3  光・映写機・君の手


そろそろと歩みを進めるにはいささか慎重すぎたのは認める。
しかし決して恐れがあったわけではない。僕の性格のせいだ。
妻にそんなことを言ったことがあった。
今のように慎重にならざるをえない状況に陥ったときのことだった。
あのときはたしかインターネット上で何かの契約を結ぼうとしていたときで、普通なら見向きもしないはずのご契約書なるものを僕が

生真面目に見入っていた後ろで、妻がそんなことを言い放った。
「そんなの、誰も見ないわよ。そんなに難しい顔しなくてもいいじゃない」
「でも、何があるかわからないじゃないか」
「あなたくらいよ。いまどき、そんなの見るの」
「うるさいな。いいじゃないか、見といて越したことはないだろ? 不安要素があれば一つでもつぶしておくべきさ」
「ほんと、生真面目なんだから」
「こればっかりはどうにもね。そういう性分なもんで」

……なた。あなた!
意識を取り戻した僕の目の前にあったのは、妻の顔だった。
「あなた、どうしたの?」
懐中電灯のライトの光が眩しかった。僕らはまだ真夜中の映画館の中にいたのだ。
「早く行きましょう。もうすぐそこじゃない」
妻が指差した場所へと目をやった。細い光の筋がそこにはある。
手紙の指示通りにこなせば、僕らの目的のものがあるはずだった。
「行こう」
妻の手を引いて、僕は歩みを進める。
細い線のような光は僕らの身体に差し込んだ。視界を眩しい光が包むと、目の前をはっきりと捉えられなくなった。さっきまで暗がり

にいたせいで、目をあけることさえも困難な状況だった。「……っ」
なにも見えないまま足取りだけは、ゆっくりとではあるが確実に前に進んでいた。
そのうちに物事の輪郭がはっきりと見えてくることを望んでいるかのように、それはやけに楽天的なものだった。
「眩しいよ……」
妻の言葉に呼応するかのように、徐々に光度が弱まってきた。やがてやわらかな光となって僕らの眼前を明るく照らし出す。
光の中に見えたものは一台の古びた映写機だった。
淡く白い光の中を僕と妻はそろそろと、その映写機に近づいていった。
「なに、これ」
妻が言ったのは映写機に対してもだが、それともう一つあった。
それは写真止めのコーナーだった。四隅に三角形の隙間のあいた箇所がある。
「これは写真を止めるためのものだな」
「写真を?」
「うん。ほら、今じゃあまり見なくなったけどさ、フィルムで撮るカメラがあるだろ?使い捨てのとかさ」
「ああ」
「あれで現像した写真をそこの四隅でとめてるんだよ。じいちゃんが言ってた」
僕の祖父は映写技師だった。
今では誰も知らないような職業。かつて、日本で邦画全盛だった黄金時代、街のあちこちに単館の映画館は山のようにあったと聞いて

いる。オリオン座、なんていう星座の名前をつけるのが主流だったらしく、街を歩けば星座がそこここにあったらしい。
「でも……」
「うん?」
彼女が腑に落ちないという声を出した。
「手紙に書いてあったあなたの目的のものって…映写機のことだったの?」
「まさか」
僕だって信じられないさ。それにこんなものが答えであってほしくない。この手紙の真相はもっと別のゴールに繋がっているはずなの

だ。そう思いたいだけなのかもしれない。ということも認めた上で。
「これは単なる映写機。処分されずに残っているだけだろうね」
「じゃあ、あなたの探し物って?」
そうここにはこの映写機以外なにも見当たらない。僕だって焦っている。不安がこみ上げている。
映写機がヒントなのだろう。わざわざ手紙を用意して、僕をここに誘導し、何事もなくあっさりと見つけられる探し物が探し物である

