「タバコは身体に悪いんだよ。吸ってるだけで免疫力が低下するし、呼吸器を傷つけたりもするから感染症のリスクが上がったりするんだ。感染症ってさ、ガンとかと同じくらいに死因の割合をしめてるんだよ? 兄貴、それでも吸うっての?」
大学を出て、僕が社会人になって3年目の頃、弟はよく僕のアパートに遊びに来ていた。
仕事が忙しいせいでまだ引越しの荷物は部屋に散乱していて、人をいれるような状態ではなかったのだが、
「俺が手伝うからさ、いいだろ?」との条件でこれまでも何度か弟を招待していた。
これまでにも何度か僕のアパートには来たことがあったから弟には適当な時間に来てもらう、というのが通例だった。
ただ、今回はめずらしく思っていたより仕事が長引き、ほどなくしてケータイにメールが入っていた。
「兄貴のアパートの近くにイイ感じのバー見つけたからそこで待ってる。終ったら連絡くれ」と。
その時は仕事を片付けるのに精一杯で、メールの内容は流し読みした程度でケータイを閉じた。
0 僕と弟 ~序、或いは日常~
「いらっしゃい」
ドアを開くと落ち着きのある熟年の紳士を思わせる声が耳に入ってきた。
店内はオレンジ色の灯りで包まれ、やわらかな雰囲気をかもし出している。
「遅かったじゃないか、兄貴」
「すまんすまん。ようやく終ってな」
「社会人ともなると忙しいんだな」
「まあな」
弟はカウンターのテーブルに一人で座っていた。店内を見渡すとそれほど客は入っていない。
弟の前にはマスターらしき男性がグラスを拭きながら佇んでいた。
弟の左隣に座り、とりあえずカバンを足元に降ろした。
「お疲れ」
言いながら弟が右手にビールグラスを前に差し出していた。
「兄貴もビール?」
「うん」
じゃあ、お願いします。マスターにそう告げる弟とマスターはなぜか古くからの知り合い同士であるかのような親しみさがあった。
「どうぞ」と、差し出され、ビールで乾いた喉を潤した。
「ふぅ」
「兄貴、ここさ、いいところだろ」
「あぁ、まさか家からこんな近いところにこんなバーがあるなんてな。びっくりしたよ」
本当に近かった。バーを右に出て、しばらく歩けば昨日引っ越してきたばかりの家のアパートが見えるのだから。
「知ってたのか? ここ」
「いや、今日初めて知ったんだよ。どっかで時間潰そうかなって思ってたら偶然にもね」
「そうだったか」
じゃあ、マスターとも今日が初めてってことか。ふと、そんなことを考えていた。
「じゃあ、」と言ってマスターを指差しながら弟に目で合図した。
この人とも初めて会ったんだよな、と。
「あぁ、そうそう」
と言うと、弟は姿勢を正し、一つ咳払いをした。
「こちら、このバーのマスターで、名前は……」
そこまで言うと弟が急に言葉に詰まった。どうやらマスターの名前を聞いていないことに今更気がついたらしい。
弟が目配せをすると、マスターが自ら名前を口にした。
「ここの常連さんたちからは『マスター』という名で通ってるのでそう読んでいただければ」
普通は本名を教えられるものだと思っていたが、こういうこともあるのだな、とある意味で関心していた。
「わかりました。マスター」
どうも、と会釈するマスターはにこやかな表情を浮かべていた。
「あ、灰皿、借りてもいいですか?」
「どうぞ」
マスターから手渡されると、スーツの内ポケットからマルボロを取り出した。
バーの名前がプリントされたマッチを借り、タバコに火をつけた。
白熱灯に照らされた店内をタバコの煙が漂っていく。
「兄貴、いい加減タバコなんてやめろよ」
「なんだよ、急に」
「最近、大学の講義で習ったんだ。喫煙者は非喫煙者と比べて肺炎球菌感染症になるリスクが2倍から4倍も高いんだ。それにインフルエンザにかかる感染リスクも数倍高いし、肺結核の危険も高いんだって」
「そ、そんな難しい言葉並べ立てるなよ、頭がいたくなるっての。それに今更言われたってな……実感湧かないぞ」
「だからダメなんだよ、兄貴は。備えあれば憂いなしって言うじゃないか。今のうちから減煙し始めるべきだよ。そしたらそのうちタバコなんて吸いたくなくなる」
「タバコが身体に悪いことは知ってるが、そんなわざわざそこまでしてって思わないか?」
「でもさ、タバコって吸ってるだけで免疫力が低下するし、呼吸器を傷害したりもするから感染症のリスクが上がったりするんだ。感染症ってさ、ガンとかと同じくらいに死因の割合をしめてるんだよ? 兄貴、それでも吸うっての?」
「まあ、死にたくはないけどさ。実際」
「だろ? だったら少しでも早く手は打っておくべきだよ。値段にしたって今は300円そこそこだけど、いつ値上がりするかわかったもんじゃないだろ? 金の無駄だよ、そんなの」
「うっ……」
弟の言うことは何ひとつ間違っていなかった。
