午前5時、地平線から太陽が顔を出す瞬間、そこには鮮やかな光の道筋が生まれる。
僕はその光の道筋を眺めることがこの夏休みの習慣となっていた。
どうして習慣となっているかと言ったら毎朝僕は朝の5時に目が覚めるからだ。
じゃあどうして朝の5時に目が覚めるかと言ったらそんなことを教える義理はないから教えたくない。
けど、あえて言うならその5時という時間が僕にとってどれほど重要な意味を持つか、それは僕でさえも計り知れないほどの重要な意味を担っていた。
僕は毎朝5時に、半ば強迫観念に囚われているかのように必ず目を覚まし、朝焼けの滲む晴天の空を眺めていた。
そして僕の病名は強迫神経症だった。

この病気に気がついたのは大学が夏休みに入る直前のことだった。
ひと通りのテストも一段落し、僕は仲のいい友人たちとこれからの夏休みをどう有意義に過ごすか、そればかり考えていた。
皆でファミレスに集まり、雑談しながら色々と計画を立てたり、馬鹿話をしたり、そうやっていつも大学でやっているような当たり前のことをこなしていく。
それはとても楽しくて、そして本当に自分でも気づかないくらいに、それは本当に幸せなことだった。
でも僕は皆に隠していることがあった。
僕は幼い頃から極度の不安症だった。これは医者に診察されたわけではない。
僕が日常感じているだけであって、不安症なんていう症状があるのかも知らないし、本当のところ僕の単なる勘違いなのかもしれなかった。
やがて、僕はその日もまた不安から来る面倒くさいクセを発症した。
まずテーブルに目がいった。
奥のソファの席に座るためにテーブルとテーブルの間をすり抜けるときに左手をテーブルの角にあててしまった。
それだけのことなのに僕はそのテーブルに手をあてた行為を失敗とみなした。
やり直さなければ。
そして僕は周りにいる友人らに目もくれず、ファミレスの入り口に戻り、そこからまた一人でテーブルの場所へと向かった。
当然のごとく友人らは僕を奇妙な目で見たし、店員も、他の客達も僕のことを奇妙な目で見ていた。
僕はその視線に堪えながらテーブルとテーブルの隙間を通り抜ける。手は当たらずにソファに座り込もうとしたその瞬間、ソファの置くにはすでに友人が座っていた。
僕は焦った。そこにいられては困る。そこは僕の席だったのだ。本来ならば僕が座るはずだったのだ。
無理やりに押しのけて友人をどかせる。どかせる時に友人らは僕のことをまた奇妙な目で見ていた。
そして僕に席を譲ってくれた友人はしぶしぶ僕どいてくれたのだが、友人が僕に席を明け渡すために僕が数歩後ろに移動して友人を一度外に出さねばならなかった。
僕は変に焦っていた。
皆から注がれる奇妙な、というか変なものを見ているかのような視線とか、感情とかに堪えながらそれでも僕は何事もなかったかのように振る舞い続けなくてはならなかった。
だからまた失敗した。
また左手をテーブルにあててしまった。ほら、きっとこのまま僕はソファに座ったら今後嫌なことが起こる。
色んなことを失敗する。ダメになる。ダメにする。全てを失敗する。
そして僕はまた、ファミレスの入り口に戻った。
初めからやり直しだ。一からのやり直しだ。
さあ、皆の視線が痛いぞ。誰も彼もが僕のことを好奇な視線で見てるぞ。でも初めからやり直さなければならないのだ。
そうしないといずれ僕にきっと大きな「嫌なこと」が訪れる。