はずがないのだ。これは僕に与えられた試練。少し過敏に考えてみる。これまでの僕を思い返し、僕に関わってきた人々のことに思い

をめぐらしてみる。僕の、妻と共に手紙に振り回される姿を見て、最も楽しむ人物は誰なのか。それをその人物になりきって考えてみ

る。僕がその人物であったなら、次に僕自身にどのような行動を起こしてほしいだろうか。心の底から嬉しさに舞い上がる僕の行動は

一体なんであるだろうか。そして妻にどのような災難が降りかかってほしいか。
ゆっくりと閉じていた瞼を開いた。眼前に広がったのはやはり映写機だけだが、写真止めのコーナーはじつはそこだけ真新しくなって

いることに気がつく。
そうなのだ、そのコーナー、後から新たに付け加えられたものだった。それもごく最近、もしかしたらそれが僕らへの次の誘導かもし

れない。「なあ、写真って入ってなかったか」
手紙の入っていた封筒の中に、まさか都合よく写真が入っているわけもないか。
「そんなものないわよ」
妻は素っ気なかった。
「写真と同じ大きさのものって何がある?」
「この大きさは少し小さいわよ、あなたが思ってる写真の大きさよりは」
妻が指でコーナーの横と縦の長さを図る。大体の見当をつけ、「二周りは小さいかも、……名刺? くらいの大きさね」
だとしたら、それはキャッシュカードだったり、レンタルショップの会員カードだったりとほぼ等しい大きさなのではないか。
何でもいいのだろうか、そこにピタリとはまれば。
試しに(とはいいつつ一応名刺を)はめてみる。折り曲げることは容易いし、四隅のコーナーにピタリとはめることが出来る。それは

もらった時からずっと僕の財布の奥底でひそかに息づいていた。いつまでも忘れられることもなく、時折僕に当時の記憶を蘇らせるア

イテムとして。表には氏名や役職、住所などの情報を記載し、裏は彼女の写真がプリントされていた。
まだ元気だった頃の、病院のベッドの上で笑っているかつての恋人の。
妻に見られないようにプリント面を裏にし、優しい手つきで写真止めコーナーへとそれをはめ込んだ。



【続く】



2  海岸・彼女・記憶

その映画館はひどく古びたたたずまいだった。
東京から電車で3時間と15分を硬いシートの上で過ごして、辿りついたのはおよそ映画館とも呼べぬような廃屋だった。
それは海岸沿いにある─見方によれば廃棄となった海の家─のような様相をしていた。砂浜には紙コップや空き缶、スナックの袋だったり、ビール瓶なんかが無造作に放ってあった。
濃い灰色の砂浜に打ち寄せる濁った海の水が打ち上げられた数々のゴミをさらっては再び打ち上げていた。その光景が、期待に胸を膨らませていた僕にとってどれだけ大きな傷跡を残したかことか。あるはずの蒼い海と足元の指に優しく挟み込まれる砂の感触を僕は感じることができない。それを僕は自覚してしまった。
そして、どこかからか軋む音が響いてきて、僕はその音のする方向に目をやった。波の音に掻き消されそうになりながらも、僕の耳に届く独特なあの音色の先を辿った。それは先ほど落胆したはずの廃屋から聞こえていた。迷うことなくその建物に近づき、ドアと思しき扉を開け、その中へと歩みを進めた。

真っ暗な空間が広がる。でも完全に真っ暗とも言いがたかった。ところどころ、天井や壁から外の光が光線のように漏れ、幻想的な雰囲気を作り上げている。光のあたる地面を見るに、どうやら足元はコンクリートの床で覆われている。色はどこにでもありそうな灰色のものだった。ただ、ところどころコンクリートは欠けていた。歩くたびに感じるのは、無作為に穴の開いた床や、ボロボロと砂利のような音のする響きだった。
「ねえ、いい? 中央の床を一枚剥がすの。そうすればわかるわ」
1週間前に届いた手紙に書かれてあったのは、その科白と僕がするべき内容、そして便箋の下のほうにこの海岸までの小さな地図が手書きで記されていた。
仕事をしていなかった僕は、退屈を持て余す日々に耐えかね、さほどその手紙の意味を考えることもなく彼女の指示に従った。彼女は今ごろ病院の片隅でベッドに横たえているのだろう。最後に彼女に会ったのは確か、2ヶ月前の9月のことだった。それ以来、彼女とは会っていない。正確に言えば会いたくなかった。会えなかったのだ。僕は彼女との約束を破り、そのまま深い眠りについてしまった。眠り姫のように深い深い永遠とも思えるような永い眠りだった。
「いい? 絶対に約束よ。私と一緒に、海岸沿いの映画館に行くの。古くて、寂びれていて、誰も寄りつかない孤島のような映画館。あなたと私とでもう一度復活させるのよ」
「ああ、約束だ」
僕がしてやれるのは、彼女との約束を交わすことくらいだった。たとえ、それが嘘だったとしても。


