょっ……いったい何が」
「全体的に薄いのよ、企画の内容がね」はい?
「インパクトも弱いし、相手を説得させるだけの根拠もない。大学生のレポートじゃないのよ」だってこれがあんたが合格を出したじゃないの。問題ないって。よく見もしないで。それって私のせいになるの?
「じゃ、よろしく」でも、きっとやっぱりこれは私のミスだ。私が作成者である以上、評価を受けるのは私なのだから。
広告代理店に入って7年が経っていた。後輩のミスは私のミスに繋がり、教育が悪い、と上司から嫌味を言われる。仕事上だけの嫌味ならまだしも、それが私生活、身体的なことになると尚更酷い。酒の席で思い出して言われるようなことが一番辛い。あんたたち、私をなんだと思ってるのよ、って。
先輩からは常に使える後輩でいなくちゃいけなくて、新人がやるようなちょっとミスなんてしでかした途端これ見よがしに私を叩いてくる。同姓の先輩が特に酷い、わざと私がミスをするように仕向けてくるんだから。
「なによ」
相沢さんの目が嫌いだ。そのキツネのような目が。
溜息を洩らすともう一度私に「じゃ、よろしく」と告げ、自分はさっさと外にお昼を食べにいってしまった。ワインレッドのヒールがリノリウムの床に響く。柔らかく、優しい奏に聞こえるのはきっとこの床のせいだ。
*
プレゼン資料を見直してみても、一体どこに私の不備があるというのだろう。見えない。おそらくテンパりすぎているせいだ。こんな時は落ち着くことさえままならない。部署のほとんどの人達がお昼を食べに出ていってしまった。昼下がりの柔らかな日差しの降りそそぐオフィスで私はどれだけ孤独なのだろう。でもそんな自分に酔っているのもまた確かなわけで。雄一先輩が言っていた、7年前の私への印象。先輩はその頃はまだ別部署で働いていて、そもそも相沢さんを通じて雄一先輩と知り合った。一発で彼の顔に一目惚れして、2年後に彼が異動で私の部署にやってきた時、ようやく私にも幸せの神様が降りてきたと期待した。確かに会社に行くのは嬉しくなったけれど、その分違うところで疲れを感じるようになった。100%の幸せなんてやはり存在しないのだろうか。
「よ、なーに暗い顔してんの」でも、その笑顔を見ると疲れが吹っ飛ぶのもまた確か。
「ちょっと、プレゼンの資料で手こずってて」私のロングヘアーをふんわりと触る仕草が好きだ。撫でられる感触に 陶酔して、そのまま彼と身体を重ね合わせたくなる衝動に駆られる。大きく、長い指。
「あれ、これ相沢が言ってたやつじゃん」
身を乗り出す先輩の左手の小指が触れる。
「太田の企画だったのか、これ」
「そうですけど……」雄一先輩にも言っていたのか。私の出来のなさを。なんなのよ、一体。どうして私の好きな人にそんなこと……。そんなに先輩のことが好きならさっさと二人とも付き合ってよ……。
感情が高ぶって涙があふれそうになる。やだ。先輩の前で泣きたくなんて……ない……。恥ずかしいよ、私はこんな弱い女じゃないもの……。
「すげえいいって、あいつ褒めてたぞ。こんなに出来るやつは自分の次にお前くらいだって」
「……え?」
「お前、相沢に辛く当られてるって思ってんだろ、どうせ。それさ、お前のこと育てたいって思ってるからこそなんだぜ。もうすぐ、辞めちゃうからな」
「なっ、え……っ、な、なに言ってるんですか」
「あのな、相沢、部長と結婚すんだ。んで、二人で新しい商売立ち上げるんだって」
「へ? なななな、なにを」
「部長は再婚、相沢はようやく長年片思いだった相手と結ばれるし……いいこと尽くめだな」
そんな……まさか。
一気に力が抜けて、背もたれに身体を預けてしまう。