1  真夜中・妻・2008年、暮れ

その映画館はひどくひっそりとした場所にあった。
僕らがその映画館に到着したのが夜中の3時すぎのことで、もちろんのことだけれど人なんている気配などなかった。
僕の隣には結婚して3年になる妻がいて、眠たそうな顔つきのまま僕の右手を握ったまま離そうとしなかった。
映画館のドアを潜り抜けると、ロビーのような場所が広がっていた。ガラスケースが並び、コカコーラの見本カップが飾られてあり、映画の宣伝用のパンフレットが整然と積まれてあった。その中の一つを手にとって、ズボンの尻ポケットに丸めて突っ込んだ。
「こっちだよ」
妻の手を引きながら僕が進んだのは、やわらかい合成革の感触のした分厚そうなドアの中だった。入ると、ひんやりとした空気が身体のまわりを包んだ。
徐々に暗闇に慣れてきたのか、僕らが大体どのあたりにいるのかがわかるようになってきた。僕らは今、画面に向かって、最後尾の席の最も右側にいた。ぼんやりと画面の輪郭がわかった。
席数は数百ほどあるのだろうか。
僕らの街にある映画館の中では最大級の規模だった。
何もない無音の中では、恐ろしいほどひっそりとしすぎていて、理由のない恐怖が僕の身体のまわりを包むようでもあった。
「本当にここにあるの?」
消え入りそうな妻の声が聞こえてきた。
「大丈夫だよ。心配ない」
不安はあった。妻につよがりを言ってはいるが、僕自身、本当にここに探していたものがあるのかどうか、漠然とした自信すらなかった。できるのは、内心で祈りつづけることだけだ。
「どっち?」
手紙の文面によれば、探し物の正確な位置は示されていなかったがその代わりにヒントが提示されていた。
「あっち、非常灯のところ」
画面に向かって、最も左側の最前列の席、その席の左手に見える非常灯のすぐそばのドアを僕らは開けた。
手紙の文面によればそのドアを開けて、5メートルほど歩いた先に目的の探し物はあるのだと書かれてあった。
ドアの向こう側はもちろん暗闇のままではあったけれど、それでも何も見えないというわけでもなかった。劇場内と微妙に空気が違う。外からの生暖かい風が混じった、気持ちの悪い空気を身に纏う。
妻もそれは感じたようだった。
さっきまで僕の右手を握っていた彼女の力が、ふっとやわらいだ。
そろそろと歩みを進める。左手は壁に触れながらだった。
やがて、一本の筋のような細い光が、僕の視界に入ってきた。
                                                                    続く
 何も、彼女のことを誑かすとか、そういう気持ちで付き合ったわけではないのに、実際に今の僕の前にいる彼女は間違いなく怒っていた。
目に涙を溜めながら、噴出しそうな涙を流すのをこらえて、まっすぐに下ろされている両手がグゥの形のまま。
 ここは駅の構内で、彼女と僕はその構内の階段下のところで行きかう人々が群れをなす中、向き合って見つめ合っていた。
「どういうことなの?」
 鼻水と涙が交じり合ったような声で、彼女がそうやって訊く。僕はその問いかけに一瞬、間を置いてゆっくりと声を紡ぐ。
「だからさ、いいかげん分かってよ。カナはただの仕事先の同僚で、昨日はみんなで飲んでたんだよ。それでカナが酔っ払って俺に抱きついてきただけなの」
「信じられない」
 僕は昨夜、仕事先の同僚と一緒に飲み屋で2時間ほど飲んでいた。帰りがけになると、カナという僕より3っつ年下の子が僕に抱きついてきて、
「せーんぱいっ」
 なんて、はたから見ても明らかに絡まれてると分かるような光景を、僕は今目の前にいる彼女に見られたというわけだ。
 しかし、現に目の前にいる彼女はそんな光景を見て、僕が浮気をしているのだと勘違いし、逆上し、その場で泣き伏せてしまった。
 酒の入っていた僕は、それで一気に意識を取り戻し、彼女の肩に手をかけようとした瞬間、─彼女は僕の気配に気が付いたのか─彼女が僕の手を振り払い、
今まで見たこともないような素早さで僕の目の前から消え去った。
 春も終わりに近づいた夜の風を赤らんだ頬に受けながら、人ごみに紛れて消えていく彼女の後姿をただ眺めているだけの僕がいた。



改札を抜けて、これから駅に乗り込む人々や、家路につく人々の群れの中、彼女はまたしても地面に泣き伏せる。
「ねえ…」
 膝と膝の間に顔を埋めて、きっと涙を流して、目頭を熱くさせてるのだろうなと予想される彼女が小さくポツリと呟いた。
「ホントに違うの…?」
「違うよ」
 その問いかけにいいかげん信じろよ、てか正直こんなところで蹲られても困るのは俺で、この場を収集しなきゃいけないのも俺で、
周りの連中から痛々しい視線を浴びせられるのも俺であると愚痴を零しながらも、そんなことを声に出して言ったらさらに事態は悪化してどうしようもなくなると考え、
だからこの上ない優しさを込めて、俺は満面の笑みを浮かべ、お前のすべてを受け入れるよ、お前のそのパニックになりやすい性格とかすぐ泣くところとか、
独占欲丸出しのところとか全部ひっくるめてお前が一番で、お前がいなきゃ俺は生きていけないよなんて大げさなくらいに感情を表に出した表情で、
電車のジリリリリリリという合図を背に受けながら、返事をする。
「ホントに…?ねえ、ホントのホントのホントのホントに?」
「ホントだよ」
 少し顔を上げ、上目遣いに俺を見上げる。
 涙が流れて、彼女の目の下がマスカラで黒くなっているそんな彼女を見て、俺は再び満面の笑みで返事をする。
「えへへへ…、ありがとう……ごめんなさい…」
「うん。俺も悪かったからね。勘違いさせて本当にごめんね」
「ううん。勝手に勘違いした私が悪いの。だからター君は何も悪くないの。悪いのは私なの、本当にごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」
「もういいから。大丈夫だから、ね?」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
 とにかく彼女を立ち上がらせ、この場から逃げるように離れ、駅の裏の人気のないベンチに彼女を連れて行く。
ベンチに座った彼女は、落ち着きを取り戻したらしく、まだ目頭を熱くさせたまま彼女は僕を見つめて、次の瞬間僕の口唇に自分の唇を押し付ける。
 街頭も何も僕らを照らす明かりはなくて、唯一見えるとしたら、ベンチの前にそびえ立つ観葉植物みたいなよくわからない草木の向こう側に広がる、大小それぞれのビルから放たれるネオンの光だけだった。
それで僕はこんなことの繰り返しを続ける僕や僕の唇を獣のごとく食べ、口の中に舌を突っ込んで、まるで自分の存在する証を残すかのように唾液を流し続ける彼女の顔を一瞥すると、そのまま僕はベンチに寝転がり、
夜空を背にした彼女と身体を密着させた。
 彼女のキスで分泌される唾液と夜風で運ばれてきたクチナシの香りが混じって、僕の頭の中は靄が掛かったように今までの全てをどうでもよくさせた。