【続く】

「タバコは身体に悪いんだよ。吸ってるだけで免疫力が低下するし、呼吸器を傷つけたりもするから感染症のリスクが上がったりするんだ。感染症ってさ、ガンとかと同じくらいに死因の割合をしめてるんだよ? 兄貴、それでも吸うっての?」
大学を出て、僕が社会人になって3年目の頃、弟はよく僕のアパートに遊びに来ていた。
仕事が忙しいせいでまだ引越しの荷物は部屋に散乱していて、人をいれるような状態ではなかったのだが、
「俺が手伝うからさ、いいだろ?」との条件でこれまでも何度か弟を招待していた。
これまでにも何度か僕のアパートには来たことがあったから弟には適当な時間に来てもらう、というのが通例だった。
ただ、今回はめずらしく思っていたより仕事が長引き、ほどなくしてケータイにメールが入っていた。
「兄貴のアパートの近くにイイ感じのバー見つけたからそこで待ってる。終ったら連絡くれ」と。
その時は仕事を片付けるのに精一杯で、メールの内容は流し読みした程度でケータイを閉じた。


                  0 僕と弟 ~序、或いは日常~


「いらっしゃい」
ドアを開くと落ち着きのある熟年の紳士を思わせる声が耳に入ってきた。
店内はオレンジ色の灯りで包まれ、やわらかな雰囲気をかもし出している。
「遅かったじゃないか、兄貴」
「すまんすまん。ようやく終ってな」
「社会人ともなると忙しいんだな」
「まあな」
弟はカウンターのテーブルに一人で座っていた。店内を見渡すとそれほど客は入っていない。
弟の前にはマスターらしき男性がグラスを拭きながら佇んでいた。
弟の左隣に座り、とりあえずカバンを足元に降ろした。
「お疲れ」
言いながら弟が右手にビールグラスを前に差し出していた。
「兄貴もビール?」
「うん」
じゃあ、お願いします。マスターにそう告げる弟とマスターはなぜか古くからの知り合い同士であるかのような親しみさがあった。
「どうぞ」と、差し出され、ビールで乾いた喉を潤した。
「ふぅ」
「兄貴、ここさ、いいところだろ」
「あぁ、まさか家からこんな近いところにこんなバーがあるなんてな。びっくりしたよ」
本当に近かった。バーを右に出て、しばらく歩けば昨日引っ越してきたばかりの家のアパートが見えるのだから。
「知ってたのか? ここ」
「いや、今日初めて知ったんだよ。どっかで時間潰そうかなって思ってたら偶然にもね」
「そうだったか」
じゃあ、マスターとも今日が初めてってことか。ふと、そんなことを考えていた。
「じゃあ、」と言ってマスターを指差しながら弟に目で合図した。
この人とも初めて会ったんだよな、と。
「あぁ、そうそう」
と言うと、弟は姿勢を正し、一つ咳払いをした。
「こちら、このバーのマスターで、名前は……」
そこまで言うと弟が急に言葉に詰まった。どうやらマスターの名前を聞いていないことに今更気がついたらしい。
弟が目配せをすると、マスターが自ら名前を口にした。
「ここの常連さんたちからは『マスター』という名で通ってるのでそう読んでいただければ」
普通は本名を教えられるものだと思っていたが、こういうこともあるのだな、とある意味で関心していた。
「わかりました。マスター」
どうも、と会釈するマスターはにこやかな表情を浮かべていた。
「あ、灰皿、借りてもいいですか?」
「どうぞ」
マスターから手渡されると、スーツの内ポケットからマルボロを取り出した。
バーの名前がプリントされたマッチを借り、タバコに火をつけた。
白熱灯に照らされた店内をタバコの煙が漂っていく。
「兄貴、いい加減タバコなんてやめろよ」
「なんだよ、急に」