昔から正論を着て歩いているような人間だから、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれなかった。
ただ、そんな弟でも過去に一度だけ正論を着て歩いたことがなかった。
「マスターも何か言ってあげてくださいよ、兄貴ったらいっつもこうなんだから」
そうだね。と落ち着いた声でマスターは相槌を打っていた。
「でもね」と、マスターが続けた。
「喫煙者の人からすると、やっぱり理論より事実を見せつけられない限り、止められないものなんじゃないかな」
「そんな。マスターまで兄貴の片棒持つんですか?」
「いやいや、そういうわけじゃなくてね。当事者とその周囲の人たちの間にはどうしても越えられない壁っていうのがあるんだ。決して理解しあえない想いっていうのかな。考え方が根本的に違うからね。目に見える事実が必要なんだよ、君のお兄さんも含めてね」
「そんな難しいこと言われても、僕にはわかりません」
はははっ。
マスターは愉快そうに笑っていた。
「とにかくさ、兄貴は今からでも徐々に減らしてくべきだよ。なんなら俺が監視したっていい」
「おいおい、勘弁してくれよ。お前は俺の彼女か何かか?」
「そうだよ、そういえば兄貴の彼女だってタバコ嫌がってなかったっけ?」
「あぁ、だからあいつの前ではいつも吸わないようにしてるけど」
「だったら協力してもらおうよ。うん、それがいい。さっそく後で電話だな」
弟は名案を思いついたかのように、目を輝かせはじめた。
「おいおい……マジかよ」
「兄貴のためだよ。観念してくれ」
「本気なんだな」
「俺は冗談を言わない。今までもそうだったろ?」
「あぁ、確かに」
「さてと。行こうぜ、兄貴。今度は兄貴ん家で飲みなおそう」
「わかったわかった」
「じゃあ、マスターごちそうさまでした」
「お、おいっ。お前代金は?」
「俺をこんなにも待たせたんだ。兄貴が支払ってくれるんだろ?」
弟はそう言うとさっさと一人で店を出て行ってしまった。
「大変だね、君も」
帰り際、マスターが愉快そうに喋りかけてきた。
「ええ、まあ。でも、大切な弟ですから」
「良い兄弟の手本のようだ、君たちは」
どうも、と軽く会釈をし、レジを去ろうとした。
「実はさ、僕もなんだよ」
「はい?」
「タバコ、僕も吸ってるんだ。弟さんには内緒だよ」
そう言うマスターの口元には人差し指が一本立てられていた。
「了解です」
店を出るとにわか雨が降り出していた。
【続く】
大学を出て、僕が社会人になって3年目の頃、弟はよく僕のアパートに遊びに来ていた。
仕事が忙しいせいでまだ引越しの荷物は部屋に散乱していて、人をいれるような状態ではなかったのだが、
「俺が手伝うからさ、いいだろ?」との条件でこれまでも何度か弟を招待していた。
これまでにも何度か僕のアパートには来たことがあったから弟には適当な時間に来てもらう、というのが通例だった。
ただ、今回はめずらしく思っていたより仕事が長引き、ほどなくしてケータイにメールが入っていた。
「兄貴のアパートの近くにイイ感じのバー見つけたからそこで待ってる。終ったら連絡くれ」と。
その時は仕事を片付けるのに精一杯で、メールの内容は流し読みした程度でケータイを閉じた。
0 僕と弟 ~序、或いは日常~
「いらっしゃい」
ドアを開くと落ち着きのある熟年の紳士を思わせる声が耳に入ってきた。
店内はオレンジ色の灯りで包まれ、やわらかな雰囲気をかもし出している。
「遅かったじゃないか、兄貴」
「すまんすまん。ようやく終ってな」
「社会人ともなると忙しいんだな」
「まあな」
弟はカウンターのテーブルに一人で座っていた。店内を見渡すとそれほど客は入っていない。
弟の前にはマスターらしき男性がグラスを拭きながら佇んでいた。
弟の左隣に座り、とりあえずカバンを足元に降ろした。
「お疲れ」
言いながら弟が右手にビールグラスを前に差し出していた。
「兄貴もビール?」
「うん」
じゃあ、お願いします。マスターにそう告げる弟とマスターはなぜか古くからの知り合い同士であるかのような親しみさがあった。
「どうぞ」と、差し出され、ビールで乾いた喉を潤した。
「ふぅ」
「兄貴、ここさ、いいところだろ」
「あぁ、まさか家からこんな近いところにこんなバーがあるなんてな。びっくりしたよ」
本当に近かった。バーを右に出て、しばらく歩けば昨日引っ越してきたばかりの家のアパートが見えるのだから。
「知ってたのか? ここ」
「いや、今日初めて知ったんだよ。どっかで時間潰そうかなって思ってたら偶然にもね」
「そうだったか」
じゃあ、マスターとも今日が初めてってことか。ふと、そんなことを考えていた。
「じゃあ、」と言ってマスターを指差しながら弟に目で合図した。