結局雄一先輩と相沢さんが両想いだなんて私の勝手な勘違いで終わって、なんだか自分がバカみたいだ。こんな間抜け、先輩は好きになってなんてくれないだろう。緩くなったチェアの背もたれが心もとない。ぐらついててなんだか今までの私みたいに思えてきた。自分だけ足場の悪い場所で、一人で戦っているような気がしていた。でもそうじゃなかったのかもしれない。知らない所で、ちゃんと見ていてくれる人はいたのだ。
仰ぎ見た天井が、やけに低く感じられた。クリーム色のその狭さにも。
自分の居場所が、オフィスにはこのデスクだけしかないと思い込んでいた。違うのだ。もっとちゃんと誰かに甘えていれば良かったのだ。それは許されることだった。
お昼が終わり、オフィスにも人が戻ってきた。昼下がりの静けさがやがて騒々しくなる。誰かが、一緒にいてくれるという幸福感。何も雄一先輩だけに求めなくてもよかった。違う形で、私は誰かに支えられている。
「ねぇ、先輩」
「どうした?」
「好き」とびっきりの笑顔を今度は私が先輩に見せる番だ。
「太田ぁ」と冗長気味に気の抜けた声を訊いた途端に肩のあたりがピッと緊張を覚えた。
立ち止まり、振り返ることはせず、先輩の右手と左手が私の肩をがっしりと捕まえるのを待つ。膝から力が一気に抜けそうになるのをぐっと堪えて背後を振り返る。すると、そこには男性にしては睫毛が長くて、垂れた子犬のような目で私を見つめる彼の顔があった。眩暈を起こしたまま身体ごと彼に預けることが出来たらどれほど幸せなのだろうと思いながら、同時に湧き出る不安でいつものように返事をする。「はい」
「どうされたんですか? 先輩」
「おめえなあ、先輩に声掛けられたら振り向けよ。いっつもそうじゃねえかよ。そろそろ慣れろよなぁ」
「ごめんなさい。なんだか、まだ癖が抜けてないみたいで」テヘヘ。なんて可愛こぶってみる。もうそんな歳ではないのだけれど。
「今度よぉ、相馬部長の送別会あんだろ? 俺、あれの幹事にさせられちまってよぉ……太田、手伝ってくんない?」先輩が幹事とは珍しい……、めんどくさがりの極みだなんて言われてる人が。
「いいですよ、っても、なんだか珍しいですね、先輩が幹事やるなんて」
「だろぉ? 相沢のやつがたまにはやれって……ったくだりぃこと押しつけるなっての」
「そう……ですか」
「でさ、さっそくで悪りぃんだけど、みんなの分の代金徴収しといてくれるか?」
「はい」満面の笑みでにっこりと、先輩の言うことなら何でも聞き入れる。それが私の信条。
*
デスクから立ち上がり、ちょっと早いお昼を食べに行こうと思った。今日はこの後、3件のプレゼンが待ち構えている。
「太田さん、ちょっといい?」
黒ぶちの楕円を描いた眼鏡をくっと人差し指で整え、狐みたいな眼光で私を睨みつける女。相沢さんがまた私にいちゃもんを付けに来た。
「今日のプレゼンの資料のことなんだけれど、これ、あなただったわよね」
差し出された資料には確かに私の名前が作成者名のところに記されている。プレゼンが延期に次ぐ延期で数週間前には完成させていたはずのものだ。相沢さんにも合格をもらっていた。
「確かに私の書いたものですけど……なにか?」
「これ、書きなおしてちょうだい。プレゼンまでによろしく」
「え、なんで」プレゼンはあと2時間で始まる。お昼の休憩が済んだらすぐだ。
「あの、なにか手違いでも?!」
「だから頼んでるんじゃない」
「ちょっ……いったい何が」
「全体的に薄いのよ、企画の内容がね」はい?
「インパクトも弱いし、相手を説得させるだけの根拠もない。大学生のレポートじゃないのよ」だってこれがあんたが合格を出したじゃないの。問題ないって。よく見もしないで。それって私のせいになるの?