「最近、大学の講義で習ったんだ。喫煙者は非喫煙者と比べて肺炎球菌感染症になるリスクが2倍から4倍も高いんだ。それにインフルエンザにかかる感染リスクも数倍高いし、肺結核の危険も高いんだって」
「そ、そんな難しい言葉並べ立てるなよ、頭がいたくなるっての。それに今更言われたってな……実感湧かないぞ」
「だからダメなんだよ、兄貴は。備えあれば憂いなしって言うじゃないか。今のうちから減煙し始めるべきだよ。そしたらそのうちタバコなんて吸いたくなくなる」
「タバコが身体に悪いことは知ってるが、そんなわざわざそこまでしてって思わないか?」
「でもさ、タバコって吸ってるだけで免疫力が低下するし、呼吸器を傷害したりもするから感染症のリスクが上がったりするんだ。感染症ってさ、ガンとかと同じくらいに死因の割合をしめてるんだよ? 兄貴、それでも吸うっての?」
「まあ、死にたくはないけどさ。実際」
「だろ? だったら少しでも早く手は打っておくべきだよ。値段にしたって今は300円そこそこだけど、いつ値上がりするかわかったもんじゃないだろ? 金の無駄だよ、そんなの」
「うっ……」
弟の言うことは何ひとつ間違っていなかった。
昔から正論を着て歩いているような人間だから、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれなかった。
ただ、そんな弟でも過去に一度だけ正論を着て歩いたことがなかった。
「マスターも何か言ってあげてくださいよ、兄貴ったらいっつもこうなんだから」
そうだね。と落ち着いた声でマスターは相槌を打っていた。
「でもね」と、マスターが続けた。
「喫煙者の人からすると、やっぱり理論より事実を見せつけられない限り、止められないものなんじゃないかな」
「そんな。マスターまで兄貴の片棒持つんですか?」
「いやいや、そういうわけじゃなくてね。当事者とその周囲の人たちの間にはどうしても越えられない壁っていうのがあるんだ。決して理解しあえない想いっていうのかな。考え方が根本的に違うからね。目に見える事実が必要なんだよ、君のお兄さんも含めてね」
「そんな難しいこと言われても、僕にはわかりません」
はははっ。
マスターは愉快そうに笑っていた。
「とにかくさ、兄貴は今からでも徐々に減らしてくべきだよ。なんなら俺が監視したっていい」
「おいおい、勘弁してくれよ。お前は俺の彼女か何かか?」
「そうだよ、そういえば兄貴の彼女だってタバコ嫌がってなかったっけ?」
「あぁ、だからあいつの前ではいつも吸わないようにしてるけど」
「だったら協力してもらおうよ。うん、それがいい。さっそく後で電話だな」
弟は名案を思いついたかのように、目を輝かせはじめた。
「おいおい……マジかよ」
「兄貴のためだよ。観念してくれ」
「本気なんだな」
「俺は冗談を言わない。今までもそうだったろ?」
「あぁ、確かに」
「さてと。行こうぜ、兄貴。今度は兄貴ん家で飲みなおそう」
「わかったわかった」
「じゃあ、マスターごちそうさまでした」
「お、おいっ。お前代金は?」
「俺をこんなにも待たせたんだ。兄貴が支払ってくれるんだろ?」
弟はそう言うとさっさと一人で店を出て行ってしまった。
「大変だね、君も」
帰り際、マスターが愉快そうに喋りかけてきた。
「ええ、まあ。でも、大切な弟ですから」
「良い兄弟の手本のようだ、君たちは」
どうも、と軽く会釈をし、レジを去ろうとした。
「実はさ、僕もなんだよ」
「はい?」
「タバコ、僕も吸ってるんだ。弟さんには内緒だよ」
そう言うマスターの口元には人差し指が一本立てられていた。
「了解です」
店を出るとにわか雨が降り出していた。                        


【続く】