この人とも初めて会ったんだよな、と。
「あぁ、そうそう」
と言うと、弟は姿勢を正し、一つ咳払いをした。
「こちら、このバーのマスターで、名前は……」
そこまで言うと弟が急に言葉に詰まった。どうやらマスターの名前を聞いていないことに今更気がついたらしい。
弟が目配せをすると、マスターが自ら名前を口にした。
「ここの常連さんたちからは『マスター』という名で通ってるのでそう読んでいただければ」
普通は本名を教えられるものだと思っていたが、こういうこともあるのだな、とある意味で関心していた。
「わかりました。マスター」
どうも、と会釈するマスターはにこやかな表情を浮かべていた。
「あ、灰皿、借りてもいいですか?」
「どうぞ」
マスターから手渡されると、スーツの内ポケットからマルボロを取り出した。
バーの名前がプリントされたマッチを借り、タバコに火をつけた。
白熱灯に照らされた店内をタバコの煙が漂っていく。
「兄貴、いい加減タバコなんてやめろよ」
「なんだよ、急に」
「最近、大学の講義で習ったんだ。喫煙者は非喫煙者と比べて肺炎球菌感染症になるリスクが2倍から4倍も高いんだ。それにインフルエンザにかかる感染リスクも数倍高いし、肺結核の危険も高いんだって」
「そ、そんな難しい言葉並べ立てるなよ、頭がいたくなるっての。それに今更言われたってな……実感湧かないぞ」
「だからダメなんだよ、兄貴は。備えあれば憂いなしって言うじゃないか。今のうちから減煙し始めるべきだよ。そしたらそのうちタバコなんて吸いたくなくなる」
「タバコが身体に悪いことは知ってるが、そんなわざわざそこまでしてって思わないか?」
「でもさ、タバコって吸ってるだけで免疫力が低下するし、呼吸器を傷害したりもするから感染症のリスクが上がったりするんだ。感染症ってさ、ガンとかと同じくらいに死因の割合をしめてるんだよ? 兄貴、それでも吸うっての?」
「まあ、死にたくはないけどさ。実際」
「だろ? だったら少しでも早く手は打っておくべきだよ。値段にしたって今は300円そこそこだけど、いつ値上がりするかわかったもんじゃないだろ? 金の無駄だよ、そんなの」
「うっ……」
弟の言うことは何ひとつ間違っていなかった。
昔から正論を着て歩いているような人間だから、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれなかった。
ただ、そんな弟でも過去に一度だけ正論を着て歩いたことがなかった。
「マスターも何か言ってあげてくださいよ、兄貴ったらいっつもこうなんだから」
そうだね。と落ち着いた声でマスターは相槌を打っていた。
「でもね」と、マスターが続けた。
「喫煙者の人からすると、やっぱり理論より事実を見せつけられない限り、止められないものなんじゃないかな」
「そんな。マスターまで兄貴の片棒持つんですか?」
「いやいや、そういうわけじゃなくてね。当事者とその周囲の人たちの間にはどうしても越えられない壁っていうのがあるんだ。決して理解しあえない想いっていうのかな。考え方が根本的に違うからね。目に見える事実が必要なんだよ、君のお兄さんも含めてね」
「そんな難しいこと言われても、僕にはわかりません」
はははっ。
マスターは愉快そうに笑っていた。
「とにかくさ、兄貴は今からでも徐々に減らしてくべきだよ。なんなら俺が監視したっていい」
「おいおい、勘弁してくれよ。お前は俺の彼女か何かか?」
「そうだよ、そういえば兄貴の彼女だってタバコ嫌がってなかったっけ?」
「あぁ、だからあいつの前ではいつも吸わないようにしてるけど」
「だったら協力してもらおうよ。うん、それがいい。さっそく後で電話だな」
弟は名案を思いついたかのように、目を輝かせはじめた。
「おいおい……マジかよ」
「兄貴のためだよ。観念してくれ」
「本気なんだな」
「俺は冗談を言わない。今までもそうだったろ?」
「あぁ、確かに」
「さてと。行こうぜ、兄貴。今度は兄貴ん家で飲みなおそう」
「わかったわかった」
「じゃあ、マスターごちそうさまでした」
「お、おいっ。お前代金は?」
「俺をこんなにも待たせたんだ。兄貴が支払ってくれるんだろ?」
弟はそう言うとさっさと一人で店を出て行ってしまった。
「大変だね、君も」
帰り際、マスターが愉快そうに喋りかけてきた。
「ええ、まあ。でも、大切な弟ですから」
「良い兄弟の手本のようだ、君たちは」
どうも、と軽く会釈をし、レジを去ろうとした。
「実はさ、僕もなんだよ」
「はい?」
「タバコ、僕も吸ってるんだ。弟さんには内緒だよ」
そう言うマスターの口元には人差し指が一本立てられていた。
「了解です」
店を出るとにわか雨が降り出していた。
【続く】