「じゃ、よろしく」でも、きっとやっぱりこれは私のミスだ。私が作成者である以上、評価を受けるのは私なのだから。
広告代理店に入って7年が経っていた。後輩のミスは私のミスに繋がり、教育が悪い、と上司から嫌味を言われる。仕事上だけの嫌味ならまだしも、それが私生活、身体的なことになると尚更酷い。酒の席で思い出して言われるようなことが一番辛い。あんたたち、私をなんだと思ってるのよ、って。
先輩からは常に使える後輩でいなくちゃいけなくて、新人がやるようなちょっとミスなんてしでかした途端これ見よがしに私を叩いてくる。同姓の先輩が特に酷い、わざと私がミスをするように仕向けてくるんだから。
「なによ」
相沢さんの目が嫌いだ。そのキツネのような目が。
溜息を洩らすともう一度私に「じゃ、よろしく」と告げ、自分はさっさと外にお昼を食べにいってしまった。ワインレッドのヒールがリノリウムの床に響く。柔らかく、優しい奏に聞こえるのはきっとこの床のせいだ。
*
プレゼン資料を見直してみても、一体どこに私の不備があるというのだろう。見えない。おそらくテンパりすぎているせいだ。こんな時は落ち着くことさえままならない。部署のほとんどの人達がお昼を食べに出ていってしまった。昼下がりの柔らかな日差しの降りそそぐオフィスで私はどれだけ孤独なのだろう。でもそんな自分に酔っているのもまた確かなわけで。雄一先輩が言っていた、7年前の私への印象。先輩はその頃はまだ別部署で働いていて、そもそも相沢さんを通じて雄一先輩と知り合った。一発で彼の顔に一目惚れして、2年後に彼が異動で私の部署にやってきた時、ようやく私にも幸せの神様が降りてきたと期待した。確かに会社に行くのは嬉しくなったけれど、その分違うところで疲れを感じるようになった。100%の幸せなんてやはり存在しないのだろうか。
「よ、なーに暗い顔してんの」でも、その笑顔を見ると疲れが吹っ飛ぶのもまた確か。
「ちょっと、プレゼンの資料で手こずってて」私のロングヘアーをふんわりと触る仕草が好きだ。撫でられる感触に 陶酔して、そのまま彼と身体を重ね合わせたくなる衝動に駆られる。大きく、長い指。
「あれ、これ相沢が言ってたやつじゃん」
身を乗り出す先輩の左手の小指が触れる。
「太田の企画だったのか、これ」
「そうですけど……」雄一先輩にも言っていたのか。私の出来のなさを。なんなのよ、一体。どうして私の好きな人にそんなこと……。そんなに先輩のことが好きならさっさと二人とも付き合ってよ……。
感情が高ぶって涙があふれそうになる。やだ。先輩の前で泣きたくなんて……ない……。恥ずかしいよ、私はこんな弱い女じゃないもの……。
「すげえいいって、あいつ褒めてたぞ。こんなに出来るやつは自分の次にお前くらいだって」
「……え?」
「お前、相沢に辛く当られてるって思ってんだろ、どうせ。それさ、お前のこと育てたいって思ってるからこそなんだぜ。もうすぐ、辞めちゃうからな」
「なっ、え……っ、な、なに言ってるんですか」
「あのな、相沢、部長と結婚すんだ。んで、二人で新しい商売立ち上げるんだって」
「へ? なななな、なにを」
「部長は再婚、相沢はようやく長年片思いだった相手と結ばれるし……いいこと尽くめだな」
そんな……まさか。
一気に力が抜けて、背もたれに身体を預けてしまう。
結局雄一先輩と相沢さんが両想いだなんて私の勝手な勘違いで終わって、なんだか自分がバカみたいだ。こんな間抜け、先輩は好きになってなんてくれないだろう。緩くなったチェアの背もたれが心もとない。ぐらついててなんだか今までの私みたいに思えてきた。自分だけ足場の悪い場所で、一人で戦っているような気がしていた。でもそうじゃなかったのかもしれない。知らない所で、ちゃんと見ていてくれる人はいたのだ。
仰ぎ見た天井が、やけに低く感じられた。クリーム色のその狭さにも。
自分の居場所が、オフィスにはこのデスクだけしかないと思い込んでいた。違うのだ。もっとちゃんと誰かに甘えていれば良かったのだ。それは許されることだった。
お昼が終わり、オフィスにも人が戻ってきた。昼下がりの静けさがやがて騒々しくなる。誰かが、一緒にいてくれるという幸福感。何も雄一先輩だけに求めなくてもよかった。違う形で、私は誰かに支えられている。
「ねぇ、先輩」
「どうした?」
「好き」とびっきりの笑顔を今度は私が先輩に見せる番だ。